12
二人は上陸本部に戻り、見たままを鮫島大佐に報告した。
その後、ホテルに帰り、遅い昼食を食べ仮眠を取った。夕刻、シャワーを浴びてから一緒に《虹》へ向かう。
自分はもう行かないと紗羽に宣言した手前、ヴォルツォフは少々ばつが悪かったが、そんな事は言っていられない。
未明の殺人事件に関しての未確認情報、〝被害者と同伴していたのが虹の娘らしい〟という件について事実関係を早急に探る必要があった。そして――
敢えて脩には告げなかったが、ヴォルツォフには気になることがあった。
赴いた《虹》の店内で聞いたのは意外な話だった。
「ようこそ、いらっしゃいませ! ああ、でも……」
駆け寄って来た霓裳は脩の隣に立つヴォルツォフを見て眉間に皺を寄せた。哀しさの滲む顔。
「残念ながら紗羽は、今日は店にはいないのよ。衝撃を受けて寝込んでしまったの」
脩が問う。
「そりゃ……どういう意味だい?」
「工部局の警官がやって来て――事情聴取というの? あれを受けたのよ」
「え?」
「まさか――」
「ええ。脩さんも、ヴォルツォフさんも、お二人とももうご存知だと思うけど」
心持ち声を顰めて虹の娘は言った。
「昨夜―― ほら? 外灘のリチャーズホテルで恐ろしい殺人事件があったでしょ? その被害者と一緒にいたのが紗羽ではないかと工部局は疑っているみたいなの」
「それは事実なのか?」
脩を押しのけてヴォルツォフが質した。
「つまり、本当に……実際に……紗羽が一緒だったのか?」
「ううん!」
きっぱりと霓裳は首を横に振った
「紗羽は昨夜は外出しなかった。ずっと店にいたわ」
普段は温厚なオーナーのフーディも工部局警察の一方的な言い分に腹を立てて派手にやりあったそうだ。
―― ここ租界中に美しい娘たちはたくさんいますよ?
その中の誰かと見違えたのでしょう。
大体、何を証拠に当店のショーガールだと決め付けるのですか?
新型旗袍に長い髪? 本気で仰っておられる?
ならば、この魔都の若い娘は全員が容疑者だな!
実際、警察の方も決定的な証拠を有しているわけではなかった。いくつか型どおりの質問をした後、身柄を拘束することなく引き上げた。
「でも、気の弱い紗羽はショックを受けて寝込んでしまったの」
霓裳は付け加えた。
「可哀想に。折角、一昨日は」
ここでチラッとヴォルツォフを見る。
「憧れの御方と遠出ができたって、心から喜んでいたのに」
「――」
その遠出――ドライブをした、まさにその日だ。
紗羽は言っていなかったか?
今回、殺害された工作員、セルゲイ・アクシャーノクの名を。
―― セルゲイ・アクショーノフさんが貴方ならいいのに。
しつこいのよ。毎日会いに来るの。
実は、これこそ、ギルベルト・ヴォルツォフが突き止めたい真相だった。
惨殺されたセルゲイ・アクシャーノクは紗羽の常連客だった。
彼女自身がそう告げたのだ。
だから?
連れだってホテルに入った相手が〈虹の娘〉紗羽だとしても不思議ではない。これは有り得ること。頗る信憑性のある話なのだ。
しかも、この件については、鮎川脩は知らない。
自分だけが保有している〈貴重な情報〉である。
この意味は大きい。
鳥、とか、翼を羽ばたかせて6階の窓から飛び去ったとか、その種の〈眉唾な情報〉はさておき――
「……」
例によって、程なく脩と霓裳は連れ立って階上の個室へ消えた。
ヴォルツォフはウォッカトニックを飲み干すと店を出た。
瓦斯燈といえばロマンチックこの上ない響きだが。
実は上海の街灯は既に20年代に全て電気に切り替わっている。その近代的な灯の滲む路上で一旦立ち止まって周囲を透かし見る。
それから足早に歩き出した。
《当》の看板が出ている煉瓦の建物。
狭い階段を上って、最上階の部屋の扉を叩く。すぐに扉は開いた。
「ヴォルツォフさん? ああ、驚いた! 今時分、どうしたのさ?」
「ちょっと聞きたいことがある。入っていいかい?」
一瞬、躊躇したものの、甲はさっと扉を開いて招き入れた。
「待ってて、今、灯りをつけるから」
慌てて赤い蝋燭に火をともす。イーゼルにカンバスが立てかけてあった。
「絵を描いていたのか?」
暗い中で?
