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3 梶原紗枝

 呪いの儀式を行なった翌日の午前中、葉山課長はなおも箱根に出張中で、オフィスの平和は続いていた。課長が帰ってくるのは明日だ。


 紗枝は業務でパソコンに向かいながら、眠くてしかたない。昨夜は巫女の部屋に泊めてもらい、寝たのは午前1時近くだった。


「今日、鹿島主任は無断欠勤したんだって」


 隣の席から巫女が囁いた。寝不足のわりに生き生きしている。


「あの真面目な主任が無断で?」紗枝はいぶかしく思った。


「経理課で訊いたから間違いないよ。呪いが効いたんだ」


「まさか」と紗枝は相手にしない。


 それより日影さんだ。呪いによって葉山課長が排除され、精神的な負担がなくなった日影さんが退職を考えなおす、とは期待していない。課長に退職願いを出す前に、自分の想いを伝えようと決意していた。


 昼休みになり、紗枝は屋上に向かった。手には、巫女自家製のほれ薬の入った魔法瓶を持っている。薬の悪臭は、コーヒーに混ぜてごまかしてある。だめでもともと。いちかばちか日影さんに試してみるつもりだ。


 紗枝は大きく息を吸い込み、屋上のドアを開けた。


 金網フェンスの前の陽だまりに、いつものように日影良一がいた。何人かいる社員から離れて、ひとりで座っている。紗枝は気持ちを奮い立たせると、


「お食事中、すみません。お話したいことがあるんですが」


 良一の前に立って切り出した。


 弁当の包みをほどこうとした良一の左手の薬指で、リングが光った。昨日まではなかった指輪に、紗枝は息をのんだ。


 良一は紗枝の視線に気づいたらしい。


「婚約指輪だよ。親戚に勧められた見合いで結婚を決めたんだ。昨日、相手に指輪を渡した。彼女の両親は介護施設を経営していて、そこに就職が決まったよ。介護の仕事には前から興味があってね」


「……そう、ですか」


「だから梶原さんの失敗とぼくの退職とは関係ないよ。例の在庫の処理はなんとかしておく。それより、ぼくに話しって?」


「ご結婚、おめでとうございます。それが言いたくて。失礼しました」


 紗枝は頭を下げ、逃げるように屋上をあとにした。


 午後の業務はうわの空で、まったく手につかなかった。日影さんが結婚する。その言葉だけが、紗枝の頭のなかで繰り返される。彼の弁当を作っていたのは婚約者だったのでは? そんな想像さえ浮かんだ。


 告白の成果について、巫女は尋ねてこなかった。ほれ薬入りコーヒーが少しも減っていないのと、紗枝の態度から察したのだろう。


 仕事が終わっても、紗枝はぐずぐずと社員休憩室に残っていた。1人のアパートに帰るのが寂しい。日影さんの退職と結婚が決まり、呪いなんてもうどうでもよくなった。大きなため息をつき、テーブルに突っ伏した。


 隣の席で、巫女がテレビのチャンネルを変えている。


 ニュースに切り替わった。画面には現場らしき崖が映され、ガードレールが大きく曲がっていた。アナウンサーが報道している。


「今朝、小田原箱根道路ぞいの崖で、ハヤマコウジさん、48歳の転落死体が発見されました。遺体の頭部の損傷が激しく、詳しい身元の確認をしているもようです」


 葉山浩司(48)とテロップが流れる。


「やった。葉山課長だよ」巫女が声をあげた。


「まさか。違うでしょ。同名の別人じゃないの」


 とは言うものの、その偶然に胸騒ぎを覚えた。


「葉山課長の出張先の箱根が現場なんだよ。名前の漢字も年齢も一致するし、ぜったい課長だって。呪いが効いたんだ」


 巫女が強く主張してゆずらない。


 紗枝は、曲がったガードレールが気になった。アナウンサーによると、車が転落していたのではないという。崖の下で見つかったのは、葉山浩司と記載された免許証を所持する死体だけだったのだ。


