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虹の口  作者: sanpo
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       虹の口 ―― 上海綺譚 ――


           挿絵(By みてみん)




   ☆ご報告!

    創作仲間の 五十鈴りく様 より

    拙作『虹の口』のイラストをいただきました!

    柔らかで優しい色合い、 登場人物たちのたおやかな表情、

    こんな風に読んで下さる方がいらっしゃる……

    作者冥利に尽きます。

    ありがとうございました!

   

    どうぞ、覗いて下さった皆様も、

    それぞれのご自由な〈読み〉で楽しんでいただけたらと

    願ってやみません。




  挿絵(By みてみん)





   


        ✙ 



 予想したより狭かった。

 だが、内装は悪くない。精緻な寄木細工の床、漆喰の壁。天井から吊り下げたシャンデリアの、なんと言う眩しさ!

 中国語で何と言った? そう、光彩陸離。

 砕けた光の飛沫を浴びて踊っている人たちは蜃気楼めいている。もっと大きなダンスホールに溢れている欧米の水兵などは見当たらずほとんどがスーツ姿の紳士だった。

「ようこそ、いらっしゃいませ!」

 帽子を脱いでテーブルに腰を下ろしたばかりだというのに。

 注文(オーダー)した飲み物より早くフロアを横切って店長らしき人物がやって来た。

 店同様に上品で優雅。長身にクリーム色のスーツが良く似合っている。一目見ただけでは人種が特定出来ない神秘的な容貌だ。

「当店へのお越しは初めてでございますね? ありがとうございます。私は店長のフーディと申します」

 英語で Hoody・G と印字された名刺を差し出した。

「フーディ? へえ! 奇術師みたいなお洒落な名だな?」

 名刺を一瞥して青年は微笑した。

「よろしく、フーディさん。僕ら、この店の評判を聞いて、居ても立ってもいられなくなったんですよ!」

 小粋な白の三つ揃えのその青年、ちょっと腰を浮かせて隣の、グレーにピンストライプのスーツを振り返る。

「なあ?」

「光栄です。どうぞ今後ともご贔屓に!」

「あ、僕は鮎川(あゆかわ)。こちらは――ヴォルツォフ君さ」

「ご学友ですか? こちらへはご旅行中?」

「そう! 僕たち大親友なんですよ!」


 大嘘だった。


 二人は昨日会ったばかりだ。

 場所は〈上陸(しゃんりく)〉の……

 上陸とは正式名称を上海海軍(しゃんはいかいぐん)特別陸戦部隊とくべつりくせんぶたいと言う。居留地保護を名目に上海に駐留する日本海軍の陸上戦闘部隊である。

 1900年の北清事変を機に上海に初上陸、以来、情勢緊迫のつど実践活動して来た。

 1932年以後は鎮守府から独立した唯一の常設部隊である。特に市街戦に対応した最強装備を有す……

 

 その上陸の、近代建築の牙城。鉄筋コンクリート4階建て、威風堂々たる建物の1室。

 

「〈虹〉?」

「そう、最近開店して人気急上昇の店だ。内偵に入ってもらいたい。場所は三馬路(サマロ)……」

 調査対象は何です、と訊く前に分厚いファイルが突き出される。

 担当指揮官・鮫島(さめじま)大佐は指を一本立てて、

「薬」

 思わず鮎川脩(あゆかわしゅう)は失笑してしまった。

「何を今更? 麻薬と売春は江戸の……じゃなかった、〈租界(そかい)の花〉じゃないですか! 工部(こうぶ)局公認でしょう?」


 そも、租界とは?

 1842年の南京条約により開港したここ上海の〈外国人居留地〉の総称である。

 当初、イギリス、アメリカが共同租界を、フランスがフランス租界を設定し、遅れて日本もこれに加わった。

 租界内は行政権と治外法権が認められている。最高行政管理機構は〈工部局〉と呼ばれ、列強各国の市民代表で構成されていた。勿論、警察組織も存在した。但し、〈麻薬と売春〉は〝問題を起こして他者に迷惑をかけない限り〟禁止されていなかった。列強各国の利権を優先する、自由と言う名の甘い(トリック)……!