「節約してるんだよ。大丈夫、僕、闇には慣れているから」
虹の娘を思い出して、ついヴォルツォフは笑ってしまった。
暗闇の中で震えていた姑娘。闇が平気だというこの少年画家。なんと対照的なことか……!
「で? 話って何?」
炎の揺らめく燭台の下、持って来た絵を差し出して、ヴォルツォフは訊いた。
「君が描いたこの男だが、昨日、《虹》に立ち寄らなかったか?」
「?」
〝《虹》に出入りする人物の似顔絵を描く〟
脩との契約は未だ続行中である。従って、少年は大抵の時間を店先の道に潜んで過ごしている。新しい顔を見かけると即座に描いて持って来る、というわけだ。
その甲がきっぱりと首を振った。
「いや、見なかった。昨日は、この男は来なかった」
「そうか」
ヴォルツォフは息を吐いた。これでひとつ、真実が確認できた――
と、ここでくぐもった笑い声が響いた。
「あれ? ひょっとして……」
狭い部屋、仄かな明かりの中で、日頃表情が読めないポーカーフェイスの西洋人の青年を面白そうに見つめる少年画家の二つの瞳。
「クールなヴォルツォフさんでも内心、心配だった? ほら、殺された男の件に紗羽が関わってるんじゃないかって?」
「まあ――」
ヴォルツォフは曖昧に言葉を濁した。
(クールか……?)
やはり、俺はそんな風に見えるんだな?
だが、それでいい。工作員の本心など誰にわかる? いや、そもそも心を見透かされているようでは工作員ではない。
黙り込むヴォルツォフを気にせず、朗らかに甲は続けた。
「フフ、わかるよ。冷たい振りしてたけど、やはり確かめずにいられなかったんでしょ? 優しい人なんだね、ヴォルツォフさん! 紗羽の身の潔白が晴れて良かったね!」
「そ、そんなことは、いいから」
話題を変えようと身を翻す。
「――うん?」
改めてカンバスの、描きかけの絵が目に入った。
またあのモチーフ。
何故、自分が少年のこの絵に惹かれるか、わかった。
今朝、殺人現場を確認した後、ホテルの前で交わした脩との会話で気づいたのだ。
あの時、思いがけず口走った言葉……
―― それでも、春は美しいです。都市ではなく郊外の何もない野原が、ね。
自分があれほど故郷(の野原)を愛していたとは……!
懐かしく胸の奥底に沈殿させていた風景。それに重なる世界が眼前の少年の画布に広がっていた。
一面の花畑……6月の伯林の花の波……
とはいえ、厳密に言うと、花の姿は違うし、背景の空の色も違う。
伯林は蘭で、こちらは玫瑰――
「この絵がどうかした?」
絵を見つめたまま動かない青年を怪訝そうに少年が振り仰ぐ。
「何か可笑しなところでもある? 構図? それとも色彩?」
「ここが君の故郷かい?」
唐突な問いに少年は笑って頷いた。
「そうだよ。それが何か?」
「いや、なんでもない。唯、僕はこの絵が非常に気に入ったってこと。物凄く……魅了されたよ!」
「本当?」
「本当だとも。その証拠に――この花の絵の、描き上げたやつがあったろ? それを一枚、売ってくれないか? この場で買うよ」
「わあお! ありがとうございます!」
値段は好きにつけていい、という少年に充分過ぎる金額を払い、カンバス――61×46の12号サイズだ――を抱えて部屋を出た。
階段を下りて行く途中で下から上っていた男と鉢合わせた。狭い階段なので絵と一緒に壁際へ身を寄せて擦れ違った。