20
信じられない光景を二人は見た。
眼下一帯が炎に包まれている。
眼前に広がる湖水の赤は夕焼けの色。対して、下方、谷を嘗め尽くす紅蓮は火焔のそれだ。呷られた熱風が渦を巻いて吹き上がって来る。
「な、なんだ? これはどうした――」
「邑よ! 邑が燃えてるっ!?」
絶叫して駆け出した霓裳。続いて脩も後を追った。その時、二人の前に立ち塞がった影――
「無理ですよ」
「ヴォルツォフ?」
「ヴォルツォフさん――」
「およしなさい。もう、無理です。邑は燃え尽きるでしょう。そして、跡形もなくなるんだ」
「まさか、おまえ」
「そうです。僕がやりました。ダイナマイトの威力は凄いな!」
「ダイナマイトって、そんなもの――」
言いながら脩は思い当たって戦慄した。掠れる声、宙に浮く言葉。
「あの装備? おまえ、あの膨らんだリュックに詰めていたのは、それか?」
脩はもっと別のことにも気づいた。
「では、始めからこのつもりで……こうするつもりで……ここへ来た?」
舌が縺れる。
「な、何故だ?」
「だから、貴方は甘いと言ったんだ、鮎川さん」
「ハッ、二重スパイ……?」
「貴方には申し訳ないと心から思っているんですよ。でも――」
一旦言葉を切る。噛み締めるようにヴォルツォフは言った。
「僕にも愛する人がいる」
緑の瞳が揺れて、脩にしがみついている虹の娘へと移る。
「貴方たちがお互いをそうであるように、僕にも命に代えて護りたい人たちがいるんです」
懐から銃を引き出した。選りによって脩が手渡した工作員配給のあの銃だ。
「妹と両親」
銃口を向け、瞳は伏せたまま、続ける。
「家族がベルリンにいる。僕はなんとしても助けたい」
「そうなのか?――」
「僕が逃れられたのは、偶々交換留学生でアメリカのハーバード大学に遊学中だったからです。だが、両親と妹はベルリンにいた。そして――現在は自由を束縛された、この上なく劣悪な環境に身を置いています。彼ら全員を安全に出国させるにはそれ相応の代価が必要だ」
瞳を上げて、キッパリと言い切った。
「今回の全ての情報、〈虹〉の案件は僕が貰います。そして、母国ドイツに捧げます」
漸く脩が返した。皮肉を込めて、
「たいした母国もあったものだな?」
「貴方だって。――貴方の母国だって似たようなものでしょう?」
ユダヤの青年はせせら笑った。
「僕たちは似たもの同士だな! 忠誠を尽くすべきホンモノの母国とやらは何処にあるんだろう?」
地面を蹴る。土塊が弾んで湖面に落ちて行った。
「本当は国なんかどうでもいい。信じちゃいないのだから。ドイツ? 日本? アメリカ? この後、何処が栄えようと……どの国が世界の覇権を握ろうと〝僕ら〟には関係ないんだ!」
耳障りな声で笑った後、真直ぐに脩の瞳を覗き込む。
「僕たちは似ていますね? だから僕は貴方が好きでした。貴方の胸に巣くっていた虚無は僕のそれでもありました」
「何言いやがる。裏切っておいて――」
「そうですよ、僕は裏切り者です。だから、あの時の貴方の言葉にはドキッとしました」
ここで、ヴォルツォフの声が震えた。
「今だから言いますが、心臓が潰れるかと思った。貴方に僕の正体を見透かされたのかと」
「?」
「ほら、甲君が死んだ日。入手した〈虹〉の秘薬を僕に渡して、貴方、言ったじゃありませんか!」
―― 行け。行って、おまえのなすべきことをなせ。
「あれは、イエス・キリストが裏切り者のユダに囁いた言葉です……」
《 あなたがしようとしていることを、今すぐ、しなさい 》
ヨハネによる福音書 13章
そうだ。
だから、僕は常に――
そうする。
「お逃げなさい」
息を吸って吐く。断ち切るように言葉を投げた。チラッと銃に目を落として、
「僕には貴方は殺せない。ですから、この後は、どうか幸せに生きてください。貴方にはまだ幸せに生きる資格がありますよ。僕は、もう無理だが」
ヴォルツォフは囂囂と炎を上げる邑を振り返った。
湖面を渡って来た冷たい風が顔を吹き過ぎる。ヒヤリ、湿った唇。
ヒヤリ。
唇に、湿った冷たい感触。
「?」
目を開けると娘の白い顔があった。熟睡していた自分の唇に重ねられた唇。
「あ、ごめんなさい。私……風邪をひかないよう上掛けをと思って……」
パッと飛び退るその手をヴォルツォフは掴んだ。
「いいんだ」
一気に引き寄せる。
「……ずっと思っていたんだ、紗羽。美しい名だな? 君にピッタリだ。そうだろう?」
