第二話 自分の最悪っぷりに泣けてきます
このままではいけないわと、ぐっと頭を上に向けた私だったが、ぶつけたらしい場所がずきりと痛んで結局また頭を抱えるハメになってしまった。
はあ、と息を吐いて、今度はそろりそろりと周りを窺う。……思えば、周りに誰も居ないのは少し可笑しい気がする。白い可動式のカーテンが引かれたベッドの周りは小さな個室のようになっているが、耳を済ませて見ても医務室内に取り巻きだった子達が居る気配はない。居たらきっと医務室内が賑やかになっていることだろうから。
――なんて薄情な友達なのかしら。私が怪我をしたっていうのに、側についていてくれないだなんて。
ややふて腐れた気持ちになった私は、しかしはたと我に返る。というか、前世の価値観がツッコミを入れた。
――ちょっと待て、私。何で“側についていてくれるのが当たり前”だなんて思っているのよ。
ここは医務室だ。あんな姦しい輩が居れば校医に追い出されるものだし、直前まで一緒にいた子たちだって、私にずっとついていてくれるなんてことが出来るわけがない。
あの時、既に授業は全て終わっていた。私がどれだけ倒れていたかは知らないが、あの子達は皆良いところの令嬢だから、下手をしたら迎えが来て自分の屋敷に帰っているはずだ。
この王立フォトス学園は、主に11歳から18歳ぐらいまでの生徒を受け入れている。
その目的としては、貴族の子息令嬢が知識や教養、社交性を身につけ、また身分の上下関係なく友情や人脈を育むこと。また、同時に将来有望な平民の人間も特待生として受け入れており、特待生からしてみれば出世の近道を掴むチャンスを、貴族からしてみれば使える人材を囲い込むチャンスを提供していることとなる。
そのため、建前上はこの学園内での身分差は存在しないということになっている。「身分に奢ることなく、また卑屈になることなく、平等に勉学にいそしむこと」と校則にも確か書いてあったはずだ(よく覚えていないが)。事実、授業は平民と貴族が同じ場所で受けるし、貴族に気軽な口をきいたとしても、学校側からの罰則は存在しない。……まあ、気軽な口をきかれた方の貴族が怒る、ということはあるが。
…………ええそうですよ私も怒るタイプでした! そして思いっきり取り巻き使って「身の程を味わいなさい!」とかありがちなセリフと共に報復させてました。ありえなさすぎる泣きたい。
学内には寮もきちんと完備されている。が、これは主に特待生の子や普段は地方に住んでいる貴族のためのもので、学園がある王都に住んでいる生徒であれば自分の屋敷から通うことも可能だ。
私も自分の屋敷から馬車で通っているし、取り巻きの子達も確かそうだったはず。少し前の私は、地方に住んでいる貴族を田舎者だと蔑んでいたから。……つくづく自分が嫌になるんだけどどうしたらいいの。
もういやああああ、と思わず叫びたい気持ちに駆られた私は、すんでのところで思いとどまり、落ち着くために何度か深呼吸をする。やっと落ち着いたところで最後に深く息を吐いた。つ、疲れたわ。
改めてゆっくりと息を吸えば、消毒液と薬草の香りが肺に入ってくる。私は、その香りを今更ながら認識して、少し顔をしかめてしまった。
前世の記憶が戻る前の私はあまりこれが好きではなかった。
――だって、お母様を思い出すもの。
私の母親は、気の強そうな色彩の外見に反して、とても病弱だった。
身体も、――多分心も。
屋敷から出た姿を見た事はなかったし、下手をすると部屋から出ずに私とですら会えない日が幾日も続いたときもあった。……かつては、遊びたいときに遊んでくれないと癇癪をおこしたり、愛されていないのだと恨んだりも、していたけれど。
今思えば母は病んでいたのだろう。私は今も“前世”も医者ではないし、その知識もないから正確なことはわからないが、現代人でいう鬱病に近いものがあったのかもしれない、と。
まあ、今となってはもう関係のない話なのかもしれないが。
…………母は、一週間ほど前に亡くなってしまっているのだから。
ああ、思考のコントロールが上手くきかない、と私はぼんやりと思う。
葬儀も済ませたが、私は結局母のために泣いていなかった。
葬儀の最中、私は大きく声を上げて泣いていたが、それは自分のためで。
――お母様が死んでしまったら、かわいそうな私はこれからどうしたらいいの!?
