1 梶原紗枝
「ふざけんな。ロット単位を間違えただけだと」
葉山課長の叱責に、梶原紗枝は首をすくめた。
紗枝は身長が178センチあり、首をすくめていてもずいぶん高い。自分のデスクに座ったままの葉山が、ぎょろりとした目で見上げて怒っている。
商事会社2階の商品部のオフィスで、キーボードを叩く音が一気に消えた。同僚が手を止めて見つめてくる視線を、紗枝は背中に感じた。葉山が課員たちをにらみつけると、パソコンに打ち込みをする音が再開した。
紗枝は学生時代に柔道をやっていた。当時の体格はいまも健在で、近い距離から見下ろされると威圧感があるらしい。
葉山が少し椅子を離して、紗枝に向き直る。
「ロット10の商品だったら、納品される量はそれで一桁違ってくる。100なら1000。1億なら1兆だ」
葉山がどなりつけた。
「1億なら10億だけど」紗枝は、ぽつりとこぼした。
「そういう問題じゃない。おまえ、最近、ミスが多いぞ」
はあ。紗枝はうんざりしていた。短大を卒業し、食品専門の商社に就職して2年になる。葉山課長とは入社当時からうまが合わなかった。
「おい、日影。おまえの教育はどうなっているんだ」
葉山が怒りの矛先を変えた。
「申し訳ございませんでした」
窓ぎわの奥のデスクから、日影良一がさっと立ち上がり、頭を下げた。良一は34歳で、紗枝の12歳年上の先輩だ。入社したてで何もわからない紗枝に仕事を教え、相談にのり、なにかと世話をやいてくれた。
「ちょっと、日影さんは関係ないでしょう」
紗枝はそう反論した。
「おまえを指導したのは日影なんだ。関係ないわけないだろ。おれは来週の月曜火曜と箱根に出張する。帰ってくるまでに、発注ミスで抱えた在庫をなんとかできなかったら、日影にはそれなりの責任をとってもらうからな」
「それなりの責任って、なんですか」
「おれに言わせるんじゃない。自分で考えろ」
紗枝は爆発しそうになる感情を抑えた。葉山課長になにを言っても無駄だ。ここはしおらしく、ご機嫌をとったほうがいい、と気持ちを切り替えた。
「わたしの入力ミスは謝ります。すみませんでした。これからはじゅうぶん気をつけますので、日影さんをとがめないでください」
紗枝はそう言って深ぶかと頭を下げた。
「ずいぶんかばうじゃないか。ひょっとして2人はできているのか」
紗枝は思わず葉山をにらみつけた。
「おお、怖い。もと柔道選手ににらまれると迫力があるねえ。おれに寝技をかけるのはやめてくれよな。妻帯者なんだから」
課長のセクハラ発言に、どん、と紗枝はデスクに両手をついた。
「もういい」葉山がさらに椅子を遠ざけ、「さっさと仕事に戻るんだ」
紗枝は怒りをのみこんだ。肩をいからせ、大またに自分の席に向かう。柔道の試合前のようにぴりぴりしていた。一本背負いで課長を床に叩きつけ、腕十字固めで骨を粉砕できたら、どんなにすっきりするだろう。
窓ぎわのデスクでは、日影さんがしょんぼり背中を丸めていた。あごのとがった細い顔に、黒い縁の眼鏡をかけ、髪の分け目が薄くなりかけている。
「紗枝ちゃん」
自分のデスクにつくと、パソコンの陰から、隣席の雨宮巫女に呼びかけられた。
巫女は紗枝と同期入社だ。やけに黒い髪をショートにし、前髪を眉上で切りそろえ、白い顔に丸い眼鏡をかけている。その手が机の引き出しを半ば開き、そこからわら人形がのぞいた。
「みいこ。あんた、またそんなものを持ってきて」
「だって葉山課長を呪い殺したいでしょ」
巫女が声をひそめて言った。
「それはそうだけどさ。わら人形の呪いなんて効くわけないじゃん」
「こんどはなんだ」葉山が席を立った。
「なんでもありません。いいです。来ないでけっこうですから」
紗枝は葉山をさえぎろうと手を突き出すが、かまわず課長がやって来た。
「雨宮の仕事の邪魔をするんじゃないぞ」
すでに隣席の引き出しは閉められ、巫女が熱心にパソコンのキーを叩いている。
「あっ、ずるい」紗枝は声をあげた。
「なにがずるいだ。どうせ、おれの悪口でも言ってたんだろ。雨宮を見習ったらどうなんだ。おまえは本当にどうしようもない」
「葉山課長。ちょっといいでしょうか」
経理主任の鹿島早智子がオフィスに入ってきた。
早智子は34歳で、日影と同期だが、すでに主任に抜擢されていた。額で分けた髪を背中にながし、縁なし眼鏡をかけて、理知的な印象がある。経理主任が商品部になんの用だろう、と紗枝はいぶかった。