「ヴォルツォフさん……」
熱い口づけ。
「僕に見せてくれないか? 君の全てを…きっと、これが最初で……最後だから」
「喜んで」
滑って床に落ちる衣類。
露出した肌の上をヴォルツォフの指が這う。確かめるように、そっと。やがて、激しく。
「あ、あ、あ」
「これが最初で、最後だ」
蛇の腹の中のような暗い室内で青年の声はくぐもって響いた。
「僕は鮎川さんみたいには君を愛せない。僕は家族を選ぶから。僕にとっては、やはり家族が一番大切なんだ」
激しく首を振って虹の娘はしがみついた。
「そんなこと! いいの! 私も今だけで。こ、これが最後だとしても……」
「ならば……全てをみせて……僕に」
乱れる髪を掻き分けて、湿った唇、火照った肌。指はなぞる。柔らかな乳房から背中の隆起まで。弄り、貪り、悶え、応え、絡まった……
「ちゃんと確認しましたよ、僕。愛せるのは一回きり。これが最後だって」
燃え盛る炎から静かな湖面に目を戻してヴォルツォフは微笑んだ。
「紗羽か!」
唇を嘗める。味わったソレを確かめるように、
「フフ、あの娘、僕が想像していた通りの身体をしていたな!」
「この野郎っ!」
脩が飛びついた。胸倉を掴んで地に引き倒す。
「なんて真似を……」
拳が炸裂した。
悲鳴を上げたのは霓裳の方。
「やめて、脩さん! その人、銃を持ってるのよ! お願い!」
「おまえがそんな人間だったとは!」
脩はやめなかった。馬乗りのまま殴り続ける。
「あの娘は心底おまえに惚れていたのに! 本気で愛していたのに! 破壊する意図で邑へ乗り込んで――その前に? 好きにしたのか? お、おまえは最低な男だ!」
「へえ!」
可笑しそうに青年の唇が吊り上がった。
「貴方だって――貴方、自分の事、いつもサイテーだって嘯いていたじゃないですか! 任務をいいことに、薬を堪能し、女色に溺れて……酒池肉林の日々だったろ!」
「ウッ」
ヴォルツォフの蹴りが鳩尾に入る。もう一度蹴って脩を跳ね除けると立ち上がった。
「光栄ですよ! 最低な貴方に? その称号を冠されるとは!」
切れた口の血を左手で拭う。右手には握ったままだった銃。その銃口を霓裳に向けた。
「もういい。さあ、早く、こいつを連れて行け! こんな最低の男でも――君は大切なんだろう?」
霓裳はこっくりと頷いた。
「もう邑は消滅した。明日以降、この場所を知るのは我が母国だけだ。貴方たち二人くらいどうでもいい。何処へでも行くがいい。とっとと……去れ」
涙を飛ばして駆け寄る霓裳。だが、脩は地面に腰を落としたまま一向に動こうとしなかった。じっと青年を――相棒だった男を、見つめている。
「何をぐずぐずしてる? 僕の気が変わらないうちに――逃げ延びろ!」
焦れてヴォルツォフは叫んだ。
「これは僕の唯一の餞……温情だぞ!」
「貴様――」
「脩さん」
虹の娘が懇願した。
「行きましょ、脩さん。お願い! とにかくここは……退いて……ね? 脩さんっ!」
「クソ――」
「そうだ、最後にもう一度、言います」
霓裳に支えられてゆっくりと立ち上がった脩に向かってヴォルツォフは言った。
「お認めなさい、鮎川さん。僕も貴方も本当の意味で母国などない。僕らは憐れなロストチャイルドなんだ。それなら――」
「命を捧げる国がないなら、愛に捧げればいい。僕は国のためではなく愛のため、愛する者のため――僕の場合は家族ですが――この身を捧げる。
貴方もそうすることをお勧めします。マヤカシの祖国など、とっとと見限ったほうが賢明です。
どうです、わかりやすいでしょう?
貴方には色んなことを教わったから、これが僕からの御恩返しです。今後の人生を生きる上で〈教訓〉ということで」
「ギル…… ……」
搾り出すような脩の声。
天と地、濃淡混ざり合った赤――その血の色を背景に、ギルベルト・ヴォルツォフは敬礼をした。
「では。限りない愛を込めて、ごきげんよう先輩! さようなら……!」
最低の男とは、よく言ったものだ。
俺は、マサニソレだ。
友だと心許した男に騙され、裏切られた……
まんまと宝を奪われ……挙句に、目の前で邑は焼かれ……種族をひとつ絶滅させた……
御国の任務に失敗した……
どうやって上海まで帰り着いたか、鮎川脩は全く憶えていない。
唯一、常に傍らにいて支え続けてくれた娘の、華奢な手の温もりを覚えているだけだった。
☆次回完結!