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「君は――」
よく見るとそれは初日に霓裳と一緒に紹介された娘だった。
「紗羽?」
「お願いがあるんです。これを」
娘は小さな封筒を差し出した。
「貴方のお友達に渡していただけませんか?」
薄桃色の旗袍の胸の上で祈るように両手を組んで、
「また来るって約束したのに……私ずっと待っているのに……」
自分を見つめている脩の眼差しに気付いて頬を染める。
「あ、商売だからじゃないですよ? 私、あの御方のこと……本気でヴォルツォフさんのこと……」
「ああ、なるほど! 一目惚れッてやつだね?」
パチンと指を鳴らす脩。
「あいつは色男だもんなあ! 勿論、僕と同じくらいって意味だけど?」
「まあ!」
娘は少し笑った。
「でも、貴方みたいに優しくはないわ」
悲しげに首を振ると蘭の花の髪飾りも一緒に揺れた。
「それとも、私が霓裳みたいに美しくないせいでしょうか?」
「いや、君も充分に素敵だよ」
脩は微苦笑して、
「ヴォルッオフか。あいつは、妹がいるって言ってたからな。だから――」
そこまで言って言葉を飲み込む。その先は自分の心の中だけに止めた。
胸が痛いのだろう。
妹と同じ年頃の娘たちがこんな仕事をしているのがやりきれないのだ。見ているだけで耐えられないのだ。
脩は手紙を受け取ると背広の内ポケットに入れた。
「わかった。必ず渡すよ」
「ありがとうございます!」
「何ですか、これ? 紙しか入ってませんよ?」
滞在先のホテル。
二人はブロードウェイマンションに逗留している。
パブリックガーデンから外白渡橋を渡った、その北の袂に聳える19階立てのアールデコ洋式。外灘と黄浦江が一望の下に見渡せる上海屈指の高級ホテルだ。
何しろ鮎川脩は軍財閥の子弟という触れ込みだから、これは当然の選択である。
「だからさ、虹の娘――紗羽からのおまえへのラブレターだよ」
「ふざけないでください」
ヴォルツォフは読みもせず手紙をマホガニーのテーブルに置いた。
「で、薬は?」
「それは、こっち」
アルマイト製の携帯用ウィスキーボトルを差し出す。今日こそは、まんまと持ち出したのだ。
「いつも、この、液状の状態。つまり、酒に溶かして供される。ほら、破片チンキみたいにさ」
そして、決して店外へ持ち出してはならない。使用は店内のみ。
とはいえ――
脩は訝しんだ。
現に俺がこうして持ち出せたのだ。他の連中――優秀な列強の工作員たち――も、とっくにそうしているはず。
だから、薬がなんであるか、その正体、成分分析などはとっくに完了していてもおかしくはない。
だが今現在、全くその気配すらないのは何故だろう?
魔都の何処からも、この〈虹〉に関する情報が漏れて来ないとは……!
脩は首を捻った。
(どうも、妙だ。静か過ぎる……)
が、その理由はすぐにわかった。
「違う?」
豪華ホテル、スイートルームの共用リビング。
蓄音機にレコードを掛けて寛いでいた脩は眉を寄せた。
シャツの袖を下ろしながら自分の寝室――仮のラボ――から出て来た相棒をまじまじと見つめる。
「違うって……どういう意味だ?」
「何も出ませんでした。あれはただのワインですよ。ちなみにラインガウではなくてボルドー」
「――」
一拍空く。
「いや、そんなはずはない。供されたグラスから、目を盗んで、こっそり取り分けたんだ。残りは飲み干して――」
体感している。
さんざめく光の乱射……めくるめく陶酔……身体ごと薙ぎ払って到達する黄金の彼岸……
勿論、その感覚全てを正確に報告書に書くことなど不可能なのだが。
「じゃ、摺り替えられたんだ」
サラリとヴォルツォフは言った。
「持ち出そうとしているのが見破られて――そうだな、あなたが眠りこけている間に擦り替えられたんですよ」
金の髪を掻き上げて薄く笑う。
「流石にやり手ですね? 〈虹〉の娘たち。何処かの工作員以上だ」
「クソッ」
脩はソファに深く腰を落とした。
悪名高き青幇を始め、列強各国は、謎の薬の正体を掴もうと、皆、躍起になっている。
そのフシギな均衡の上に成り立つ現在の静謐。漣すら立たない平穏な日々。
だが、この状態が永遠に続くわけはない。
何より、工部局の警察が乗り出す前にかたをつける必要がある。何処よりも早く自分たち、上海海軍特別陸戦部隊が全情報を手中に収ねばならない。
たかが麻薬に? と侮るなかれ。
もっと先、戦争突入後、日本海軍はここ上海を根城に麻薬(※ヘロイン)を流通させて得た利益で戦闘機を増産している。これは史的事実である。
それほど〈薬〉の利用価値は大きかった。まして、噂どおり〈新薬〉ともなれば……
「これは、やり方を変えるべきかも知れないな……」
「え?」
彫刻を施されたホテルの天井を見上げて脩は呟いた。
「こっそり持ち出すのではなく正攻法で、正面突破するか」
そのためにするべきこととは――