4 葉山浩司 最終回
11月8日、午後9時40分。
葉山浩司は田園都市線の用賀駅を出た。明日は箱根でもうひとつ工場を視察し、それで今回の出張は終わる。そのはざまの不倫だった。葉山は強羅のホテルを抜け出し、電車を乗り継いで世田谷にたどり着いた。
見上げると、いまにも雨が降りだしそうだ。雨具は持って来なかった。マンションに着くまで降りださないでくれ、と葉山は足を速めた。
鹿島早智子のマンションの近くで本降りになった。葉山はエントランスに飛び込み、早智子が開錠したオートロックを抜けた。
「濡れたみたいね」
玄関に入ると、早智子がバスタオルを差し出した。
「いま降られた。おまえの車で迎えにきてくれてもよかったんじゃないか」
「だめよ。誰に見られるか、わからないじゃない」
「心配のしすぎだ。おれたちの関係は誰にも気づかれていない」
葉山はタオルで髪をふきながら廊下に上がった。
「あなたは箱根に出張しているはずなのよ」
「そうだけどな。雨で濡れたぶん、シャワーを浴びる手間がはぶけた」
葉山は、自分の顔がにやつくのを感じた。
「シャワーは浴びて。ふろはわかしてあるから」
早智子の反応はそっけない。自分の冗談が通じず、葉山は拍子抜けした。
「なんだ冷たいな。どうかしたのか」葉山は訊いた。
「さっき無言電話があったの」
「またか。ナンバーディスプレイを契約したらどうなんだ」
「相手はわかっている気がするから」
そう言って、早智子がじっと見つめてきた。葉山は視線を外し、
「知らない番号に決まっているけどな」
自分の提案を打ち消してバスルームに入った。
服を脱ぎながら、葉山は早智子とのやりとりを考えた。妻に浮気は気づかれていないはずだ。無言電話は見知らぬ変質者だろう。早智子は女性特有の想像力で、それが葉山の妻からだったと思い込んでいるに違いない。
シャワーを浴びると、もやもやした気持ちが晴れ、今夜の情事に胸がはずんだ。
ふと、早智子のシルエットが脱衣所に屈んでいるのに気づいた。
葉山はシャワーの音をさせたまま扉に近づいた。ふいをついて開けると、早智子が脱衣カゴのそばで立ち上がった。小さなビンが彼女の足もとに転がる。
香水だった。
早智子は、葉山の緑色のパンツを持って立ち尽くしている。
「なにをしているんだ」
葉山はシャワーを止めて脱衣所に踏み込んだ。
「パンツに名前が刺繍されているのね。子供みたい」
なに。葉山は早智子の手からパンツを奪い取った。
内側をひっくり返すが、よくわからない。目をこらして気づいた。下着と同じ緑色の糸で、自分の名前が縫われていた。
「バカにしやがって」
葉山はパンツを床に叩きつけると、バスルームに戻った。
妻は刺繍が得意だが、まさか、下着にまで名前を入れているとは思わなかった。そんな話は聞いてもいない。おれがどこに置き忘れてくるというんだ。どこに――葉山は、はっと気づいた。
これは妻から愛人へのメッセージではないか。妻は不倫に気づいている。だが、その相手が早智子だとはわからないはずだ。
葉山は、脱衣所に転がった香水に思い当たった。
早智子は葉山のパンツに匂いをふくませていたのではないか。妻とは会社主催のパーティで顔を合わせる機会があった。あの香水がそのとき早智子がつけていたものだとしたら――。
妻と早智子が、葉山の下着を介してメッセージを送りあっている。
そこまで想像して、葉山はぞっとした。
シャワーのあと、葉山は早智子とシャンパンで乾杯した。会話ははずまず、2人で1本空けても、それほど酔いは感じなかった。早智子がアイスピックで氷を砕いている。無言電話について、もう話題にはあがらなかった。
早智子とベッドをともにしながら、葉山は行為に集中できなかった。早智子の肉体は燃えているのに、葉山の心のどこかに冷えたものがある。妻と不倫相手が激しく火花を散らしている。そんなイメージが心を惑わせた。
葉山は欲望を満たすと、早智子の隣に横たわった。
「どうしたの。気もそぞろだったみたい」
「疲れているのかな」
葉山は背中を向けて、ぎくりとなった。
1対の黄色い光があった。闇よりさらに濃い影が、床からじっと見上げている。目が暗さに慣れると、黒猫が座っているのだとわかった。
「コウちゃん」と早智子が呼びかけた。
