封じられた武神
<Side of Zoe>
花畑に帰ってきた。皆そこから一気に自分の部屋へと帰っていく。俺はアレスと一緒に帰り始めた。
「……ゾーエー」
「うん?」
「なんでこっち来た」
「決まってるだろ、お節介しに来たんだ」
笑って言ってやれば、アレスは諦めたように笑った。デイモスとフォボスに迎えられて、そのまま俺を寝室に引っ張り込むアレスにぎょっとしていたのはディオメデスとヘラクレスだった。
部屋に入ってヒマティオンを脱いで、キトンだけになったら随分と軽くなった。アレスはベッドに腰かけて俺を手招いた。
「どしたん」
「何が気になったのか、言ってみろ」
「尋ねれば教えてくれるのか?」
「ものによる」
アレスの答えに、これは期待できないなあと思って俺は息を吐いた。
まずは頭の中を整理しよう。
俺が気になったのは、まず、前々からのことなんだが、そもそも俺とアレスの力が逆転するなんてあり得るのかということだ。俺の方が強いとか言いながら、それでもそのままアレスは俺の上にいるわけだ。あと、アレスはいつも同じアクセサリをつけっぱなしにしている。額にサファイアブルーのスイングする石を金細工の環で留めてあるものと、同じ色の石のピアスだ。手首にもジャラジャラと3連ほどの金細工の環に宝石を組み込んだアミュレットが光り、アンクレットも2連ずつという凝りようなのだ。作ったのは大方ヘファイストスだと思うけれど、着飾るためというよりは随分とシンプル、アレスはあまり目立たない方が好きだからそれに合わせたとも考えられないことはないが、シンプルすぎる。確かに綺麗に曲線を描いて綺麗なのだけれども。
よし、聞いてみるか。
「そのアクセサリさ、着飾るためのものじゃないと思うんだ。だったら用途は何だろうって」
「答えられないな」
「やっぱりかこの野郎」
期待通り、期待にそぐわない返答があって、俺は苦笑した。アレスが俺を抱き寄せた。
「でも、よく気付いたな。ヘファ兄かなり頑張ってたのに」
「アレスを飾るならアフロディテには控えめなくらいだけれどもっとキラキラしたモノの方がいいだろうよ。少なくとも俺ならそうする」
「同じことヘファ兄に言われた」
アレスが柔らかく笑った。見上げるとアレスの顔が見える。フード、もう取ればいいのに。
「なあアレス」
「ん?」
「お前、自分のこと戦闘狂だって言ってたよな、それが嫌なのか?」
「……ああ、それも嫌だ」
「……“も”?」
「!」
アレスははっとしたような表情をした。話したくないなんて言ったって、やっぱり聞いてほしいことってあるよな。俺はちゃんと聞けるだろうか?
「……なあ、泣いてもいいか」
「なんで許可とるんだよ。泣くのはおかしくねーよ」
「……う、ん」
アレスの目に涙が溜まっているのが分かった。
「……俺は。死にたいんだ。理性で戦に勝てるなら俺はいらない」
頬に涙が落ちてきた。アレスの綺麗な目が揺らぐ。
アテナのことだろう。アレスはアテナにコンプレックスを抱いているんだ。女傑女神と勝利をもたらす女神のセットなのだから当たり前か。でも、狂わないなら生きていけないと思うよ、俺は。戦場での勝者は生き残ったやつなんじゃないか。なら、勝利も敗走も同じだ。フォボスは自分に自信がないなんてことはなかったよ。それとも、アレスはもっと根本的な部分に問題があるのか。
「存在そのものが無意味なんだ、違う、嫌だ、アテナの理由付けに使われたくない」
聞いてもいないアレスの本音がボロボロと零れ始めた。アレスが影のようだと思ったのは1度や2度ではない、この短期間の間に何度も思った。ならば光は何だ。アテナか。
「なんで俺は神なんだろう、神は死ねない、俺は死ねない。死にたい、殺して、心だけでも」
縋るような目が俺を見た。心が死んだらもうそれは死んでいるのと同じだよ、アレス。
いつかネットで聞いていた曲を思い出した。
自分が居なければいいじゃないか、それで世界中が笑うならときっとこの神は平気で思うだろう。ああゼウスよ、ヘラよ!なんということをしてくれたのだ!
