声を無くした歌姫《大幅改稿版》
透き通る歌声。透明感がありながら力強いその声は他者を凌駕し、圧倒的な差を見せ付ける。
歌姫と呼ばれる彼女が歌うと空が震え、大地に響き渡るという。
彼女の歌声は届かぬ想い人の為に。
誰よりも愛する彼の為に。
***
国一番の歌姫、アリエティア・ローズは貴族の中でも低位に位置する子爵家に生まれた。
平凡な顔立ちに特出した頭脳を持ち合わせていなかったが、歌わせれば右に出る者はいなく泣いている子供は泣き止み気難しいご老人も微笑むという噂だ。
貴族社会でも有名な話しで、気性の穏やかな彼女はご婦人方の間でも人気であった。
領地も少なく金銭にいつも苦しんでいたアリエティアの両親は、彼女に申し訳なく思いつつも歌声のお陰で領地に観光客も増えて気苦労が少なくなった事に感謝していた。
アリエティア自身も両親の助けになる事を嬉しく思っており、誇らしく感じていた。
しかし、そんな穏やかな日常に変化が訪れる。
上位貴族である、伯爵家の奥方に気に入られたのだ。始めは夫人の前で歌うだけだったが、お茶会に呼ばれるようになり終いには子息との結婚話しが飛び出した。
勿論、かなりの身分差があるためにアリエティアの両親は遠慮したいと申し出ていた。小さい領地を治めるだけの貴族の娘に大貴族である伯爵家に嫁ぐなど通常ではあり得ない。
しかし、爵位を継ぐ長男では無いので気を張らないで欲しい、アリエティアを気に入っていると夫人に言われては断る事が出来なかった。
伯爵家次男であるユーリは騎士を目指している若者だった。他人を拒絶するような冷たい印象の持ち主である彼は、人形のように整った容姿をしている。それは、女性の心を揺さぶるような王子様然としており次男ではあるものの伯爵家の嫡子というのも相まって、社交界の憧れの的であった。
アリエティア自身は一度だけユーリに出会った事があった。それは夫人に呼ばれて歌を披露していた時、帰省していたユーリが一緒にアリエティアの歌を聴いていたのだ。
何曲か披露したのだが、春の訪れを謳う少女が好むような可愛らしい曲を歌った時の事だ。ユーリは冷たく見える表情を和らげふんわりと微笑んだのだ。
社交界で遠くから見ている時にはそんな笑顔で微笑むというのはなかった。だからこそ、遠くに居る人に感じていたのに。
自分の歌を聞き穏やかな表情を見た瞬間…顔が真っ赤に染まったような気がして一気に恥ずかしくなるような感覚がした。
それが恋だと気付いたのは随分してからで。
初恋は叶わないと諦めていた。
そんな時に出てきた婚約話である。
様々な事を考えれば両親が言うように遠慮した方が良いのだろう。
片田舎の土地で領民に寄り添って生きてきた。
夜会やお茶会などは歌を披露するので訪れるものの、ダンスは殆ど出来ないし作法も最低限しか知らない。大貴族となれば今までのようにはいかないのだろう。難しい…そんな事は分かっている。
けれど…理性では収めきれないこの感情はどうすれば良い?
諦めようとする程に膨らんでいく想いは?
どちらにせよ夫人に押切られた以上は婚約をする事になる。感情論では無いのだ。
それでも、アリエティアは初恋の相手と婚約が出来るというのを幸運だと感じていた。少しでも微笑んでくれたら、自分を認めてくれたら…それだけで幸せだろうと考えていたのだ。
だからこそ、アリエティアは婚約後初めてユーリと言葉を交わす時、精一杯の礼儀を心掛けた。
しかし…返ってきたのは冷たく響く一言だけ。
「一芸に秀でているとは素晴らしい。歌姫様を伯爵家に迎えられるとは幸せ者ですね」
(…ユーリ様は私の名前を呼ぶことさえ厭なのね)
目も合わせずに発せられた言葉はアリエティア自身を拒絶していた。
子爵のしがない娘との婚約を喜ぶ者などいない。器量も良くなく、持参金も少ない。仕方が無いことなのだろう。
それでも、アリエティアは出来る事は全て努力した。
子爵家では足りなかった教養の部分は勿論、苦手なダンスも必死に習った。少しづつ形にはなるが不器用なアリエティアはどれもついていくのがやっとだった。
夫人はそのままで構わないと言っているのだから無理をする必要はなかった。
しかし…
少しで良い、歌姫ではなくアリエティア個人として見て欲しい。
少しで良い、その心を傾けて欲しい。
そう思うと初めての恋心が報われないとしても、アリエティアは諦められなかった。
習い事の合間をみてはユーリに手紙を出していた。季節の事、市政の事などをしたためて送る。どれかひとつでもユーリの心を動かす内容が見付からないかと色々と考えていた。
けれど、返ってくるのは明らかに代筆させたような定例文で結局いつまで経っても二人の距離が近付く事はなかった。