私は、片親がいない平民出身の子を蔑んでいたし、それを口にもしていたのだ。しかし私も今度は片親が消えた。なら、私は……私も他の子たちに蔑まれ、罵られることになるの? そんなことは、許せない。何故、お母様は死んでなんてしまったの? かわいそうな私を置いて。
どこまでも自分本位な私。
今思えば、自業自得だろ普通に平民出身の子に謝れよ、とセルフツッコミをいれられるが、その時は本気でそう思っていた。
基本的には母は私が嫌いで、私は母が嫌いなのだと、漠然と信じていた。
――それは違うわ、と今になって“前世”の記憶というか価値観が、優しく……そしてそれ故に抉るようなツッコミを囁いた。
よく思い出してみなさい、私。
病気が酷くないときのお母様は、必ず私と食事を取っていたでしょう?
家に帰ってきたとき、玄関で最初に出迎えてくれるのはお母様だったでしょう?
お父様より厳しいことを言った、といってもそれは全て今考えると当たり前のことばかりだった。それに、前の価値観から行くとそれでもまだ甘い言葉の方が明らかに多かった。
私はそれを当たり前だと、受け入れていて。
食事の時には一日の出来事を話し、出迎えてくれた時にはしかめっ面でも「ただいま」といい、鬱陶しい小言も嫌だと思っていたくせに最後まで聞いていた。
――それがなくなった今、とても悲しいと、そう思っているでしょう?
悲しいのは、母親に愛されていた証拠で、そして同時に私が母親を愛していた証拠なんだよ、と。
“前世”の価値観は、そう囁く。
少し前の私は、明らかに悲しみだなんて感情に慣れていなかった。怒りや悔しさ、癇癪のようでわがままで薄っぺらな“かなしい”。それらで泣いた記憶はあれども、母を亡くした時に感じたいいようもない大きな感情がなんなのか理解できていなかったのだと思う。
その存在がなんなのか知っていなければ、認識すらできないのだ。
幸い、といっていいのか。
今、私にはもう一人分の価値観を知っている。
――それが、“悲しい”という感情だと、知っている。
「わたくし、ばか、だったわ」
今更、自覚するだなんて。
遅すぎる、といっていい。
私は、確かにお母様が大好きだったのだと、そう思う。捻くれて自覚しようともしていなかったけれど、確かに大好きだった。愛してくれた人だったし、大切な家族だった。
大きく遅刻してやってきた“大好きな人を亡くした悲しみ”とやらの自覚で、私は目の奥がじわじわと熱くなっていくのを感じて。
「ああもう、いやになって、しまいますわ……っ」
かすれた喉で小さく呟いたと同時に、どこかで迷子になっていたらしい涙が、やっと出口を見つけて、ほろりと目から零れ落ちていく。
ほろり、ほろほろり、と。
次から次へと止まらなくなってしまった涙に、私はせめても、と嗚咽だけは辛うじてこらえた。
ああ、感情のコントロールがうまく効かない。
やはり、いきなりもう一つの記憶と価値観が混入してきて、頭の混乱がすぐに収まるはずなんてないのだ、と自分に言い訳をする。
「……かあ、さま…………っ」
親不孝な娘でごめんなさい。愛してくれてありがとう、大好きだった。
葬儀の時にいえなかった言葉を、遅ればせながら心の中で贈る。
ああ、ここでは駄目だ。家に帰ったら、存分に部屋で泣いていいから、今は誰かが来る前にはやく泣き止まなくては。
そう思った刹那。
「おー、エアルドット、そろそろ起きたかー?」
ジャッとカーテンが白のカーテンが開くのと同時に、その向こうから白衣の男が、やや気だるそうな低い声をかけながら顔を覗かせ。
「って、え……っ!?」
「――――っ!!?」
ぼやけた視界の中、多分、がっつり目が合った。
世の中、上手くはいかないらしい。
――ああ、なんて最悪なタイミングなの……!?
混乱の影響で感情の振れ幅が大きいヴィヴィアン。
やや唐突に見えるそれは、混乱ゆえに思考があっちこっちにとんでしまっているから。