この神の中には純粋なまでに傷つけられ砕き伏せられた子供しか残っていないではないか!
昔は15で元服当たり前なんてよく言ったものだ、まったくそうだ、15歳を超えれば一般常識はもう身についていて、こうして目の前に自分よりも子供が現れた時自分が大人なのだと感じさせられる。
ザクザクと俺の体が傷付いていく。アレスがそれに気付いた。
「あ、ゾーエー……」
「やめるな、アレス。ここでやめちゃだめだ。この傷はお前の傷だ。一緒に背負うから全部話せよ、言いたいこと全部言ってよ、こんな痛いのひとりじゃ耐えられない」
俺がここにいるから、その傷を分けてくれ。
流れ出した金色の液体。俺が人間だったらとっくに死んでいる量溢れ出ていて、アレスの傷の深さを思い知らされた。いやきっとこれはまだいい方だ、傷付くことすらなくなったらもう終わりだ。流れる血がなくなったら本当に終わりだ。
俺がもともとアレスという神格に感情移入していたせいもあるだろうけれどさ、それでも。彼を支えられるなら。
ああポセイドンよ、あなたを恨みます、なぜ地震なんぞ起こしたのかと。しかし今は感謝の言葉しか出てこない、ありがとう殺してくれて!結果的に俺は神になり、アレスの傷を背負うことが出来る!
「もう、いやだ。アテナと並んで立っていたいのに、戦争の表と裏なのに、周りから比べられるのが嫌だ、もう消えてしまいたい」
アレスは止めることなく言葉を吐き出す。そのまま受け取る俺の頬が傷付いた。
「父様、タルタロスに落としてくれればよかったのに。そうすれば皆を不快にすることも嘲笑われることもなかっただろう、誰かをファミリアに持つこともなかった、皆を死なせなくて済んだかもしれなかった!」
ああ、やはりそこに帰結するのかお前は。首筋に切り傷がつく。
「俺を“封じ”手元に置くくらいならば、タルタロスに閉じ込めてしまえばよかったのに!! 俺はあの説明で納得していたのにっ……!!」
「―――え?」
今、なんつった?
“封じ”られた?
俺を抱きしめるアレスの腕に力がこもる。俺は、気になったそのワードをゼウスに問い質すことにして、アレスの話に聞き入った。
「俺さ、皆をいっぱい傷つけたんだ。だから存在することが罪なんだよ。俺はいちゃいけないんだ」
そう言って自分に言い聞かせて納得させようとして―――納得できなかったんだろ。ズパンと音がして、左手首が吹っ飛んだ。痛い痛い痛い痛い!!
無意識に遮断していた痛みは視覚情報のせいで蘇ってきた、俺は手首を視界から外した。
「……じゃあ、さ、アレス」
「うん……?」
「神話の、真実が知りたい……ヘファイストスはああ言っていたけれど。あの神話の続きに繋がらなくなる、だから何かあったんだと思うんだ……」
俺の声は本当に俺の声かと思うほど弱々しくなっていた。アレスは小さくうなずいた。
「ヘファ兄の今日の話―――あれは本当。育てるに育てられなくてエレクトラのとこに預けた……でも、その後も俺はアフロディテと体を重ねたよ。そっちでヘファ兄に捕まった」
なんで楽しそうなんだろう。
「ヘファ兄はね、呆れたように言ったんだよ。『泣くなよ、お前は泣かなくていい』って」
たぶんアレスは捕まったから泣いたんじゃない。後ろめたさから泣いてしまったんじゃないだろうか、そこをヘリオスに捕まったとかそんな感じだろう。それをヘファイストスはわかって、それでその言葉になったんじゃないか。
「アフロディテは俺を愛してくれた、母様とは違う愛だけれど、俺は嬉しかった、幸せだった、ああハルモニア、俺が幸せを感じたばっかりに!」
そしてお前はこうやって幸せを語った後に襲い掛かった子供の不幸を自分のせいにするのか。右手の小指が吹き飛んだ、ピンポイントになって来たな。
歪んだ心は戻らない。ひしゃげた心は戻らない。鉄で作られた剣や槍と盾を振るうはずの軍神の心を打ちなおすことはできない、だって軍神は鉄ではないのだから!!
