第三話 嗚呼、前途多難。
校医がぎょっとして固まる気配がした。
「…………」
「…………」
ぽろり、ともう一つ涙の粒がこぼれて、視界がクリアになる。そして、改めて視線がばっちりかみ合った。
互いにしばし、何ともいえない空気で沈黙。
このフォトス学園で校医の職を勤めているこの男の名は、カラトナ・フィース。
子爵の出で、確か26歳ぐらいだったか。校医にしてはちょっとどうかと思うやや乱暴な言葉遣いで、女子生徒の中では眉をひそめる者と逆にそれがワイルドで素敵だというものとに分かれている。……ちなみに、私は前者だった。そもそもさほど身分が高いわけでもなし、職業は医者。学園につとめているとなるとどちらかと言えば使用人のくくりで認識していたし。
整った顔立ちの癖に、そんなことを頓着しない無造作にのばされた髭と、着崩した白衣。
癖の強い、赤みがかった長めの金髪をうなじのあたりでまとめ、いつもはやや気だるそうな榛の瞳を今は驚いたように見開いていて。
――なんでよりによってこのタイミングで入ってきたの、このぼんくら校医!
かぁっと顔が熱くなる。思わず、私は相手を思いっきり睨みつけてしまった。
情けなくも泣き顔を見られたことは、今までの私としても前世の価値観としても恥ずかしいと感じて。……ある意味、二つの価値観が初めて一致した瞬間だった。
「あー……、その、なんだ」
渾身の力でにらみつけたのだが、カラトナにはあまりダメージはないようだ。むしろ困ったように頬を掻いて、視線を泳がせる。……まあ、そもそも涙目の女の子に睨まれても普通に考えてあまり怖くはないか。当たり前だよな、うん。
「大丈夫、か?」
「……………………大丈夫、ですわ」
私は盛大に顔を逸らして、短く答える。が、言葉に反して先ほどから口を閉じることでこらえていた嗚咽が、ひくっ、とこぼれてしまい、別の意味で泣きたくなった。
「……っ忘れなさい」
「はあ……?」
「っ、わ、私が泣いていたこと、は、今すぐお忘れになって……!」
……何偉そうな物言いしてるんだろ、自分。
まあ正直、今の顔は見るに耐えないものだと思う。16とはいえ貴族の令嬢、当たり前のように化粧をしているし、この時代ウォータープルーフなんてものは存在しないわけで。
マスカラやらアイライナーや、どきついアイシャドウなんかを使っていなかったのがせめてもの幸いか。
ともかく顔を拭くもの、と思って周りにさっと視線を巡らすが、手の届く位置に自分の鞄もポーチもなくて。ちなみに着ている女子制服にはポケットが存在していない。……基本のデザインには存在しているのだが、貴族のほとんどはそれを元に自分用にオーダーメイド。校則違反ではないので、どれだけよく改造できているかがステータスになっていたりする。
何で私はポケットをつけなかったのよ……!
便利なのに、と過去の自分に内心で頭を抱えていると、カラトナの方は「あー……」と非常に困ったように頭をがしがしと掻いて、それから近くの棚からタオルをひっつかんできて、私の顔に押し当てた。
「なっ、なにをするんですの!」
「とりあえずそれで顔拭け、エアルドット」
この私に、なんて粗雑な扱いを! と一瞬かっと怒りがわく。しかし前世の価値観が、この人こういう性格だったでしょう、むしろタオルを貸してくれて感謝するべきだ、と宥めて、私は顔をしかめたままそれを受け取り、顔を軽く拭いた。熱かった目頭に当てれば、その熱を少しさましてくれてほっとする。
お礼をいわなければ、と思って口を開くが、なぜ私が、という思いが反抗して、結局何もいわずに口を閉じた。
……ああ、こんなことじゃだめなのに。だけど長年積み重なってきた自分を変えるのは、ひどく難しい。
「ほれ」
ほう、とふるえる息を吐いて、少し落ち着いたところで、ひょいと水の入ったコップを渡される。……何このイケメン。
喉が乾いていたのは確かなので、しかめっ面のまましぶしぶ受け取れば(なぜ素直に受け取れないんだ、自分)、ベッドの脇のイスに座ったカラトナが「それで」と口を開いた。
「頭の調子はどうだ? ――ああ、答えるのはそれ飲んでからでいいから」
……頭の調子って言われると、もの凄く不愉快なんだが。
しかし口を開こうとするのを制されて、勧められるままに私はこくりと水を飲み込む。魔法で冷やしてあったのだろうそれは、乾いた喉には冷たくておいしかった。
「痛いところや吐き気は? 記憶の混濁とかはないか? ――自分がどうしてここにいるか、覚えてるか?」
少しだけ気分が上昇した私は、重ねて問われた内容に答える。
「私は、階段から落ちて頭を打って気を失った……のですわよね? 記憶の混濁は……たぶんありませんわ。打った場所が、少し痛みますけど、吐き気は特には……」