「その名前はやめろ」葉山は体を起こした。「おれの中学時代のあだなと同じだからよせと、何度言わせるんだ。浩司って名前から予想できそうなもんだろ」
「そう呼ばないと反応しないから。ねっ、コウちゃん」
黒猫はまだ凝視している。
「なに見てやがる」
葉山は、ナイトテーブルのティッシュ箱を取って投げつけた。
黒猫がひとこえ鳴いて、飛びのいた。ティッシュ箱は外れた。猫は目を細めると、気取った足どりで寝室を出て行った。
「コウちゃんをいじめないで」早智子が非難した。
「おれは動物は嫌いなんだ。あの猫におれと同じ名前をつけやがって」
「あんなにかわいいのに、猫がどうして嫌いなの」
「にゃあ、と鳴くからだ」
「わん、と吠えたら、そのほうが怖いわ」
葉山の腕を早智子の指がたどる。薬指のリングを探りながら、
「ベッドの上でも外さないのね」
早智子が、葉山の結婚指輪をもてあそびながらつぶやいた。
「おまえの部屋でなくすとまずいからな」
「共犯者になって1年になるわ。奥さんとはいつ別れてくれるの。わたしが会社のパソコンで伝票を改ざんして引き出した金が、もう600万円くらいかしら。これって業務上横領って言うのよね」
「その金はこのマンションの支払いにもあてているんだぞ」
「だからわたしたちは共犯者よ。いっしょになれば裏切られる心配はなくなるわ。経理課のパソコンに横領の証拠を残しておいたの」
「なんだと。誰が見るかわからないだろ」
「パスワードで保護してあるから大丈夫よ」
「共犯者のおれには、そのパスワードを教えてくれるんだろ」
葉山は優しくささやきながら横になると、早智子の肩を抱き寄せた。
「結婚してくれたら」
早智子が目を細める。眼鏡を外した眼差しが冷たい。
葉山は背筋が凍りつくのを感じた。この女は本気だ。おれが離婚しなければ、おれの家庭をぶち壊すだろう。葉山は努めて感情を抑えようとする。
「わかった」と応えておいた。
「だったら、いますぐこの指輪を外して、ベランダから投げ捨ててよ」
葉山の薬指をもてあそびながら、早智子が冷静に命令した。
葉山は自分の左手を顔の前にかざした。その指が震えている。薬指のリングに触れるが、左手の震えは止まらなかった。
葉山の両手が枕をつかむ。それを早智子の顔に押しつけ、上からおおいかぶさった。早智子が葉山の手に爪をたて、暴れて抵抗する。ここまできたら後戻りできない。葉山は、枕に全体重をかけた。
やがて早智子の抵抗が弱まり、その体がぐったりとなった。
葉山は枕を放して起き上がった。指の震えは止まっていた。自分のしでかした行為が信じられなかった。
「あんたが悪いんだぜ」
妻と別れるつもりはなかった。早智子とはつきあっていたい。どちらとのセックスも捨てがたい。早智子に夢中になったのは妻の存在があったからだと、そのスリルが情事に火をつけたのだと、葉山は気づいていた。早智子と結託して会社の金に手をつけたのはまずかったが、脅迫されるとは思いもよらなかった。
葉山は善後策の思案をはじめた。
おれは箱根に出張中だ。明日の午前中に工場の視察がひとつ残っている。世田谷に戻ったのを知っている人間は、もうこの世にいない。ホテルを抜け出すとき、フロントには見られなかったと思う。電車で知った顔には会わなかったはずだ。きっと大丈夫、と葉山はうなずいた。
強羅のホテルに戻ろう。当初の予定では、今晩、早智子の部屋に泊まり、午前10時からの工場視察に間に合わせるつもりだった。殺人を犯したからにはホテルでのアリバイが欲しい。自分と早智子との関係は誰にも知られていないはずだが、念には念をいれよう。
ベッドサイドの時計は11時20分を指している。終電には間に合わないだろう。早智子の車を使って箱根に戻ればいい。マンションの近くに東名高速の出入り口がある。世田谷から箱根まで1時間15分くらいか。車は明日のうちに、マンションの駐車場に返しておこう。その日、早智子は無断欠勤になるが、1日休んだくらいでは騒ぎにならないだろう。
そうと決まれば身支度をしなければ、と葉山はベッドから立ち上がった。
パンツに気持ちが向いた。内側には葉山の名前が縫われている。早智子の部屋に忘れていくわけにはいかない。葉山はバスローブをまとった。
