解呪Ⅰ
「……?」
アレスは探していた、暗闇の中、ついこの頃自分の許に加わった幼い神を探していた。あの神はとても純粋だ、人間だったのか本当にと問いたくなるほどに純粋で、自己犠牲の精神はそこまで強く見えなかった。それなのになんだというのだこれは。
アレスは黒一色に染め上げられてしまった幼い神の館へ踏み入れ、泣きたくなった。
部屋の位置ぐらい覚えている。彼の寝室へやってくると、その漆黒の闇に舌打ちした。
「まるでエレボスだな」
昨晩幼い神の権能に乗せられて彼を傷つけ、気を失い、次に見たのはアスクレピオスという時間の飛びようだ。
結局自分は何も変わっていないのだとアレスは痛感した。
幸せなぞ求めるからいけないのだ。
これ以上の幸せなどいらない。
自分のファミリアになってくれるものがいるだけで、息子たちがいるだけで、娘たちがいるだけで、自分を理解しようとする英雄たちがいてくれるだけでもう十分なのだ。
それなのにあの幼い神を傷つけるだけでアレスの心は軽くなったものだ。彼はアレスに傷つけていいと言った、傷つけろと言った。それが何より不可解である。
アレスはそこで考えるのをやめて、ようやく捉えた幼い神に触れた。
「ゾーエー」
なるべく優しく名を呼ぶ。その時、ふと思考が垣間見えて。
アレスの幸せに俺の願いをすべて使ってしまおうか
ゾーエーは泣いていた、すべてを黒く染め上げる闇の中からゾーエーを引きずり出し、アレスはその体を掻き抱いた。
何故そう思ってしまうのか。
アレスにその願いはあまりにも重かった。数日前に知り合ったばかりのはずの者にこうも思われる理由が分からない。彼は何もアレスのことを知らないとまではいかずとも、神話など廃れた世界で生きていたはずだ。それなのにゾーエーの言葉はひとつひとつがアレスの心に届く。どうしてかはわからない。ただ、温かく、微睡んでしまいそうなほど心地よい想い。
感受性の豊かな世代の子供というのは、穢れやすく、血生臭いものを知らない。ゾーエーはまだ大人と子供のはざまにある世代だっただろう。それがいきなり神代に投げ込まれ、いきなり強大な力を任され、困惑も多く、それでも務めを果たさんとした結果の本音に、アレスに掛けた願いに。
アレスは。
それを切って捨てたのだ。
「っ……!」
胸を引き裂かれる思いとはまさしくこういうものだろうとアレスは思う。呼吸を忘れるほど苦しい。息子が、娘が、助けを求めたり、それすらできずに殺されていった過去を背負うアレスにとって、アテナのような、いわゆる自分より強いものに対して突っかかること以外で名を知った物を目に見える形で傷付けたのは初めてのことだった。
大人げないとかそういう問題ではなかった。
アレスはゾーエーを受け入れていたのだ。
デイモスもフォボスも自分よりもずっと出来が良かった。流石アフロディテの息子たち、ハルモニアだってそうで、叱ったことなんてなかった。殴ったことも叱り飛ばしたこともない、注げるだけの愛情を精いっぱい注いできた。
それは、ゾーエーに対しても同じ。
息子が1人増えた気分だったのだ。
それを傷つけたことがどれだけアレスの心にダメージを与えたことだろう。
それでも立っていなければならぬとアレスは床を踏みしめた。
ここで倒れてはいけない、情けない、これしきのことで結界を揺らがせてはならない!