 上海租界が魔都(イエローバビロン)と呼ばれる所以(ゆえん)である。


「だが、今回は笑っていられないのだ」

 大佐は厳格な表情を崩さなかった。

「どうも、店内で扱われる〈薬〉の正体が掴めない。生産地、ルート、販売元。何もかもが曖昧模糊としている。今まで何処の世界でも知られていない〈未知の新薬〉などいう噂も(まこと)しやかに流れている」

 咳払いをした。

青幇(チンパン)の管轄でもないらしい」

 

 青幇とは、言わずと知れた上海ギャングのこと。

 租界内に幾つもある阿片窟はほぼ彼ら青幇の経営なのだ。この他、堂子窟(男娼館)、魔鏡窟(SM劇場)、いかがわしい店の背後には必ず彼らの存在がある。


「その証拠に連中も懸命に嗅ぎ廻っている。勿論、青幇のみならず――列強各国も蠢いている。優秀なスパイを投入しているぞ」

 ここまでが初動捜査班の内偵結果だった。

 鮫島大佐は窓の外に目をやった。初夏の空が広がっている。大陸東沿岸部らしい鮮烈な青。

「近年、上海租界の治安維持に細心の心配りをしている我が陸戦隊としては、何処よりも早く正確な情報を知りたい。否、知っておく必要がある。おい、君!」

 呼ばれて衝立の向こうから出て来たのは金髪碧眼の欧州人だった。

「こちらが、今回、組んでもらうギルベルト・ヴォルツォフ君」

「初めまして。よろしくお願いします」

「こちらこそ」

「入手した薬は即、彼に渡すように。ヴォルツォフ君はベルリン大卒の薬学のエキスパートだよ」



 そういうわけで――

 今日、この時間、この〈(みせ)〉のテーブルに、二人は仲良く並んで腰を下ろしている。

「お恥ずかしい話、僕は大学を落第しかかっている。それで、親元に呼び戻される前に遊び尽くそうと思ってね。最後の旅に親友(・・)を誘ったのさ! このご時勢、一度国へ戻ったら、いくら軍閥の子弟といえども、どうなるかわからないからね」

 ここで運ばれて来たカクテルに口をつける。マンハッタンとギブスン。喉を潤した後、一層滑らかな口調で、

「それにしてもパスポートもなしで入国できるとは愉快だ! 僕の遊興の華やかなフィナーレを飾るにはこの街は最適だな!」

 この男、言うことにいちいち説得力がある。見るからに放蕩息子。よくもまあ、探し出してきたものだ。オールバックに整えた髪。右眉の上に微かな傷跡があって、それが逆に翳りのある風情を加味して美男ぶりを上げている。一方のご学友なる西洋人。

 こちらは絵に描いたような貴公子。(さなが)ら、プロイセン貴族の風貌。 

「今もさ、四馬路(スマロ)のカッフェ〈パリジャン〉で踊って来た帰りなんだが。いやあ! あそこの管弦楽団は超一流だな! でも、こんな可愛らしい店も悪くない。隠れ家のようで。なあ、ヴォルツォフ?」

「――」

「ああ、気にしないで、フーディさん。この男は(すこぶ)る無口な性質(たち)だから。その分、僕が騒ぐよ」

 脩は店長の方に身を傾けると悪戯っぽく片目を瞑ったてみせた。

「とはいえ、彼は、語学は僕より堪能だから内緒話は気をつけたほうがいいよ。母国語の独語は勿論、仏語、英語、日本語、中国語、何でもこなせる」

 ここで一旦息を継いだ。グラスの中のパールオニオンを小指で(つつ)きながら、

「ところで〈虹〉って店名だけど――」

 ゆっくりと顔を上げる。

背後(バック)に日本人がいるの?」

 店長・フーディ・Gは静かに首を振った。

「よく訊かれるのですが、偶然です。私の好きな言葉なんです」

 

 虹。

 

 実は虹の口、虹口(ホンキュー)と書くと、上海での日本居留地、日本租界の地名になる。

 先述の海軍特別陸戦部隊(しゃんりく)本部も虹口にあった。

 そうして、今や、この店で流通している正体不明の魔薬も〈虹〉と呼ばれていた。

「好きな名! なるほどな! 確かに、エル・ドラドやパレルモ、デル・モンテなどよりロマンチックだ!」

 鮎川脩は屈託のない笑い顔で話題を変えた。巻いた紙幣をそっとフーディのポケットに滑り込ませる。

「そういうわけで――さっそくだけど、可愛い子と知り合いになりたいんだが。今、ステージで歌ってるあの娘たちがいいな!」

 店長は完璧な微笑で会釈すると去って行った。


「旦那さんがた、こんばんは!」


 入れ替わりで響く声。

 少なからず二人はギョッとした。

 テーブルの前に立った少女――いや、少年? をまじまじと眺める。

 年のころは14、5。細面で可愛らしい。薄鼠の大掛児(タアクウル)(ひわ)色の褲子(クウズ)