絨毯に脱ぎ捨てた着衣から、黒い影が身をもたげた。
「あっ」あの黒猫だ。葉山の緑色のパンツをくわえている。
ちくしょう、なんだって? そうか、早智子がふくませた香水だ。そう気づいた。飼い主の匂いに誘われて、寝室に入りこんだのだろう。
「それを返せ」
葉山は前かがみになり、猫との間合いをつめる。
黒猫は動かない。闇に光る瞳が小ばかにしているようだ。葉山は苛立ちをおさえ、あと一歩まで近づいた。飛びかかったとたん、猫が身をおどらせた。寝室のドアの隙間を抜けてリビングに滑り込む。
葉山は転んで両手を絨毯についた。すぐに起き上がり、リビングを追った。黒猫がフローリングを横切り、猫用のドアを開閉させ、ベランダに出て行く。
「待てっ」葉山は声をあげた。
応接セットをよけ、猫を追いかける。ワインペールが倒れ、氷水が床にこぼれる。葉山はガラス戸に手をかけると、乱暴にロックを外し、戸を開けた。
風がカーテンを舞い上げる。
葉山は体を震わせ、寒さで冷静になった。ガラス戸から半身を乗り出し、ベランダをうかがう。雨は止んでいるようだ。黒猫の姿は見当たらなかった。
いた。隣室のベランダをへだてる仕切り壁の手前の物置の上だ。黒猫にくわえられたパンツが風になびいている。
「さっきは悪かった」葉山は猫なで声で、「もう乱暴はしないから、そのまま動かないでいてくれないか。そうそう、いい子だ」
葉山はサンダルをはいてベランダに踏み出した。黒猫の乗る物置に近づく。黒猫がベランダの手すりに飛んだ。隣室の手すりへと飛び移る。
「くそっ、動くなと言っただろ」
葉山は胸壁から身を乗り出した。
隣のベランダの手すりを歩く黒猫が、首をねじって振り返った。
「怒ったんじゃないんだ。そのパンツを返してくれよ。いいだろ、コウちゃん」
黒猫が、葉山の呼びかけに反応した。手すりの上で器用に体を反転させる。
「返してくれるのか。いい子だ。コウちゃん」
にゃあ、とパンツが口からこぼれ、風がそれをさらった。
ああっ――葉山は思わず腕を伸ばすが、つかめず、隣家の衛星アンテナの先に引っかかった。ほっと安堵したあと、下に落ちてくれたほうがよかったと気づき、歯噛みした。
黒猫は隣のベランダに降り、葉山の視界から消えた。
隣家に忍びこんだのかもしれない、と葉山はあせった。
胸壁から身を乗り出し、アンテナに引っかかったパンツを見上げる。仕切り壁が邪魔して、隣のベランダには移れない。あのまま残しておけないが、その前にしておくことがあった。葉山はリビングに目を向けた。
長い髪がひるがえり、早智子の姿が寝室に消える。
葉山は驚愕した。生き返ったのか? いや、死んだふりをしていたんだ。
葉山はリビングに飛び込んだ。寝室に入ろうとして、アイスピックを蹴飛ばす。早智子の驚いた目と合った。裸のままベッドのそばにかがみこんでいる。その手に携帯電話があった。葉山がベランダに出たすきに、リビングに取りに戻ったのだろう。電話をかけさせるわけにはいかない。
葉山はアイスピックを拾い、襲いかかった。片手でベッドに押し倒すと、早智子が目を見開いた。その口が開きかける。葉山はアイスピックを振り上げて、早智子の左胸に突き立てた。
弾かれたように葉山はベッドから降り、床に尻をついた。早智子は恐怖の表情でおびえたまま、ベッドに串刺しになっていた。
葉山は立ち上がった。早智子の胸に刺さったアイスピックが栓の役目を果たし、血はそれほど飛び散っていない。それでもバスローブを着ていてよかった。これは処分したほうがいいだろう。
ベッドのそばに携帯電話が転がっている。葉山は慌ててディスプレイを確認した。まだ発信されていない。この電話も処分する必要があった。その前に、おれが訪れた痕跡をなくさなければ――。
葉山は携帯電話をもとあった場所に放り、リビングに入った。
自分が使ったグラスを洗い、キッチンの棚に戻す。早智子はひとりでシャンパンを空けたことにする。
自分が触れた場所を思い出し、ふきにかかる。全てはぬぐいきれないし、古い指紋がどこかに残っているかもしれない。だが、早智子に関係する人間全ての指紋を、警察が採取するとは思えない。葉山と早智子の不倫は誰にも知られていないはずだ――。
ふと、妻が気づいている可能性が頭をよぎる。思い過ごしだと打ち消した。