葉山課長と鹿島主任が紗枝に背中を向け、熱心に話しこんでいる。
紗枝の隣で静かに椅子が動いた。巫女が立ち上がり、鹿島主任の言葉にうなずく課長のうしろへ、そうっと近づく。巫女の指が葉山の襟足の髪をつかみ、ふいに力をこめてむしりとった。
「痛えっ! なにしやがる」葉山が叫んで振り返った。
「課長、白髪が生えていました」
巫女がそう言って、髪をつまんだ指先を差し出した。
「よけいなお世話だ。白髪が増えるのはおまえたち部下のせいだろ」
と、葉山が口ごもった。
眼鏡に光を反射させて、巫女が口もとだけでにんまり笑っている。
葉山が薄気味悪そうに眉をひそめ、もういい、と巫女を追い払った。怒る気をなくしたらしく、課長席に戻っていった。
「どういうつもりよ」紗枝は、席についた巫女にそっと訊いた。
「課長の髪をゲット」
巫女が手を開くと、黒々とした髪が数本のっている。
「それって」紗枝は課長の毛髪を見つめた。
「わら人形につめるの。だって紗枝ちゃん、課長を呪い殺したいでしょ」
そう言って口もとだけで笑う巫女に、紗枝はぞっと背筋が冷たくなった。葉山の怒りがさめたのも、わかる気がした。
終業時間になり、紗枝は巫女とオフィスを出てロッカー室に入った。金曜日のこの時間は、これからの予定を話す女子社員で混み合っている。
「あーむかつく。在庫がはけなかったら、課長のやつ、日影さんをどうするつもりなんだろ。いちいち彼を目のかたきにするんだから」
紗枝はロッカーに制服を投げ込んだ。
「紗枝ちゃんが課長に立てつくから、よけい日影さんがいじめられるのよ」
隣で着替える巫女が、そう答えた。
「そうかもしれないけどさ、見てらんないのよね。なにかと言いがかりをつけて、部下の前で叱りつけるんだから。パワハラもいいところじゃない」
「課長を呪い殺したくなった?」
「いいって。課長が出張から戻るのは水曜日よね。あと4日で在庫を片付けないといけないわけだ。取引先に片っぱしからお願いするか」
「紗枝ちゃん、日影さんが好きなんでしょ」
ぽつりと巫女が言った。
「そりゃあ、嫌いじゃないよ。いろいろとお世話になっているし」
「即効性のほれ薬を作ってあげようか」
「本当に効くの」紗枝は思わず食いついていた。
「やっぱり」巫女がにんまり笑う。
「なんだ。かまをかけたのか。日影さんは、あたしのことなんか少しも想っていないから。むしろ、怯えられているかもしれない」
紗枝は大きなため息をついた。
「でも、ほれ薬は本当だよ。効果はばつぐん。どんな相手もいちころだから」
「毒じゃないでしょうね」
紗枝は疑った。そんな薬を日影さんに飲ませるわけにはいかない。
「2人とも、ほれ薬にたよるようじゃ、女として失格ね」
橘真由美がコンパクトを閉じ、向かいのロッカーから声をかけた。
くりっとした瞳を浮きうきと輝かせ、ルージュを塗った唇で微笑んでいる。ふんわりカールした髪をかきあげ、形のいい胸をそびやかせる。真由美は紗枝たちと同期だが、去年、経理課に異動していた。
「真由は明日から北海道旅行だっけ」
紗枝はうらやましかった。
「彼と3泊4日。先月は鹿島主任が有給を認めてくれなくて、今月になってようやくとれたの。産地直送で毛ガニを送ってあげる」
「サンキュ」
そう言う自分の声が沈んでいるのを、紗枝は感じた。
「じゃあ」と真由美が香水の香りを散らして、ロッカー室から出て行った。
「紗枝ちゃんは、日影さんにもっと積極的になったほうがいいよ」
巫女が忠告した。
「そうね」と答えるものの紗枝の闘志はしぼんでいた。真由美の女らしい姿に、自分の男っぽくたくましい体型を重ね合わせる。またもや、ため息がこぼれた。
「ほれ薬を作っておこうか」
巫女の厚意はていねいに辞退した。
週明けの月曜日、葉山課長のいないオフィスには平和な空気が流れていた。窓ぎわの席で、良一が肩身の狭そうな姿勢でパソコンに向かっている。
あんな線の細い、頼りなさそうな男をどうして好きになったのだろう、と紗枝は不思議だった。自分にはない穏やかな性質に惹かれるのかもしれない。そんな良一が紗枝の失敗で責任をとらされるのは耐えられなかった。