「今日、鹿島主任が無断欠勤したよね」巫女が指摘した。


 まさか鹿島早智子も死んでいるのでは、と紗枝は不安になってきた。昨夜、2人を呪った罪悪感から、恐ろしい予感がしだいに確信へと変わった。


「鹿島主任の様子を見に行ったほうがいいね」紗枝はそう決めた。


 2人はマンションに向かい、鹿島早智子の507号室に直行した。ドアは施錠されていて、ベルを鳴らしても応答はなかった。


 管理人に鍵を開けてもらおうと、早智子の無断欠勤を心配したむねを説明した。


 管理人はなおも渋っていたが、葉山らしき転落死体が見つかったニュースを巫女が知らせ、葉山と早智子が愛人関係にあったと暴露すると態度を変えた。さらに、その報道を見た早智子が、葉山のあとをおったかもしれないと脅すと、管理人は507号室に踏み込むのを認めた。


 ドアが開けられてすぐ、玄関にある男ものの革靴が、紗枝の目に入った。葉山課長の靴では? と紗枝はまっさきに疑った。もし課長が室内にいるのなら、箱根の転落死体は別人ということになる。


 廊下の突き当たりのリビングに入ると、明かりがつけっぱなしだった。正面はガラス戸の閉められたベランダで、右側のドアから寝室に続いている。間取りは巫女の部屋とほとんど同じだ。


 ベランダの手前に応接セットがあり、ワインの空瓶とグラスがテーブルにのっている。そばにワインペールが転がり、氷が溶けたらしく、絨毯が濡れていた。早智子の姿はここにもない。


「アイスピックがないね」


 巫女がつぶやいた。


 猫の鳴き声がした。ベランダに出るガラス戸のわきに、猫用の小さなドアがあり、そこから黒猫が室内に入って来た。甘えた声で巫女に近寄ってくる。巫女は猫には好かれ、犬からはいつも吠えられる。


「このマンションは猫なら飼ってもいいんだよ」


 巫女が説明した。


 黒猫が巫女のもとを離れ、寝室にドアに向かった。巫女に目顔でうながされる。紗枝は、不吉な案内人に導かれて歩きだした。


 寝室は薄暗かった。ベッドサイドのテーブルにノートパソコンがのっている。ベッドのそばの絨毯に携帯電話が転がっていた。


 ベッドに裸の早智子が横たわっていた。シーツに黒髪を散らし、顔に恐怖の表情をはりつけ、その左胸にはアイスピックが突き立てられていた。


 紗枝の脳裏に、まな板に釘づけにされたわら人形が浮かぶ。


 巫女の部屋は308号室だ。事件現場の507号室の2階下で、呪いの儀式をしたあと犠牲者が出た。紗枝はぞっと体が震えた。


 管理人の通報で派出所の巡査が現われた。ほどなく世田谷署の捜査員が到着し、鑑識班、警視庁捜査一課の刑事と続いた。


 事件現場の寝室で鑑識が作業をするあいだ、紗枝は巫女と管理人室で事情聴取を受けた。早智子の部屋を訪問した理由を訊かれ、紗枝は主任の無断欠勤を心配したと答えた。


「たった1日で? ずいぶん上司思いですね」と捜査員に言われたが、わら人形で呪ったからとは言えなかった。


「鹿島主任と葉山課長は不倫をしていたの」


 巫女が言うと、捜査員は興味をもったらしい。


 葉山浩司という男性の転落死をニュースで知り、同じ日に無断欠勤した不倫相手に対して神秘的な暗合を感じた、と巫女が大真面目に続けた。2人の不倫はワイン占いで知ったとわかると、捜査員は拍子抜けしたようだが、念のため神奈川県警に照会した。その結果、事件は急展開したのだ。


 神奈川県警では、箱根の転落死体は葉山浩司だと判明していた。遺体の損傷がひどく、確認した妻は、夫に似ているようだと答えたそうだ。歯科医の診療記録から本人と断定されたという。


 捜査陣の動きがにわかに慌ただしくなった。世田谷のマンションで鹿島主任の遺体が見つかり、その不倫相手とみられる葉山課長の遺体が、80キロ以上離れた箱根の崖で発見されたのは間違いなさそうだ。


