世界で一番早い朝
父さんは七夕伝説が嫌いなんだ。
そう呟いた、淋しげな眼を忘れない。失明寸前の薄灰色の瞳は、やがて瞼に隠された。陽奈と同じ短い睫毛が細かく震え、震え、震えている。眉間のしわは更に深くなり、薄い皮の向こうに眼球の形がくっきりと見えた。
――うん、あたしも、好きじゃない。ううん、大嫌い。大嫌いだから……。
嘘だ。本当は、あのロマンチックな物語が大好きだった。引き裂かれた二人が、一年にたった一度だけ天の川を越えて、愛し合う。お姫様は王子様に救い出されて幸せに暮らしました、めでたしめでたし、なんていうお話よりずっと気に入っていた。毎年、七夕が近づくと決まってそわそわして空を見上げ、てるてるぼうずをたくさん作った。それも、織姫を模ったものと彦星を模ったものをセットにして。短冊には自分のお願い事よりも先に『おりひめさまとひこぼしさまがあえますように』と書いて、保育園の先生に頼んで笹の一番上に吊るしてもらっていた。
それでも、口が滑っても好きとは言うまいと思った。いつだって陽気な父さんをこんなに苦しくさせるものなんて、きっと良いものではないに決まっている。陽奈は理由も聞かず、ただただ「大嫌い」と繰り返していた。父を慰めるつもりだったのか、よくは覚えていない。けれど、繰り返しているうちに、何故だか涙が浮かんできた。喉が熱くなって、声が不安定になる。ぐっと奥歯を噛みしめるとうまく発音できなくて、変な音が漏れ出た。
なんでなの。なんでか泣けてきちゃう。どうしてかな。
自分でも判らなくて、ひたすらに焦る。とにかくこれ以上父を悲しませてはいけないと思い、小さな手のひらで頬をこする。乱暴にしすぎたためか、頬が熱かった。
――ないてないから……あたし、ないてないのよ……!
陽奈はいつしか目をきつく瞑っていた。
ざあ・ざざん。
ざああ・ん。
波の音が耳を満たす。寄せては返す音に合わせて陽奈の鼓動も鳴った。左胸を中心にして、頭のてっ辺からへその周り、手足の先までドクドクという音が流れている。じーんとするような奇妙なぬるさが皮膚の下を撫でさすった。風の吹かない浜辺で、陽奈の身体はどうしようもなく火照っていた。
静寂の中にすすり泣きの声は混じる。
眼を閉じ、世界の八割を閉めだした二人は立ち尽くす。
その姿を見るものは誰もいないのだ。
――だってなあ、織姫と彦星は、逢えるじゃないか。相手を抱きしめられることができたら、それは充分しあわせじゃないか。
波間に紛れて、そんな声が聞こえた。
陽奈には少し難しいことだった。だって、逢えるって言ったって年に一回だけだ。三六五日のうち、たった一日だけ。残りの日は悲しいままで過ごさなきゃいけないのに、どうしてしあわせなのか。陽奈には、判らない。
――俺は、水平線に君をのぞむことしかできない。毎日毎日、こうして君の訪れを迎えても、君に触れ俺に触れてもらうことなどできない。これが如何に切なく胸を刺すか、必ず君も知っているのだろう。
陽奈は、ただ黙っていた。眼を開けるのも躊躇われて、涙をこぼさないように再び眉を結ぶ。
すると、熱を持て余した瞼の裏に広がる闇に、ほんのりとした、しかし息が止まるほど鮮明な輝きがもたらされた。
この光をよく知っている。
温かくて、世界中を明るく照らす光。
生きとし生けるものにとっての、絶対的な希望。
父はこの光を毎日迎えて、一日の終わりに沈んでゆくまでじっと見詰めて過ごす。そのせいで焼かれた眼は次第に視力を失いつつあるのだ。
陽奈は、眼を開けなくても確信していた。今この時――太陽が水平線から顔を出した一瞬だけは、この光は父と自分の二人だけに注がれていることを。これからも、この瞬間だけは太陽の最愛は自分たちなのだ、と。
ざあ・ざざん。
ざああ・ん。
――父さん。また明日、母さんに逢いにこようね。