某ゲームのキャラクターの呪文にあったな。その心は鉄でできていた。アレスの言った抵抗した500年、確かに長い。長すぎた。鉄は叩けば曲がってしまうんだぞ。熱すれば加工の対象でしかないのに。たとえアレスが鉄の心を持っていても、500年はあまりに長いだろう。叩かれ続けてアレスは諦めた。何を?全てを。己の持ちたかったもの全て、欲したもの全てを諦めた。諦めて厚い氷と鉄の壁で蓋をしたアレスの心に、上から降ってくる今のアテナやアポロンの言葉は届いていないんじゃないか。きっとアレスは箱の中に閉じこもって、誰の前にももう出たくないと泣いて泣いて、泣き疲れて。
「きっとね、アルキッペのことも、テーバイのことも、ハルモニアのことも、全部俺が悪いの。アマゾネスたちも、皆皆死んでった、俺の子供は不幸になっていくの。デイモスとフォボスもきっとつらい思いしてる、俺が親だったばっかりに」
「……ああ、そうだな」
「!」
俺が初めて示した肯定にアレスは俺を凝視した。
「ああ、そうだな、アレスが親だったばっかりに皆不幸になってるよ。だってさ」
俺は小指のなくなった右手でアレスの頬に触れた。
「自分たちの親になったことを後悔して、ごめんねごめんねって言って、笑ってくれないやつが父親なんだもんな」
一番タチ悪いと思うよ、それ。
アレスは目を見張った。
アレスの体が袈裟懸けに切れた。
「……」
「アレス。お前はやり方は大雑把だけど、規模はでかくなりがちだけど。間違ってないよ。アレスはアレスのままでいいじゃんか」
精一杯大きな声で言う。アレスの目からまた涙が零れる。
「……っ、でも、皆、俺のこと、嫌ってっ……」
「お前がたとえ嫌われ者だったとして、それがなんだ。皆って誰だ。神々か。なら神々に背中向けて人間見てろ! アテナの加護を受けられない凡人を守ってるのは誰だ! お前だろ! 自信持てなんて言わない、強くなれとか言わない。アレスはアレスのままでいれば十分なんだ。アテナがアテナのままで、ゼウスがゼウスのままで居るように!」
伝えたいことが伝わらない、うまく伝わっているだろうか。アレスにこの声は届く?
何か急に吐き気がこみあげてきて、アレスから顔を背けた。
「げほっ、がはっ」
口から溢れたのは金色の液体で、ああ血を吐いたのかとぼんやり納得した。
アレスが俺の肩口に額をつける。
「……も、いい。もう、いいからぁっ……」
そっか、これを反動だと思っているんだな。違うぞアレス、これは反動なんかじゃない、その証拠が、お前もぶった切れていることだ。
「アレス……この傷は、お前の傷だって、言ったろ。だからこれでいい、お前が昨日言った言葉、お前に返してやりたかったんだ、“皆こうならいいのに”って、その皆の中にお前も入れってな」
自分の傷だといわれると、途端に隠そうとする。
アレスはどれだけ心配されているかわかっていない。言葉でつけられた傷は、言葉では癒せないことの方が多いから。
「……なあ、これだけ言わせてくれ」
俺はアレスに向き直るためにアレスから離れた。
「あ……」
名残惜しそうな声をアレスが漏らす。なんだよそれ、なんかかわいいんだけど。
「アレス、両親から嫌われた子供って、愛されることなんてありえないって思うことがあるらしいぜ。お前がまさに今その状態だと思う」
息を吸って、もう一度。
「でも、両親以外誰も愛してくれないなんてありえない。アフロディテがそうだったんだろ。嫌われ者は愛されちゃいけないなんて誰も決めてない。笑って、笑ってよアレス。幸せになってよ。幸せになったアレスが見たい」
言ってしまってから、しまったと思った。ああ、俺はなんて愚かなんだろう!
