第五話 はじめの一歩
何度かしつこく学園を休ませようとしてくる父親をなだめすかして、私は馬車に乗って学園に登校した。……朝、目覚めてからのたった数時間でなんだか異様に疲れた気がする。早くも計画にめげそうだったが、一度見えてしまった現実は、もう見なかったことにする事はできない。
しかし、ちょっとでもいつもと違う行動をすれば訝しく思われる確率が高いと父との会話で悟った私は、計画の変更を余儀なくされた。もっと慎重にやらねばならない。多少は仕方ないとはいえ、本当に少しずつにしないと問題が起きそうだ。これ以上無意味に嫌われ者になるのは、やっぱり避けたい。甘ったれに育った私は、前世的にいうと“メンタル激弱”なのである。人間、やっぱり過度な無理、よくない。
そんな結論にいたった私は、学園ではほぼ普段通り過ごした。学校についてすぐに昨日のことを取り巻きに心配され、大丈夫と笑う。……そのときほっとしたように見えたのは、果たして私が心配をかけたのか、それとも先に帰ったのを咎められなかったことを安心してなのか。……我ながら情けないが、後者の可能性も全く否定できない。現に私は昨日、なぜ自分についていてくれなかったのか、なんて憤ろうとしていたのだから。
いつも通り平民や下級貴族の子たちを見れば、取り巻きたちと一緒に嫌みを言ったりくだらない嫌がらせをして。空き時間のつきることのないお喋りの話題は、流行のドレスや社交界へのあこがれ、学園内のかっこいい人たちたちの噂話や生徒や先生のゴシップ。
正直、嫌みや嫌がらせをしている時は“前世の常識”にちくちくと罪悪感を刺激されてちょっと辛かった。いつも通りに、と心がけていたつもりなのだが、いつもの癖で実行しかけて、前世の価値観に邪魔されてうっかり口をつぐむこと数度。そのたびにちらっとこちらの様子を取り巻きちゃんたちに視線を向けられて内心ひやひやしていた。
そして。授業も問題だった。
いつもならくだらない夢想をしながらぼんやりと受けていた授業。しかし、今はともかく知識が重要だと夕べ悟ったばかりの私は、ふらふらと散歩にでようとする思考を必死に捕まえてまじめに受けようと努力した。授業ならばこちらは受け身の体制でいいし、いつもと同じを装うのもさして難しくはない。前世の常識で普通に受ければ良いのだから。……どうやら前世の私は比較的真面目な人間だったらしい。
だかしかし、そこで根本的な壁にぶちあたったのである。
――じ、授業の内容がさっぱりわからないだなんて。
確かに今まで真面目に受けてこなかった私は、集中力が欠如していた。授業の内容が上滑りするし、すぐに思考が別のことへと流れる。しかし、そこはまあ努力でなんとかできるから大丈夫として。
それ以前の問題として、その授業に至る前提知識――つまり基礎の部分ができていないようなのだ。言うなれば、四則演算ができないのにいきなり微分積分に挑むようなものである。無謀だ。
今日受けたすべての授業でそれなのだから、笑えない。前世の数学に相当する学問でさえ、問題文の記号や表現がなんなのか曖昧にしかわからないために解くことができなかったのだ! 思わず愕然としてしまったのは仕方あるまい。
――そもそも私、きちんと授業をうけたことあったかしら?
成績が中の下であったこと自体が奇跡。誰よ、貴族の教養のおかげじゃないかだなんて思ったの。これは、この学園に私よりひどい奴がいるのか、それともエアルドット家の権力か圧力か。まっとうな理由じゃないだろうだなんて思ってしまう。
それぐらいひどい有様だったのだ。
新たに露呈した自分のダメっぷりに意気消沈しながらも何とか放課後にたどり着いた私は、適当に理由をつけて取り巻きの少女たちを振り払い、一人学園の図書館にやってきていた。
気持ち的にはこそこそと。しかし悲しいかな、私は学園内でも結構有名な人間らしいので、図書館に入った途端、幾人かの生徒と教師にぎょっとした顔を向けられた。
――まあ、そうよね。私、ここに足を踏み入れるのだなんて初めてだもの。
前世で学生だったころの常識からは考えられないことに、ここに近寄ったことすらないのだ。
我ながら図書館が似合わないのは、嫌と言うほど感じている。だって今こうして図書館の入り口から本棚に向かって歩いているという最中でさえ、内心ではこんなところにくるならば早く家に帰って新しい装飾品でも選びたい……だなんてことがむくむくと頭をもたげている。
恥ずかしい、と私はやや熱くなった顔をしかめる。私がこんなところに来る必要ないのに、という思いと、そんなことを考えている自分自身がなんて情けないのだろう、という思い。前世と今世の価値観がぶつかり合って、私は今すぐにでも家に逃げ帰りたくなった。
――ああ、だめだわ。せめて何か一冊、本を選んで読むのよ、私!
なんて低レベルな目標、と嘆く前世の価値観。けれど今の私にはそのレベルでないとこなせないのだ。
できるだけ気配を消す努力をして――こちらを見てひそひそする生徒たちを怒鳴りつけたくなった――私は適当な本棚の間に滑り込んで、ドキドキする心臓を押さえつけて本を物色する。
『高等魔術学』『魔術史』『なぜ魔術は世界を救うのか』『君もできる! 大規模魔術』『魔術師になるために』『魔術学入門~初めての魔術~』『魔術雑学あれこれ』……どうやらここは魔法の本を収めている棚らしい。
どの本がいいかさっぱりだったため、とりあえず一番簡単そうな『魔術学入門~初めての魔術~』を手にとってその場で開いてみる。
「………………」
文字を追うこと、十三秒。
そのまま私は、そっと本を閉じた。
――全っ然、わかりませんわ!
ふるふると本をつかむ手を震わせながら、内心で私は思いっきり叫ぶ。一体どれだけ私は勉強をさぼっていたというのだろう。入門編を読んでいるはずなのにイメージすら沸いてこないってどういうこと!?
そもそも、私の年であるならば中等魔術……下手をしたら高等魔術まで学んでいておかしくはない、はずだ。実際、魔術の授業は『中等魔術教本』というものを使っていた。全くわからなくて挫折したけれど。
これは、もっと低レベルの――それこそ、小さな子供向けの本を探したほうがいいかもしれない。前世の知識から鑑みて、子供向けを侮ってはいけない。正確な知識を子供達に分かりやすく、をテーマにとても頭のいい学者たちが頭をひねって内容を考えてあるのだ。こちらの世界でそれが通用するかはさておき、物事は段階が必要なのだから、とっかかりに子供向きの本を読むのは間違っていないはず。
私は、本を元あった場所に戻して、心の中で鼻息荒く自棄気味にこう決意したのだった。
――こうなったら、零からやり直してやりますわよ!