あなたは校医なんだからとっとと痛みを治しなさい、という言葉は飲み込んだ。治療を受ける立場の人間が言う言葉じゃない。
後は記憶についてだが……さすがに前世の記憶が戻りましたとか馬鹿正直にいうことなんでできまい。確実に頭打っておかしくなったんだと診断されるだろう。それは絶対に嫌だ。今まで生きてきた私のプライド的にも、前世の記憶的にもアウト。混乱はしているが混濁ってほどじゃないから、たぶん嘘にはならないだろう。
「……そうか?」
やや訝しそうな顔でこちらをみるカラトナ。先ほど大泣きしていた癖に、とでも思っているのだろうか。あちらからしてみたら、私の行動は謎でしかないだろう。……あれ、やっぱり「頭の調子」って頭打っておかしくなってないかって意味だったんじゃ……。
「じゃあ、ちょっと治癒魔法をかけるからじっとしてろ」
そんなことを考えているとは知らないカラトナは、「まあいいか」といった風に息を吐いて話を変える。
っていうか、治癒魔法って……。それをかけて治る類のものだったのなら、倒れている間にとっととかけておいてくれればよかったのに。
考えていることが顔にでたのか、彼は魔法をかけるためだろう、私の方に手を伸ばしながら、やや肩をすくめた。
「頭を打ったって聞いていたからな。頭の場合、下手に治癒魔法をかけると場合によっては良くないことがある。まあ、もう少し経って目覚めなかったら話は違ったが」
だから目覚めるのを待っていたのだ、と言われて私はなるほど、と一応納得する。
そしてカラトナの手が私の頭の上あたりに翳されて、私は反射的に目をつぶる。と、低い声で何かを唱える声が聞こえると同時に、ふわり、と暖かい風が私の頭を撫でるように通り過ぎる。
思わず目を開けた時には、先ほどまであったズキズキとした痛みは跡形もなく消えていた。
「よし、これで大丈夫だろ。一応しばらく様子を見てまた具合が悪くなったら、ここに来るか医者に相談しろよ。……今日はもう帰っていいぞー」
にこり、とカラトナが笑って告げる。
……迎えはたぶんとっくに来ていることだろう。帰りの遅い私に心配しているかもしれない。先に帰った子たちが、事情を家の者たちに説明してくれていれば良いのだが。
あー疲れた、と呟きながら自分の仕事は終わったと立ち上がるカラトナ。
私もベッドから降りて立ち上がり、乱れた衣服を軽く整える。鞄に関しては、カーテンの外に配置されたソファの上に置いてあった。
「――さっきのこと、誰にも言わないでくださる?」
「ん? さっきってなんだっけ?」
鞄を手にして医務室出る前、私は少し迷ってからもう一度カラトナに念を押す。私がみっともなく泣いていたことを他の誰かに知られるのはとてもじゃないが勘弁願いたい。
そう思って言ったのに、首を傾げてとぼけて返事をしてきたカラトナに、一瞬だけ殺意が沸いた。私にそれを言わせる気か、と。
が、きっと睨んだその先のややバツの悪そうなすっとぼけた表情を見て、はたと気づく。
「……ありがとう」
思いっきり顔をしかめていただろうが、小さな声で――むしろ聞こえるなという思いも少し込めて――私はなんとかそう呟いてきびすを返して扉に手をかけた。
――先ほど、私は泣いているのを見られたとき、確かこういったのだ。“忘れてほしい”、と。
意外にもこの校医は、それを律儀に守ってくれたらしい。
「あー、エアルドット? 余計なお世話かもしれないが……その、だな」
後ろからかけられた声に、何だろうと私は顔だけ振り返って眉をひそめる。
カラトナは、言いづらそうに頬を掻いて、はあっとため息をついた。
「――あんまり、無理するなよ?」
私は、その言葉に一瞬ぽかんとしてしまって。
何でいきなりそんなことを、と考えれば、おそらく泣いていたことに起因するんだろうという答えがはじき出され、きっと何か壮絶な誤解が発生しているに違いないと一瞬のうちに結論づけられる。
だがしかし、どんな誤解が生じたのか聞くのが何となく怖い気がしてきて、ぐるりと巡った思考がとりあえず否定の言葉を紡いだ。
「よ、余計なお世話ですわ!」
あれ、これって否定、か……? と言い終えた後に思わず内心で首を傾げたが、どちらにせよ後戻りはできない。私は勢いに任せて逃げるように医務室から飛び出して、乱暴に扉をしめた。
そのまま何とか迎えのいる場所までたどり着き、どうして遅くなったのかを聞いてくる使用人の言葉に適当に返事をして馬車に飛び込む。
そして帰り道の馬車の中で、思わず自分の駄目っぷりを振り返って頭を抱えたのだった。
――あああ、もうっ、前途多難だわ……!