歌に習い事、子爵家の領地の事…アリエティアの頭の中は常にいっぱいな状態だった。最初は頭で悩ませているだけだったが…いつの間にか胸が苦しくなるくらい思い詰めるようになった。
両親や他の者に心配させてはならないと誰にも相談せずに放っておいたのだが…
異変は突然現れた。
歌を歌おうとすると喉に突っ掛かるような違和感がする。季節の所為かと思い、何日か喉を休ませても変わらない。それどころか歌おうとすると喉が締まって歌えなくなってしまった。無理矢理出して歌うのだが徐々に悪くなっていく一方だった。
アリエティアにとって歌えないというのは死活問題になる。両親は大丈夫だと言ってくれているがアリエティアにはそうだとは思えなかった。
焦れば焦る程声は出なくなり、終いには歌えなくなってしまった。
医者にも見せに行ったものの、心の問題で出なくなっているという答えしか貰えず、休ませるしかないと言われてしまった。
休ませようと思う程悩んでしまい、声が出なくても歌う練習をする日々は続いた。けれど一向に良くならない。
せめて隠そうとしたが、アリエティアは歌姫として有名な所為で隠せず、瞬く間に噂が広がってしまった。
(もう…無理ね…)
アリエティアは全てをユーリに話し、婚約を解消してもらおうと考えた。
***
目を合わせたのは初めてだろう。最後位しっかりと瞳を見て話しがしたかったアリエティアは、真っ直ぐユーリを見据えてから言葉を発した。
「ユーリ様…噂の通りです。私は歌う事が出来なくなってしまったのです…」
泣かないと決めていた。けれど言わなければならないと思うと目の前が霞む。
崩れ落ちてしまわぬ前にとアリエティアは言葉を重ねた。
「自分の価値など分かっているつもりです。このまま婚約を続ける訳にはいきません…伯爵家から婚約の解消を言い渡して下さいませ…」
言い切ると同時に涙が零れ落ちる。それと同時に想いも溢れてきた。
「ユーリ様…迷惑だと気付いていました…。でも…ずっと諦めきれなかったのです。歌しか無い私は、結局『歌姫』としてしか貴方に認識されなかったのでしょうね…いつか…いつか貴方が私自身を…アリエティアを見て下さらないかと思っておりましたが…神様にも見離されてしまったみたいですね、私。『歌姫』でもなくなってしまった。残念です…とても。残念でなりません…」
一度瞳から溢れた涙は止まる事がなく流れ続ける。
静かな部屋の中啜り泣く声だけが響いた。
「領地に白く可愛らしい花が咲いたようですね。ニリンソウでしたか?領民は春の訪れを喜んでらしたとか…」
「…えっ?」
「ダンス、難しいステップは踊れるようになりましたか?前回から始めたのですよね?」
「ユーリ…様?」
何故、自分が書いた手紙の内容を覚えているのだろうか。読まれていないと思っていたのに…
「分からないですか…そうですね…」
一度考えるような仕草を見せたユーリは問い掛けるような声色で続けた。
「…アリエティア嬢、貴女には歌しか無いのですか?他の努力は?伯爵家に嫁ぐのに歌しか無いのであれば貴女は必要ありませんね…貴女は他に努力されてはいないのですか?歌だけで私に嫁ぐつもりだったと?」
「そんなっ…そんな訳無いっ!!ユーリ様の隣に立とうとずっと勉強してきました。少しでも恥ずかしくないようにと思って。ずっと必死にやっておりました…」
「ならば」
「それならば何故俯くのです?私は知っていました。貴女がどれだけ努力していたかを。」
ユーリはアリエティアに近付くと優しく涙を拭った。
「アリエティア、私は最初貴女を疎ましく思っていました。歌だけしかない貴女と何故結婚しなければならないのかと腹が立った。母上が決めた事なので仕方なく了承しましたが、正直嫌々でした。けれど、貴女は伯爵家に相応しいようにとずっと努力されていましたね?それに…日常を綴るような手紙は私にとって癒しになっていました。私はどうしても文章が苦手で…上手く返事が書けなく、いつも同じような文になっていましたが…ずっと好ましく思っていたのですよ?」
「読んで下さっていたの…?」
「えぇ。日々を楽しく伝えてくれて心が温かくなるようで…いつも楽しみにしていました。アリエティア、貴女の魅力は歌声ではありません。私にとって貴女の魅力はその心根。だから心配しないで私の元に来て下さい」
「ユーリ様…」
ユーリの言葉に気持ちが込み上げ、涙になった。けれど今度は温かな優しい涙だった。
その涙は心にある蟠りを溶け去り気持ちを和らげた。
声が出るようになったのはそれからすぐであった。
歌姫は声が出なくなる前よりも心に響く歌声になったと世間で噂になっている。
どこまでも響く美しい歌声。
歴史をみても彼女より素晴らしい歌姫はいないという。それは後世まで伝えられた。
彼女の歌声は隣に立つ人の為に。
誰よりも愛する彼の為に。