しかしアレスはアレスの思う以上に傷付いていたのだ。
ゼウスはアレスの館に出向いた。デイモスとフォボスがゼウスを出迎えたが、その表情に注意して彼らを見れば、無表情、無感情にゼウスを見ていた。興味などないというように。仮にも祖父であり王であるゼウスにそのような反応を示した2柱に対し怒りの声を上げる従者を制し、ゼウスはひとりでアレスの館へと踏み入れた。
「ゼウス大神」
「おお、ヘラクレス」
館の中は簡素で装飾などありもしない。アレスらしいと言えばそうだった。
アレスはもともと細々したものは見るのが好きなだけで持っていようとしたことはない。欲しがったこともあったが大体ヘラかエオス、アテナへの贈り物として欲しただけであった。
アレスの館のはずなのに、アレスのいる痕跡がないのが苦しくなる。
アテナの館など、入ってすぐに槍だの剣だの斧だのを組んで壁に掛けてあるというのに。同じ軍神でもこうも違うのかと、もっと早く様子を見に来るべきだったとゼウスは今更ながらの後悔をする。
「……失礼ながら、戯言と聞き流し下さい」
ヘラクレスが小さく言った。ゼウスははっとした。
「もっと早くお越しになっていたら、きっとここにはたくさんの槍が飾ってあったことでしょう。アレスはどんなに質の低い剣でも、ファミリアの使ったものは大切にとっておかれる方だ。ええ、50年前の戦争を境に、アレスはとうとうふさぎ込んでしまった。アレスの本来の神格を取り戻させてください、ゼウス大神」
懇願に近かった。小さく、アレスは、と問えば、東にある黒く染まった館にいると返ってくる。
「……黒? 光の溢れるこのオリンポスで、黒か」
「……ゾーエーが、塞ぎ込んだものかと」
「!」
昨夜自分を気遣い本当に言いたかったことはほとんど怒鳴り散らすこともなく去っていった幼い神を思い、ゼウスは東の館へ向かった。
確かに、黒い。
オリンポスではこの暗く闇を連想させる色は好まれない。底のないタルタロスを思わせるつやのない黒は余計にそうなのだが、まさしくタルタロスだエレボスだと例えたくなるようなどす黒いオーラに包まれた館。ゼウスは足を踏み入れた。長時間いたらアレスでも気が滅入ってしまいそうだとすら思った。
「アレス、ゾーエー」
目的の2柱の名を呼び、奥へ歩を進めると、ごそ、と音がした。音のした方へ慌てて走っていけば、入り口はどこなのかわからない暗闇の中で、アレスの体が淡く赤く光っているためにようやく確認できる程度の存在感しかなかった。アレスはどうやら、起こしに来たのに眠ってしまったようで。
2柱のあどけない寝顔を見ることになったゼウスは、ほうと息を吐いた。
ゾーエーは泣いているものと見えた。
ヘリオスならばこの闇を晴らすことが出来るだろうか、などと思った時、ゾーエーが目を開けた。
「……う、ん……?」
イコルに濡れたままのキトンとヒマティオン、どうやらあのまま眠っていたようだなとゼウスは苦笑し、とりあえず自分のキトンとヒマティオンを出した。
「ゾーエー。おはよう」
「うー……? おはよー……え?」
一気に意識が覚醒したらしいゾーエーは目の前にあるゼウスの顔に驚き、重たい体に驚いて辺りを見渡し自分を抱きすくめているアレスを見て驚愕の表情を浮かべた。
「え、なんでここに? アレスはともかく、ゼウスまで?」
「アレスとゾーエーに用事があったからここへ来たんだ」
「ああ……なるほど。ちょっと待って、アレス起きてるだろ放せよ」
「いやだ」
ゼウスは苦笑した。ああ、これは何かアレスの気に入らないことをゾーエーがしたのだとすぐにわかった。それも、自分が禁じたことだ。
「ゾーエー、アレスから離れていくのは許さんと言ったはずだが」
「くそアレ有効なのかよ! もう願っちゃったんだぞ!?」
「知ったことか。ステュクスにも誓ってないくせに、お前の願いなんか無効だボケ」
アレスがゆっくりと顔を上げた。近くに白い羽が落ちている。黒い靄が一気に晴れていった。
「じゃあアレスが幸せになるにはどーすりゃいいんですかねー」
「とりあえずその無意識の自己犠牲精神捨てたらどうだ」
「俺がいつ自己犠牲精神を出したと!?」
「お前の死に様はハデ伯父上から聞いてるぜ、ガキ3人連れ夫婦と年下2人助けて自分は勝己と一緒に死んでんだから無意識の自己犠牲だろ」
「あれは死ぬと思ってなかった!」
「普通は地震が来たら死ぬって思うだろ」
「あの揺れはやばいと思ったけど! 震度4とかザラだし……」
アレスの口調が少し荒くなっていることに気付いたゼウスはアレスの頭を撫でて、装身具をひとつひとつ見始めた。
「王?」
「……アレス、もっかい呼んで」
「王」
「……アレス、どしたのその口調?」
「……嘘、マジかよっ」
アレスはゼウスの意図に気付き装身具を確かめ始めた。そして、アンクレットがボロボロになっているのを見つけた。
「嘘だろ……5000年も壊れなかったのに!」