 事情聴取をした捜査員が管理人室を出て行き、紗枝は巫女と2人きりになった。


「やっぱり、わら人形の呪いだよ。あれが効いたんだ」


 巫女が、ぽつりと言った。


「まさか。そりゃあさ、うちらが呪いの儀式をやった次の日に、こんな事件が起きたのは不気味だけど、ただの偶然だって」


「鹿島主任の胸にアイスピックが突き立っていたでしょ。それに葉山課長の頭、人相がわからないほどひどい状態だったんだよ。紗枝ちゃん、金づちの狙いをあやまって、わら人形の頭を粉砕したじゃない」


「たしかに……」それはあまりいい気持ちがしなかった。


 翌日の会社オフィスでは、この事件でもちきりとなった。鹿島主任の死体を発見した紗枝と巫女は話題の中心になり、同僚からあれこれ訊かれた。昼のワイドショーでは、連日、世田谷と箱根の二重殺人として取り上げられた。


 2日後、仕事を終えた紗枝は、巫女といっしょに会社を出た。


「よう」兄の梶原真也に呼び止められた。紗枝が退社するのを待ち構えていたのだろう。


 真也は髪をオールバックにし、サングラスをかけ、革ジャンに擦り切れたジーンズだ。体は大きいが腕力はからきしで、紗枝は小さいころよく泣かしたものだ。


「紗枝の上司が大変な事件にあったみたいだな」


 真也は雑誌記者をしている。紗枝から特ダネを得るつもりなのだろう。


「その件については、なにも話せないから」


「そういうなよ。おれには警視庁の記者クラブで仕入れたネタがある。兄妹どうし、仲良く情報交換をしようじゃないか」


 そう持ちかけられると、紗枝は興味がわいた。


 巫女が自分の部屋で事件の話をしようと誘い、3人はマンションに向かった。


 リビングに落ち着くと、まずはあにきの持ちネタから聞きたい、と紗枝は求めた。いいだろう、と真也が話しはじめる。


「まずは葉山浩司の昨夜の足取りからだ。11月8日の月曜日、葉山は箱根の工場を視察した。強羅のホテルに戻ったのは午後6時過ぎだ。これはフロントで確認されている。それから9日の午前八時頃、小田原箱根道路ぞいの崖で発見されるまでの経緯は不明だ。フロントは葉山が外出したのを見ていないという。ホテルから現場の崖までは車で10分近くかかる」


「そこまで車で向かった様子はあるの」


 紗枝は訊いた。現場のガードレールが曲がっていたのを思い出した。


「いまのところ、その形跡はない。警察はタクシーやレンタカーをあたったが、葉山が利用したという証言はえられなかった」


「それでも、転落した崖まで歩いていくわけないよね」


「警察は、葉山を殺害した何者かが車で遺体を運んだとみている。ここからの情報は、ある警察関係者から入手したもので、まだ一般に公開されていない。固く口止めされているから、他言無用だぞ」


 と真也は前置いてから、


「遺体が発見されたとき、葉山はスーツ姿だったが、靴をはかず裸足だったんだ。靴下は上着のポケットに突っ込まれていた」


 紗枝は、早智子の部屋の玄関にあった革靴に思い当たった。けれど、それだけが世田谷のマンションに残っていたのはなぜだろう。もっとも、その靴の持ち主が葉山と決まったわけじゃないけれど。