昼休みになり、良一がオフィスを出て行った。持参した弁当をいつも屋上で食べるのを知っていた紗枝は、そのあとを追った。
屋上に出ると、木枯らしが吹きつけ、カーディガンを着てくればよかったと後悔した。金網フェンスの手前の陽だまりで、何人かの社員が弁当を使っていた。そのなかにぽつんと良一の姿があった。
「日影さん」と呼びかけて近づいた。
「やあ。例の在庫は、引き受けてくれる小売店がいくつか見つかったよ」
紗枝が隣に腰かけると、良一から水をむけてきた。
「わたしのせいですみませんでした。それにしても課長のやつ、ひどくないですか。ぜったい日影さんを目のかたきにしていますよ」
「ぼくみたいに気の弱い部下は標的にされやすいんだ。もう慣れているよ」
「あきらめないでください。課長をパワハラで訴えるんです。わたしも力になりますから、いっしょに戦いましょう」
紗枝は力強く言い、顔を近づけた。
良一の眼鏡の奥の瞳に怯えが走る。
「ぼくはそういうのは苦手だから。それに退職するつもりなんだ。課長が出張から戻ったら、辞表を提出しようと思っている」
――えっ。
「そんな、わたしのミスで日影さんが責任をとる必要はないですよ」
「違うんだよ。梶原さんの失敗とは関係ない。祖母の介護が両親の手に負えなくなってきて。だから、いろいろと世話になったね。ありがとう」
――いえ。お世話になったのはわたしのほうです。
衝撃のあまり、紗枝は自分の気持ちを言葉にできずじまいだった。
午後は仕事が手につかなかった。在庫の始末なんかどうでもいい。祖母の介護のためと日影さんは言っていたが、紗枝の失敗をかぶる意味もあったのではと想像すると、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
だらだらと残業をしたので、巫女と会社を出たのは午後7時過ぎだった。良一の話をすると、巫女が紗枝を気の毒がり、自分のマンションで飲もうと誘った。キャンペーンのときにあまったワインを安く購入したという。
最近、巫女は引っ越したばかりで、新居は東名高速の出入口に近い、世田谷のマンションだった。入社2年目の会社員にはとても住めた家賃じゃない。巫女の親は大手の不動産会社を経営していて裕福なので、家賃は実家もちなのだろう。
「こんな場所に住めていいなあ」
八階建てのマンションを見上げて、紗枝はついこぼした。
「鹿島主任も住んでいるよ」
「主任も」と紗枝は訊き返した。
「わたしが308号室で主任は507号室なの」
その偶然に紗枝は驚いた。しかし、よく鹿島早智子がこのマンションに住めたな、と紗枝はいぶかった。誰かパトロンでもいるのかなと勘繰り、早智子の理知的な表情を思い浮かべて、まさか、と打ち消した。
そのとき、ぽつりと雨が降りだした。
2人は慌ててエントランスに入った。
巫女の部屋は2LKで、リビングは十畳のフローリングだ。残業のあと食材を買いにスーパーに寄ったので、帰宅したのは午後8時40分だった。さっきからキッチンで巫女がなにかしている。
ふいに異様な匂いが漂ってきた。巫女が両手に鍋を持って現われた。不快な匂いのもとはその鍋だ。
「なんなの、この悪臭は? なにやってんの。そんなの持ってこないでよ」
「ほれ薬だよ」
「いらないから。そんなの日影さんに飲ませられないでしょ」
紗枝は鼻を押さえてベランダに避難した。ガラス戸を開け放つと、雨混じりの風が吹き込んでくる。だいぶひどい降りになってきた。
ドアベルの音が聞こえた。
いまごろ、誰だろう? 紗枝はガラス戸を閉め、巫女がなおも鍋を持ったまま立っているリビングを抜け、玄関に向かった。
ドアを開けると、ずぶ濡れの真由美がいた。ふんわりしていた髪は雨に濡れ、前髪が額にはりついている。レインコートも着ていない。旅行の荷物さえなく、網に入った赤黒いなにかを手にしているだけだ。
「真由、どうしたの。北海道旅行から帰るのは明日のはずだったでしょ」
真由美が、わっと泣いて抱きついてきた。
「痛い、痛い!」
固くてちくちくするものが腹に刺さり、紗枝は思わず真由美を突き飛ばしていた。背後のドアに叩きつけられ、真由美がずるずると玄関にしゃがみこむ。
「ごめん。力が入りすぎた。大丈夫?」
助け起こそうとする紗枝に、3杯の毛ガニが入った網を突き出し、「産地直送」
真由美が泣き笑いの顔をした。
続