「金は錆びないからなぁ……え、ちょっと待って、それ封印宝具なんだろ?」
「そうだよ! つかなんで知ってんの!?」
「俺のもそうだったらしいから。俺のも昨日お前とやりあった時壊れちゃってさ」
「あー。じゃあそん時俺のも逝ったんだきっと」
2柱は顔を見合わせ、ゼウスの方を向いた。ゼウスはバツが悪そうにしているアレスとゾーエーを抱きしめた。
「「!?」」
ゼウスは185センチぐらいだろうか。アレスよりは低いしゾーエーよりは高い。ゾーエーの手は控えめにゼウスの背に回されたが、アレスは困惑している。ここですぐに手を回してもらえないことこそ、ゼウスにとってはアレスを蔑ろにしてきた自分への罰だった。
「2人には、辛い思いをさせた。アレス、お前の封印を解くことが決まった」
「え……なに言ってんだよ、そんなことしたらアテナが!」
「アテナからの進言だ。それにこのままでは、ゾーエーにも多大な負担がかかることになる。アレス、ゾーエーの神力はハデスに匹敵すると思え」
「っ!!」
アレスがびくつく。ゼウスはアレスが不安がるのを感じ取って、きつく抱きしめた。
「これで分かっただろう。僕とゾーエーに血縁がない以上、ゾーエーの上にいられるのはアレスだけだ」
「……だ」
「?」
「もう、いやだ……!」
「……」
ゾーエーは自分を引き取るのを否定されたのではないと理解しているから慌てない。ゼウスはアレスの頭を撫でた。
「利用されたくない。そうだ、言っていいんだ」
お前はいつからか何も物言わぬ存在となった。それが崩れたのはほんの1000年ほど前のことだったのだから、かなりの長い時をアレスは己の声を発することなく過ごしていたことになる。機械のように淡々と与えられた仕事をこなし、終われば何を話すでもなく静かに消え去っていく。立つ鳥跡を濁さずどころか、いなかったことにすらなってしまいそうな静寂に包まれた。あの冷たさは忘れられない。
残虐だ残忍だと罵られ、それに対して吠えていたころのアレスがどれだけ愛おしくなったことだろう?己の顔を持っていたころのアレスは確かに手のつけようのないドラ息子ではあったけれど、それでも息子だった。馬鹿だ阿保だヘタレだと罵られ、酒の勢いでゼウスが嫌いだと言ったりタルタロスに落としてやりたいと言った時だって、ぎゃああすんませんと慌てた様子を見せていた。
まだ、笑っていた。あの頃は。
今のような切なくいつ消えるかわからず、束縛して閉じ込めてどこへも行かぬようにと願わせるような顔は見せたことがなかった。
アレスは確かにそこにいた。今のアレスはどこにいる。
いつしか無表情のアレスに問うたことがあった。戦は好きかと。アレスは答えた。好きだと。だが果たして本当にそう思っていたのかと、その真意はと聞かれれば僕にはわからない。無感情な目で応えたのだから。
アテナとヘファイストスがアレスと仲良くなり始めたことを知った時、もうアレスはローブに身を包む回数が多くなっていた。美しいその容姿を見るものは少なくなり、とうとうアレスは僕とヘラの前ですらローブを脱がなくなってしまった。忌み嫌う己自身の存在を、はて皆の目に留まることのないようにと逃げるように広間を去ることが多くなったアレスを追うのはいつもヘファイストスとアフロディテで、アルテミスとアポロン、ヘルメスの嫌味に対してアテナが言い返して部屋を出ていく、そんな時も長くは続かず。次第にヘルメスがアポロンから離れてアレスに構うようになっていった。ディオニュソスと仲が悪いのかと思っていればそんなはずもなく、祖父と孫は仲が良かった。
ヘルメスとのつながりにもかかわらずイリスとは冷え込んだままで、ヘルメスによくアレス宛の伝令を頼むようになっていた。そのあたりでヘラが豹変した。
なんてことをしてきたのかとヘラが悲嘆に暮れ、どうしたと問えばアレスが笑ったの、と悲しそうな顔で言った。ならば何をつらそうに言うのかと問えば、幸せそうに笑ったの、私は目を合わせただけ、あの子の話を聞いただけ。どうしようもうあの子はいないのだわ、私が壊してしまったのだわ、ヘファイストスを壊して気付かされていたはずなのにどうして同じことを繰り返しているの私は、もう母上とは呼んでくれないのねと咽び泣いた。
過ちに気付くのはいつだって後からで、それを悔やむから後悔というのだと言うけれど、僕たちはアレスの強い心に頼っていただけだった。毎日敵意に晒されればアレスだって嫌だと思うだろうし、どうしてそれに気付けなかったのかな。
僕たちにアレスが笑顔を見せてくれた時、この悪ガキめと思っていたころがあった。もっとおしとやかに笑えないのかって思った時期があった。笑わなくなったアレスを見て、お願いだから笑ってくれと願った時期があった。切なく、僕が思い描いていた通りのおしとやかな笑みを浮かべるアレスを見て、頼むからまたあの元気な笑顔を見せてくれと今は願っていて。なんて自分勝手な親だろう!
