11
「殺人事件――ですって?」
「そうだ。見たまえ」
鮫島大佐は机に紙片を置いた。
それは先日、脩が届けた、甲少年に描かせた似顔絵の中の一枚だった。続けてもう一枚、写真を並べる。
一瞥して同一人物だとわかった。やはり、少年画家の力量は大したものだ!
「この顔に見覚えは?」
「面識はありません。《虹》店内でも、僕は実際には会ったことはない。この絵が初見です」
応えた後で脩は問い返した。
「ロシア人ですよね? と言うことは―ソ連のスパイ?」
「違う。まあ、スパイと言うのは当たっているが。実は工部局の所属だ。最近連中がよくやる手だ。革命後に大量に租界に流れ込んだ白系ロシア人を工作員として採用している」
絵を指差して大佐が続ける。
「名はセルゲイ・アクショーノフ。この男が昨夜、惨殺された。場所はリチャーズホテルの6階客室」
「惨殺?」
聞き捨てならない。眉を寄せた脩に、大佐は手を振って、
「だが、それ以外言いようがない。言葉通りだよ。首が辛うじて皮一枚で繋がっている状態だったそうだ。凶器は未確定、未発見。工部局の警察の報告では、〝獣に噛み千切られたような〟だと。だが何より問題なのは」
一度ここで言葉を切って二人の顔を順番に眺めてから、
「一緒にホテルに入った女が《虹》で雇われている娘らしいということだ」
「誰です?」
ぐっと身を乗り出す脩。
「まだ特定できていない。あくまで〝らしい〟と言うだけで。何しろさっき報告があったばかりなんだ。そして、それがどうも」
日頃、あまり表情を変えない鮫島大佐が困惑を露わにした。報告書を引き寄せ、人差し指で頬を掻く。
「ううむ? 正直、全く訳がわからない。情報が錯綜している……」
殺人現場のホテルの部屋は内側から鍵が掛かっていた。悲鳴を聞いた同じ階の客が自室からフロントに連絡して、確認に赴いた客室係のボーイが副オーナー監視の下、マスターキィでドアを開け死体を発見。
「但し、さっき言ったように犯行に使用された凶器は発見されていない」
椅子に背をつけて大佐は最も重要な情報を明かした。
「一緒に入室したはずの娘の姿も室内の何処を捜しても見出せなかった」
「――」
黙り込んだ脩に代わり質したのはヴォルツォフだった。
「部屋は、確か、6階と言っていましたよね?」
「うん。ああ、言い忘れたが――窓は開いていたそうだ」
「――」
ヴォルツォフも口を閉ざした。
押し黙ったままの部下を睥睨して大佐が言った。
「君たち、ぜひとも自分の目で確認したいだろう? そう思って、我等、上海海軍陸戦隊にも殺人現場を公開するよう工部局と話をつけておいた。ここ上海租界の治安を預かる一員として当然の権利だからな。但し――」
「制服着用のこと、か」
今日ばかりは、虹口、陸戦隊本部で第三種軍装を身に纏う二人だった。
独特の褐青色。鮎川脩は髪を撫でつけ軍帽を目深に被った。ギルベルト・ヴォルツォフは更にサングラスをつける。
斯くして二人は機銃単車で乗り付けた。
「ふむ? いくら身軽でも、ここから逃げるのは無理があるな!」
リチャーズホテルの6階。
大きく開け放たれた窓から下を覗いて呻く脩だった。
このホテルも現在の上海を代表する豪華ホテルである。
ヴィクトリア朝バロック様式の華やかで重厚な外観。場所は外灘の北側。蘇州川に架かる外白渡橋を挟んで脩とヴォルツォフが逗留中のブロードウェイマンションと向き合っている。
昨夜、自分たちが謎解きをしている最中に対岸のこの部屋で工作員が謎の死を遂げた――
少々因縁めいた思いを抱きつつ眼下に広がる夜明けの魔都から一転、室内に視線を戻す。
分厚い絨毯に赤黒く残る染み。撓んだカーテンは被害者が喉を切られて昏倒した際、掴んだのだろうか?