バスローブをゴミ袋に入れる。スーツを着て身支度を整える。じかにズボンをはくのは着心地が悪かった。周囲を見まわし、やり残したことはないかと点検した。部屋の鍵はあとで外しておこう。強盗の仕業に見せかけるのだ。早智子の車のキーは、いつもどおりサイドボードの上にあった。
腕時計を見ると、午後11時55分だ。
残るはパンツだけだ。自分の名前が縫われている下着を、衛星アンテナに引っかけたままにしておくわけにはいかない。
葉山はサンダルをはいてベランダに出た。
遠雷が聞こえた。空は曇り、雨がいつまた降りだすかはわからない。手すりから身を乗り出すと、衛星放送のアンテナの先端で、葉山のパンツが揺れている。下の道路は閑散として、人通りはなかった。
葉山は靴下をぬいで上着のポケットに突っ込む。サンダルを脱ぐと、手すりを乗り越えてベランダの外側にしがみついた。視線を下に落とすと、目がくらむほど高い。外壁のへりにかけた素足がすくんだ。
隣のベランダに移るだけじゃないか。5階だと意識するからだめなんだ、と自分を励ました。意を決すると、葉山は行動を開始した。
慎重に腕を伸ばし、仕切り壁の向こう側の手すりをつかむ。足をずらして移動させ、静かに伝わりだす。足もとからあえて視線をそらし、アンテナに引っかかった緑色の布きれを凝視した。
隣家のベランダの外側に移ったとき、エンジン音が響いた。マンションの先の十字路を曲がって、大型トラックが通りに入ってきた。葉山は舌打ちし、その場でやりすごそうと体を縮めた。
ブレーキ音がして、真下の路上にトラックが止まった。運転手が飛び出してマンションのなかに消えた。こんな時間になんの用事でやって来たんだ、と葉山は怒りがこみあげてきた。
腕時計に視線を向ける。午前0時2分だ。
トラックが走り去るのを待ってはいられない。手すりを乗り越えるだけで、目指すベランダに入り込める。葉山は決意すると、両手に力をこめて体を持ち上げにかかった。
ふいに稲光が走る。
――あっ。葉山は濡れた足場から足を滑らせ、手すりからぶら下がった。
すぐ近くで雷が落ちた。あたりが白く照らされる。
葉山は目がくらんだ。指が離れ、両足が宙を蹴る。叫びは雷鳴にのみこまれた。葉山の視界に、大型トラックの荷台の屋根がみるみる迫る。
つぎの瞬間、頭部に激しい衝撃が――。
* * *
平井徹二はすっきりした気分でトラックに戻ってきた。
箱根まで配送のとちゅう、平井は急激な腹痛にみまわれた。これから高速に乗ろうというときだ。サービスエリアまでは我慢できそうにない。近くのマンションに知人が住んでいて、そこでトイレを借りて用を足した。
トラックに乗り込もうとして、また雨が降りだした。マンションの5階のベランダから明かりがもれている。住人の姿は見当たらなかった。
平井は運転席に座った。昨日は4時間しか寝ていない。2週間連続で勤務している。労基署に訴えるぞ、とつぶやくが、そうしないのはわかっていた。
眠い目をこすってエンジンをかける。疲労がたまっていた。この仕事が終われば、ようやく休みがとれるのだ。
トラックが発進したとたん、フロントガラスに緑色の布きれがぶつかった。とっさにハンドルを切り、ブレーキペダルを踏む。平井は肝を冷やしていた。布きれはもうない。おどかしやがって、と毒づいた。
大通りに出ると、すぐ東名高速の入口だ。高速道路に乗り、大型トラックを箱根へとひた走らせる。ワイパーに雨粒がおどり、対向車のライトが行き過ぎる。雨は降りつづき、視界はますます悪くなった。
厚木ICから小田原厚木道路に入り、箱根口ICを出て、小田原箱根道路へと乗り継ぐ。そのころには雨は小やみになっていた。
山道に入ると、道路は狭く、カーブは多くなり、気が抜けない。連日の疲れが知らず出ていたのだろう、ハッと気づいたときにはガードレールが迫っていた。
あわてて急ハンドルを切るが、車体が傾き、側面に衝撃を感じた。ガードレールをこする音とともに、トラックが横滑りする。かろうじて曲がりきると、ハンドルを逆に回し、なんとか態勢を立て直した。
――危ないところだった。
平井は冷や汗をぬぐった。ハンドルをきつく握る両手が汗ばんでいる。今日は本当についていない日だ、と口汚くののしった。
終