ポセ兄が、アレス、戦争だよと言った時、戦場に出たくないとアレスは言った。皆が狂気に呑まれて死ぬ確率が上がるというのならもう俺は戦場に出ないと嘆いた。その戦争にアレスは参加しなかった。アレスが参加したほうが死者は少なかったでしょうとアテナに告げられた、そう、アレスにしか付き従わない敗走と恐慌の息子たち、闘争、戦乱、戦死をもたらす神たちを率いるアレスは、戦争になくてはならない存在だった。
混乱するから隙が生まれ、敗走し、敗残兵が生き延びて。確かに泥沼になる、しかしそうしなければ、人間はただのおぞましい化け物になるというものだ。彼らは慢心し次の国家に襲い掛かった。アレスのファミリアはそこにいなかった、攻められた国にいたファミリアたちは皆アレスに加護を求めた、己の信じる神を裏切ってでもアレスを求めた。アテナは選ばれた者たちしか守ってはくれない。軍を守護するのはアレスだ。それを一般人と呼ばれる最も多い人口の階級の者たちは知っていた。アレスがいるからこそ人間は死力を尽くして生き延びるために狂って戦うのだ。
武功のために戦うのは攻める側の言い分であり、生きるために戦うのは攻められる側の言い分だ。アレスは敗北者たちすら受け入れ、傷を癒し、力を蓄え、再び望む姿を見せることを奨励する。その事実は誰よりも同じ戦神たるアテナがよくわかっていた。僕はアテナを娘として愛していた。アレスを愛していたかと言われれば、答えは否で、遠く昔のアレスとの約束を忘れていたんだ。
アレスはアテナが生まれてすぐに彼女が戦神と一目でわかる姿をしていることから、それはそれは強い戦神になるだろうと僕に告げた。それと同時に、彼女は慢心を司りかねないと。彼女は必勝の女神となろう、ならばと勝利の女神ニケをアテナの許へ呼び寄せ、まだ意識の安定していないアテナの神格の中から、勝利による狂気を手繰り寄せた。アレスの神格とて勝利を司る輝かしいものであるのだから、狂気をより多く持って理性的な戦いをすることが出来なくなったアレスの方が負け戦をするようになるのは必然だった。アテナを愛せよ親父、いつかほんの少し俺を見てくれるだけでいい、いつか、いつか。そう言ったくせにステュクスに誓わせなかったアレスはなんて優しい子だっただろう!?期限もなく、絶対でもないただの口約束。僕はアレスの思った通りに約束を忘れていった!
そして地球に至るころ、アレスは凶暴な性格に変わっていた、正しくは、演じていた。元々の口調の粗さとその髪の色、髪は短く切ってさながら燃え上がる炎のようだった、その時のアレスの瞳はもう血のように真っ赤だった。涙を他人に見せなかったアレス、勇猛なるアレスは、己の愛する者たちの死を悼み、しかし神格ゆえに泣くことを己に禁じた。残されたのは不名誉に語られる神話という物語。
もともとあまり口数が多い方ではなかったアレスのことだから、長い時をかけて語った者たちには受け入れられ、厚く敬われたのだろう。
これだけアレスが変化を繰り返していたにもかかわらず僕は気付けないまま、いや気付かないようにしていたんだ、アテナを愛しアレスを嫌い、きっともうアレスもほとんど覚えていないのだろう、己が結んだ最も自分が大切にされていたころの約束の記憶を。
アレス、アレスよ、どうか戻ってきておくれ。約束とともにアテナを生かすためだけにお前を抑え込んだ忌々しい鎖を断ち切る。お前が切なく胸を裂かれる思いで見届けてきた己のファミリアたち、これから守ることになるファミリアたち、両者ともにお前を崇め奉るだろう!
再びその姿を現せ、勇猛なるアレスよ。
刃の神ゾーエー・クスィフォスよ、我が祈りに応えよ。
「ゼウス……」
ゾーエーは涙を零すゼウスを見上げる。アレスは音もなくただ涙を零し、ようやくゼウスの背に手を回した。
「応えてやるよ、この俺が証人だ、ゼウス。アレスの封印なんざぶっ壊せ!」
ゼウスは小さくうなずき、バチリと火花を散らした。
そして辺りは雷撃に呑まれた。