だが目立った異変はそれぐらいで部屋は整然としていた。数時間前におぞましい殺人事件があった場所とは到底思えない。
流石に被害者の遺体は収容されて、部屋には残されてなかったが。
ドアの前に2名、工部局の警官が張り付いている。赤いターバンを撒いたインド人だ。警備と言うより明らかに脩とヴォルツォフ――陸戦隊の行動を監視しているように見えた。
当然ながら、工部局と上陸はお世辞にも仲が良いとは言えない。むしろ反目し合っている。昨今、何事につけ介入してくる上陸を工部局は警戒していた。脅威を抱いているのだろう。
実際、本格的な騒動、市街戦でも勃発すれば上海海軍特別陸戦部隊の方が遥かに有能である。砲隊から戦車隊に至る強力な装備を有しているのだから。工部局はあくまで〈警察〉であり上陸は〈軍隊〉なのだ。
「どうだ? 見るべきものは見たか?」
「ええ。一応」
屈み込んでいた床から立ち上がるヴォルツォフ。
「まるで、コナン・ドイルですね? 〈第二の血痕〉……」
「俺はむしろポーを連想するね」
脩は再び窓を振り返った。
「『そうだ。心は暫し静寂に。神秘は向こうの窓の外。だが、風のみ。それ以外には何も無い』
……なんだ、その顔? 何が可笑しい?」
「いえ、僕のこと、昨夜、哲学専攻とか言っておちょくったくせに。貴方こそ、何です? 文学科卒?」
「ぬかせ。〈大鴉〉くらい誰でも知ってるさ!」
`Surely,' said I, `surely that is something at my window lattice;
私の窓枠に 何かがいる
'Tis the wind and nothing more!'
風のみ。それ以外には何も無い……
ホテルを出ると単車の周りに子どもたちが群がっていた。
靴磨きや花売り、マンゴー、ライチー、煙草にマッチ……
高級ホテルの客目当ての物売り、路上商売の子供たちだ。子供の方が可愛らしくて稼ぎになるので使われているがほとんどは所謂〈紐付き〉。背後に悪辣な元締めがいて上前をピンはねされるのだ。
それでも子供は子供、屈託がなかった。
「かっこいいな―!」
「やっぱり上陸のサイドカー、最高!」
「こんなに近くで見たの初めてだ!」
「さあ、どいた、どいた」
ヴォルツォフは子供の群れを散らしながら単車に跨った。
脩は回り込んで側車の座席に乗り込む。ついでにポケットから小銭を撒いた。
「これで菓子でも買うといい。さあ! 危ないから離れて」
「ヤッタァ!」
「わあい!」
「謝謝!」
「上陸の兵隊さん――」
一人、足を引き摺った小柄な少年が近づいて脩の制服の腕を引っ張った。靴磨きの箱を肩に下げている。
「ねえ? おじさんたち、昨夜ここであった殺人事件を調べに来たんだろ?」
「?」
「僕、見たんだ。でも、教えてやるって言うのに工部局の警官はあっちへ行けって、ちっとも取り合ってくれない。全然、僕の話聞こうとしないんだよ」
「へえ? どんな話だい、ぜひ教えてくれ」
「鳥がね、逃げた!」
「え?」
「あそこ――」
そう言って少年は指差した。最上階。さっき脩が覗いた、まさにその窓だ。
「あの窓さ! あの窓から――鳥が羽を広げて飛び去ったよ!」
「鳥?」
「そうさ! 細い鳥……」
ここでどっと笑い声が上がる。
「ばーか、童非! おまえ、どうせまた酔っ払ってたんだろ!」
同業の年嵩の一人が頭を小突いて、
「兵隊さん、真に受けない方がいいぜ!」
他の子供たちも一斉に囃し立てた。
「そうだ! そうだ! その通りっ」