「ああ、驚いた! 指名した可愛い子ちゃんが もう、やって来たのかと思った……」

 まだステージでピアノに寄り添って歌っている娘たちに目をやってから、改めて眼前へ視線を戻す。

「美男の旦那さんがた、お願いです。僕の絵を買ってくださいませんか?」

 少年がテーブルの上に差し出したものは二人の似顔絵だった。流れるような軽妙なタッチ。悪くない。

「へえ! よく似ている。いつの間にこんなの描いたんだ?」

 ヴォルツォフが覗き込んだのとほとんど同時に、

「買うよ!」

 脩が銀貨を弾き飛ばした。

「え? こ、こんなに下さるんですか?」

「取っときな。俺は芸術がわかる男なんだ」

「こら! (ジャー)!」

 店長の叱責が飛ぶ。

「ここで商売はするなと注意しただろう? 勝手に店内に入って来るんじゃない!」

「ヒャ! 見つかっちゃった! じゃ、謝謝! 親切な美男の旦那さんがた!」

 駆け去る少年の後姿にフーディは眉を寄せた。

「全く――目を離すとすぐこれだ」

「お待たせいたしました!」

 店長を押しのけるようにして前に進み出たのは、今度こそ正真正銘の美姫たち。この店自慢の、歌い手であり踊り子でもあるショーガールだ。

「では、ごゆっくり」

 会釈して店長は立ち去った。

「初めまして! 私は霓裳(ニーシャン)。この子が」

紗羽(バオユー)です……」

 いずれ劣らぬ美しい娘だった。漆黒の髪の根元近くを色糸で一箇所だけ括って背中に長く垂らしている。劉海(まえがみ)は額に下ろしている。

 霓裳が青磁色の衣裳(イノシャン)、紗羽は薄桃の衣裳(イノシャン)褲子(クウズ)は履かない新型旗袍(チーパオ)だ。

 この旗袍が〈チャイナドレス〉の代名詞としてあっという間に定着したのには訳がある。深いスリットから生足が覗くせい。

「ニイハオ! 霓裳!」

 円らな瞳で恐れ気もなく見つめ返している娘にサッと手を差し述べる脩。

 やや遅れて、ヴォルツォフはもう一人の、伏せ目がちに微笑む娘に頷いて見せた。

「ニイハオ、紗羽……」

「ああ、霓裳! 僕は貴女に会いたくてたまらなかったんですよ!」

 さっそく隣に座らせて脩は言った。

「お噂はかねがねお聞きしています」

「まあ、嬉しい。どんな噂かしら?」

「貴女がとんでもなく――変態(・・)だって!」

「ブッ」

 今まで恬淡(クール)に決めていたヴォルツォフが盛大にカクテルを噴き出した音。

(おいおい……)

 耳を疑った。だが、これは事実である。

 はっきりと昨日、海軍特別陸戦部隊の建物内で聞かされた機密事項のひとつなのだ。



 ファイルを捲りながら脩は確認した。

「ふうん? 一番人気の歌手、霓裳ですか。可愛いな! で、この赤線が引いてある〈最重要特定要因〉とは?」

「変態」

「へえ! どんな?」

 ここで初めて鮫島大佐は表情を変えた。わずかに口の端を上げて、

「ソレを実地で調べるのが、鮎川君、君の仕事(・・)だろう?」


 


 とはいえ、まさか、直接、訊ねるとは……!

 驚きを隠せないヴォルツォフ。片や、訊かれた当人、霓裳は濡れた瞳をこれ以上ないくらい見開いた後で、男の膝にコロコロと笑い崩れた。

「いやだっ! 面白い御方!」

「よく言われます。そのとおり、僕は、面白くて……正直な人間なんですよ?」



 2時間後。

〈虹〉の階上は 霓裳の居室。

 その乱れた寝台の上で脩は納得の声を上げた。

「なるほど! 変態ってのは、このことか……!」




    




     挿絵(By みてみん)






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