「それだけじゃない。葉山はパンツもはいていなかった」


 えっ。紗枝は巫女と顔を見合わせた。


「靴をはかず、パンツも身につけないで出歩く理由がわからず、だから警察は犯人によって運搬されたと考えているんだ」と真也が続けた。


 紗枝は考え込んだ。警察の見解はわかったけれど、犯人がどうして葉山のパンツを脱がしたのか、その理由はやはり理解できなかった。


「鹿島主任の足取りは?」紗枝は訊いた。


「鹿島早智子は、11月8日の午後7時半頃、世田谷のマンションに帰宅したのを住人に目撃されている。それが、生きている最後の姿だ」


 その翌日の午後6時40分頃、紗枝と巫女が鹿島主任の507号室を訪れ、そこで彼女の遺体を発見したのだ。


 真也によると、司法解剖の結果、葉山の死因は頭蓋骨折と判明した。早智子のほうはアイスピックによる失血死だという。


 わら人形に釘を打ち込み、その頭を粉砕した情景がよみがえる。紗枝は暗い気持ちになった。儀式を行なった時刻と被害者が死んだ時刻とが一致していたら、と恐ろしくなる。


「死亡推定時刻はわかっているの」


 紗枝は恐るおそる訊いた。


「2人とも、8日の午後11時から9日の午前1時までに死亡している。葉山の死亡時刻ならもっとはっきりしているんだ。これも口止めされている情報だから、ぜったいしゃべるんじゃないぞ」


 と真也が念を押し、


「葉山が崖から転落したさい、腕時計が壊れたらしく、その針が止まった時刻は午前0時2分だったんだ」


 紗枝は息をのむ。呪いの儀式が完了したあと、目覚まし時計が鳴ったのを思い出した。その時刻は午前0時ぴったりだった。


『日付は替わって11月9日、午前0時。呪いは成就されました』


 巫女の宣言がよみがえる。


「スクープ写真を見せてあげる」


 巫女がふいに口を挟んだ。にんまりと笑って寝室に向かう。


 写真と聞いて、紗枝は呪いの儀式が終わったときの記念撮影を思い出した。そこに特ダネになるような何かが写っていたのだろうか?


「スクープって、なんだろうな」


 真也は興味ありげだが、それよりも、


「だからって葉山課長がその時間に死んだとはかぎらないでしょ。ミステリー小説なんかでよく、犯人が時計の針をごまかすじゃない」


 紗枝は反論した。


「考えすぎだよ。午前0時2分という死亡時刻は司法解剖の結果とも矛盾しないんだから。こんどは紗枝の知っていることを話す番だ」


 真也がボイスレコーダーを取り出した。


 紗枝は考えあぐねた。わら人形で呪ったのは言いたくない。


「なにを話したらいいかわからないから、兄きから質問してよ」


「いいだろう。まずはなぜ、鹿島早智子の様子を見ようと考えた。早智子はたった1日、無断欠勤しただけなんだろ」


 それは警察にも訊かれた。


「葉山課長と鹿島主任は不倫をしていたらしいの。それで」


 葉山の転落死をニュースで知った早智子があとをおったのではと心配になった。紗枝は、管理人に507号室を開けさせた口実を持ち出した。


「そうか、2人の不倫は本当だったんだ。これも他ではしゃべるなよ。おまえは口が軽いから心配だなあ」


 と真也が眉をひそめ、


「早智子の部屋には指紋をぬぐいとった形跡があった。だが、葉山の潜在指紋が見つかり、その体液まで採取された。早智子の携帯電話の記録からも不倫関係は間違いない。葉山の妻は、夫の浮気を知らなかったと言っているけどな」


 巫女がワインで占った結果は当たっていたのだ。わら人形の呪いのほうも実現していたのでは、と紗枝は背筋が冷たくなった。


「ところで、おまえとは久しぶりだが、どうだ? 浮いた話でもあったか」


 真也が話題を変えた。


「別に」日影さんに失恋したと打ち明けるつもりはなかった。


「隠すなよ。おれがどれだけ口が固いか、おれの妹ならわかっているだろ」


 よくわかっている。ぜったい言うものか。


「おまたせ。プリントアウトしてきたよ」


 巫女が寝室から現われた。デジタルカメラからプリントしたらしい、A4判の写真用紙を裏向きにして持っている。


「葉山課長が死んだとみられる午前0時2分頃、このリビングで撮影したものなの。課長の死にぎわの顔まで、ばっちり写りこんでいるから。ほら、ここ」


 巫女が写真を表向きにして指さす。


「心霊写真かよ」と真也はがっかりしたようだ。


 紗枝は半ば信じかけている。恐るおそる、写真をのぞきこむ。


 ローテーブルで紗枝と真由美が抱き合っている。その背後のガラス戸ごしに、なにか写っている。


 ――ひっ、と紗枝は悲鳴をのみこんだ。


 ベランダの手すりから、葉山課長の恐怖の表情がのぞきこんでいた。



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