「こいつは生まれた時から酔っ払ってた!」
「なにせ、母親がアル中だから!」
「嘘じゃないったら!」
童非は真っ赤になって叫び返す。
「そりゃ、確かに、昨夜も酔ってたけど……」
「ほーら、みろ!」
「今も酒臭いや!」
「いつも、酒臭い!」
「でも、でも――見たのは本当さ! たまたま空を見上げたら、暗い影が夜空をサーーーって横切って行ったんだ!」
「アーハハハハ」
「まだ言ってら!」
「酔っ払い童非! 千年万年酒浸り!」
「ありがとな」
喧騒の中、脩は少年の頭を撫でた。
「貴重な情報感謝するよ。ほら、お礼だ。これで――母ちゃんと一緒に美味いものでも食べるといい」
銀貨を渡す。得意げに目を輝かせて少年は訊いた。
「僕の話、役に立った?」
「ああ、物凄く!」
「どう思います?」
手袋を嵌めながらヴォルツォフが訊ねた。
「どうって?」
ゴーグルを下ろす脩。
「さっきの子供の話ですよ。なんだか――妙ですね? 貴方が口ずさんだ詩にも符合する」
あの先はこうでしょ? とヴォルツォフは暗唱した。
「 Open here I flung the shutter,
開け放たれた窓 蹴破られた雨戸
when, with many a flirt and flutter,
バサバサバサバサッ
In there stepped a stately raven of the saintly days of yore.
そこにいたのは、過ぎ去りし聖なる日々と 大鴉…… 」
「考え過ぎだよ」
脩は首を振った。
「あの子は夢でも見てたんだろうよ。可哀想に、夜通し働いて疲れ果てて……それで夢を見たのさ」
「夢ですか? それで片付けていいんだろうか?」
「まあ、そう言うがなあ、今の俺達の日々だって夢みたいなもんだからなあ」
「はい?」
何時になく柔らかな口調で脩は言うのだ。
「いやなに、この瞬間すら夢の延長じゃないかと、俺はしょっちゅう思うんだよ」
予想外の返答にヴォルツォフは面食らった。
「どういうことです?」
「そうだな、例えば、俺は今現在、さっきの靴磨きの少年よりももっと幼い――5歳くらいでさ、船べりに寝っ転がってウトウトしてる……」
细 细、ずっと午睡をしていただけ。
ママがそろそろ起こしに来るぞ。
―― シュウ、シュウ? いつまで寝てるの? もう夕ご飯よ。
薄目を開けて見る川の水は空五倍子色だ。
夕焼けにはまだ程遠い。
ヴォルツォフは笑った。
「そうやって、またヒトを煙に巻く。それ、幾つある貴方の昔話なんです?」
脩は笑い返した。
「悔しかったら、思い出話の一つでもでっち上げて披露して見せろよ、ギルちゃん? おまえの育ったベルリンは今世紀で最も繁栄した美しい街じゃないか!」
「あ、それは嘘です」
発進すべく単車のスロットルを捻って、欧州から来た青年は吐き捨てた。
「あそこは先の戦争と、それに続く内乱で疲弊した……死装束を纏った……惨めな……蒼褪めた街ですよ」
だが。
ふと思い出したように付け加える。
「それでも、春は美しい。都市ではなく郊外の何もない野原が、ね。芥子の花が一面に咲いて何処までも何処までも明るい橙色が地面を覆い尽くすんです。宛ら、太陽をばら撒いたように……」
ばら巻かれた光……
何処かで誰かが似たようなこと言ってなかったか?
ああ、そうか、霓裳か。
但し、娘が恋うのは太陽ではなく、虹だった。
( 何故だろう? )
加速するセルモーターの音を聴きつつ脩はそっと息を吐いた。俺の周りには煌きを偏愛する者ばかり集まっている……