「……今のが、お前の願いの答えか」
ほら。気付かれてしまった。
「願いを叶えたらどうなるか、知ってるだろ」
きっと彼は俺の願いを叶えてはくれない。
「俺はお前と対等で居たいのに」
優しくて自分勝手で傷付きやすくて、
「従属なんて認めない」
ほら、俺がアレスの幸せを壊してしまった。
デイモスとフォボスは、話し声がしていた父の部屋の明かりが消えてもいないのに静まり返ったことに不安を覚えて、入り口を遮るように掛けられている布を押した。
中に入ってすぐに、2柱は泣き叫ぶことになった。
「とうさあああんっ!!」
「ゾーエーっ!」
駆け寄り、尋常ではない2柱の出血量にデイモスとフォボスは涙を流した。
どうして気付かなかった、ゾーエーの役割は何だった、アレスが気に入ったからと言ってむやみに近づけさせるべきではなかった。
後悔の涙、そしてゾーエーへの憎しみへと。
デイモスとフォボスの大声にもかかわらずアレスとゾーエーは目を覚まさず、大声を聞いて駆け付けたアキレウスとディオメデスが悲鳴を上げた。
「なんですかこれは!?」
「これはどっちがやったのかわからんではないか」
今にもゾーエーに切りかからんとするフォボスの剣をディオメデスが弾いた。
「邪魔するなっ!!」
「愚かな。このような時に我を忘れてはならぬっ! ゾーエーが権能で戦ったにしてはアレスの傷の数が少なすぎる! 大振りだがな」
ディオメデスはフォボスの剣を部屋の端へと蹴りやった。
「アキレウス、そなたの俊足の力を貸せ」
「いいだろう」
「アスクレピオスがよかろう。アレスはただでさえ衰弱している、一刻を争うぞ」
「んじゃあ、アテナの部屋突っ切るからね、弁明しといてよね!」
「ああ」
どたどたと音を立ててヘラクレスとオデュッセウスがやってくる。
「ちょうどよかった、ヘラクレス、オデュッセウス」
「なんだこれは……ひどいな」
「少しこの傷を見てくれんか」
ディオメデスはヘラクレスとオデュッセウスともにアレスとゾーエーの傷を見る。
「……なんという切れ味。まるで極東の刀だな」
「ゾーエーの出身は極東だったらしい。関連はあるかもしれん」
「それにしてもズッパリいってるね。でも殺す気がないのはあからさま。……ちょっと待てよ、」
オデュッセウスは見つけてしまった。ゾーエーの首飾りの金具が壊れているのを。
「これは、封印宝具!? これが壊れるほど力を使ったのか!?」
ヘラクレスが声を上げた。オデュッセウスは少し考えて、口を開いた。
「……もしもこの場でゾーエー・クスィフォスが権能を使っていたとしたら、今もまだその効果は出るだろうな。今は拘束するものがなく、溢れている状態のはずだ」
「……刃の神だと言っていたな。しかしこの部屋に刃物はアレスの武装以外ないぞ」
ディオメデスは辺りを見回して、剣を拾い上げて鞘に収めたフォボスを見る。フォボスの興味は自分たちの話に移っているらしい。
「いや、最も鋭利な刃物があるぞ、ディオメデス」
オデュッセウスの言葉にディオメデスはオデュッセウスを見る。
「なんだと?」
「もっとも厄介で鋭利な刃―――“言葉”だ」
「言葉? 言葉だと!? 言の葉にそのような力があるのか? それでアレスを傷つけたと?」
「極東の使う表意文字は覚えているか、ディオメデス」
「……ああ」
静かなオデュッセウスにディオメデスは興奮を抑えてうなずいた。
「言葉は通常、”言”語の木の”葉”、と書くが……”刃”も”ハ”だ」
「!」
嘘は人を傷つける、言葉選びに気をつけよ、よく言われる話であり、それを失念していたことをディオメデスは恥じた。それと同時に、オデュッセウスが言いたいことも理解した。
「”言の刃”で”コトバ”か。……ならば、この傷は?」
「口論を聞いたものがいれば手を上げてほしいが」
そろそろアレスの屋敷にいるものはほぼ全員集まっていた。しかし手を上げるものはなかった。
「静かでしたよね」
「ああ、口論しているようではなかったよな」
使用人たちは首を傾げた。その時、「う、」と小さく呻く声が聞こえて、皆振り向いた。ゾーエーが体を起こしたのだった。