14
数人の若い男たちに暴行をうけているのは画家志望の少年、甲だった。
「おい! 止めろ! おまえ等……そこで何をやってる――」
群れに飛び込んだ脩。
「五月蝿い! あっちへ行きな!」
「俺達を誰だと思う!」
「俺達は〈折白〉様だぞ!」
「関係ない奴は引っ込んでいろ!」
「止めろったら!」
止めようとする脩にも容赦なく鉄拳が降り注ぐ。
脩も殴り返した。
「止めろと言ってるんだ! 止めろ!」
暫く揉み合う内にざわめきが広がった。
「おい、待て! こいつ――」
「日本人だぞ!」
「え?」
「ほんとか?」
「そりゃ、ヤバイ」
「日本とは関わるな!」
「もう、いい――ここまでだ!」
「行くぞ!」
潮が引くように若者たちは駆け去った。地面には血だらけの少年が残された。
「甲! しっかりしろ! 甲!?」
飛びついて抱き起こす脩。
「待ってろ、すぐ病院へ運んでやる」
甲は薄く目を開いた。
「病院は……いやだ。お願い……部屋に……僕の部屋まで……連れてって」
「――」
急な階段を背負って部屋へ運び入れる。
寝台に寝かしつけた少年は見るからに重篤だった。
「連中、折白党だろ? おまえ、あんな奴等と何の関わりがある? 一体、どんな問題起こしたんだ?」
折白党は魔都に巣食う凶暴な不良少年グループである。言うまでも無く巨悪の親玉、ギャング組織青幇に繋がっている。
「何か訳有りなら――畜生!」
思わず口をついて出る悪態。傷ついた少年を前に、迂闊で無力な自分自身を叱咤したのだ。
「俺が知っていたら、もっと早い内に相談に乗ってやったのに」
「いいんだ。大丈夫」
何処が大丈夫なものか。確実に浅くなっていく呼吸。少年は死にかけている。
脩は屈みこんで額の髪を撫で上げた。
「なあ? 病院に行くのがいやなら、医者を呼んで来るから、待ってろ。虹口の福民病院に知り合いの医師がいるんだ。国籍なんか問わない、腕が良くて信用の置けるいい先生だよ。だから、安心して――」
細い腕が伸びて麻の背広の肘を掴んだ。
「それより、一つだけ、お願いが……」
「なんだ? うん?」
「姉さんを……呼んで来て。僕、姉さんに……会いたい……」
少年の目は窓辺のレインボーメーカーを見つめていた。
ちょうど、昇った太陽の陽射しを集めて部屋は七色の洪水。
突然、それら、粉々に散った虹の飛礫に撃ち抜かれて、脩は悟った。
「……霓裳か?」
そうか? そうだったのか……!
「うん」
くそっ、
何故、気がつかなかった……
「わかった。すぐ、連れて来るよ。待ってろ!」
先刻、〈虹〉の姉の居室から飛び出した、その同じ勢いで鮎川脩は少年の部屋を飛び出して行った。
✙
「ど、どうしたんです?」
明け方、ホテルの部屋へ帰って来た、焦燥した脩の姿にヴォルツォフは驚いた。
「甲が死んだよ」
「え?」
鼻先に香水の小瓶を差し出す。
「ほら、今度こそ正真正銘……本物の〈虹〉だ」
反射的に受け取りながら、視線は脩の顔から離れない。
「……死んだって……あの甲君が?」
振り返ってマントルピースの上を見た。昨夜、その少年画家から買い上げた絵が置いてある。
青空の下、風に戦ぐ美しい花の群れ。
「……ハハハ、貴方、また、僕を担いでいる? お得意の与太話ですか?」
脩は事実だけを淡々と告げた。
「昨夜、外灘の路地裏で、折白党の糞餓鬼どもに袋叩きにされた。偶々、俺が通りかかって助け出したが――手遅れだった」
脩はソファに腰を落とすと煙草に火をつけた。
あれから――
《虹》へ走って姉、霓裳に事情を告げ、連れて戻った。
だが、部屋に入った時、既に少年は硬く強張り、息をしていなかった。
冷たくなった弟の頬に手を置いたまま、振り返って姉は言った。
『色々とご面倒をおかけして申し訳有りませんでした。もうお引取りください。この後は私だけで大丈夫ですから……』
「なんてこった! そんな……」
流石に呆然と立ち尽くすギルベルト・ヴォルツォフ。
「よせばいいのに。あいつ、危ない商売に手を染めていた」
煙を吸って、咳き込む。涙は、そのせいだ。
「まあ、可愛かったからなあ。甲の奴、客を取ってたんだよ。そのことが折白党にバレて、もめたらしい。上納金も払わず好き勝手に商売してたって、それで、制裁を受けたのさ」
「ああ、なるほど……」
ヴォルツォフは少年の下宿の階段で擦れ違った男を思い出した。
「おまけに、甲は霓裳の弟だった」
乱暴に髪を掻き揚げる。
「やっぱり、俺はカワイルカ以下だったな」
視野が全然効かない。世界がまるで見えていない。
「はあ?」
「何でもない。独り言だよ」
弟の屍骸を見下ろしていた虹の娘は気丈だった。
『お教えくださってありがとうございました、脩さん』
お辞儀の後、白い指がドアを差した。
『もう私だけで大丈夫です。どうぞ、お引取りください』
『だ、だが、これから色々と大変だろう? 葬儀とか埋葬とか――良かったら、力になるよ』
脩はボソボソと言った。
『これも何かの縁だ』
霓裳はきっぱりと首を振った。
『お心使い感謝します。でも、結構です。私たちには私たちのやり方がありますから――』
「『それぞれのなすべきことをなせ』……か」
ソファの背に頭を乗せると脩は天井へ煙を吐き出した。
《 ヨハネによる福音書 13章
あなたがしようとしていることを、今すぐ、しなさい 》
ヴォルツォフは覚醒したようにブルッと身震いした。ゆっくりと頷く。
「そうですね」
透明の液体の入った小瓶を手に自室へ向かう。
一度だけ、ドアの前で立ち止まって、頭を廻らせて少年の花園の絵を眺めた。美しい玫瑰は揺蕩いながら水底に沈む献花に見えた。
ドアを開けた。滑るように中に入って、後ろ手できっちりと閉めた。