第十五話 世界を一つ、広げましょう
「お出かけ、かい?」
目を丸くしたお父様に私は、「ええ、おでかけよ」と答えて内心どきまきしながら答えを待った。一人で出かけようなんて、はなから思っていない。だが取り巻きたちと一緒だなんて論外だ。彼女たちと一緒に行ったら、行きたい場所を回るなんてできないだろうし、きっと何よりおしゃべりに手いっぱいで大した観光はできまい。それはお父様も同じかもしれないが、それでも私がおねだりやわがままを言って甘えれば、行先の自由は多少あるだろう。……たぶん。きっと。おそらく。
――それに、お父様と一緒の方が安全だろうし。
ふむ、と言う風に顎に手を当てるお父様は、やがてあっさりと「たまにはそれも悪くないかもしれないね」と笑った。
「なら、朝食を食べながらどこにいくか考えるとしよう」
そうひとつ微笑して出ていくお父様に、私はどうにも肩すかしを喰らったような気持ちになる。入れ違いに入ってきた使用人たちに身支度を整えさせられながら、私は微妙な表情をしていた。
もっと、渋られると思っていたのだけれど。
だって今まで家から碌に出たことがないのだ。必要がないというのもあったが、お父様だって「外は危ない場所だ」と言っていたというのに。……私の自分改革が少しは実って、お父様も子離れし始めているのだろうか。それはありがたいけれどちょっと寂しいかもしれない。
そんなことを考えながら支度を終えて、朝食の席に着く。相も変わらず豪華で芸術的に小さく盛り付けられた朝食をお父様の笑顔に晒されながら食べる。
「それで、ヴィヴィー。どこに行きたい? 王都の南にある別邸の庭園にしようか、それとも東にあるヴィトラ湖の湖畔にでも行くかい? あそこの景色はとても綺麗なのだけれどね、今は特に見ごろの花も咲いているだろう。我が家所有の場所は景色の一番きれいな場所にあるから楽しめると思うよ」
にこやかに提案された内容は、どれもエアルドット家所有の土地に行くと言うもので、私は心惹かれるものを感じながらも「そうじゃないのよ」と首を振った。
「そちらも行って見たいけれど、私が行きたいのは王都の街中なんですの」
「……町中かい? ああ、中央庭園あたりか。貴族の一部はあそこを散策することも多い。ヴィヴィアンは行ったことがなかったね。お友達も行くことがあるだろうし、まあ一度は行って見ても悪くないかもしれないな」
納得したように頷くお父様に、私はちがーう!と頬を膨らませたくなった。わかっていて話をそらしているのかどうなのか。ちなみに中央庭園とは主に下流から中流貴族がよく利用する公共庭園である。所有は一応国となっていて、治安や景観の維持などの関係上、一般の平民は入ることができない。ある種の社交場でもあり、一部の貴族の間ではデートスポットでもあるらしい、というのは借りたばかりの『王都案内』の言だ。
「そちらも気になりますけれど! 私が言っているのは、街中よ。ラミゼット商会が王都に店を構えたってお友達から聞きましたの。何でも王族がお忍びで来るほどの店構えだとか。それに、平民たちがどんな風に街を歩いているのか、色々見てみたいわ。……もちろん、汚れたり疲れたりするのは嫌だもの、馬車の中からで十分だけれど」
「……なるほど。そういえば昨日、使用人にも王都について尋ねていたね」
「ええ。あまり役には立たなかったけれど。……でもお父様、私、そのために本も借りましたのよ?」
お父様は、やや目を細くして「ふむ」と薄く笑む。その視線は少し別の場所を見ているようで。何故かちょっとだけ自分が悪いことを言っているような気分に陥って、どきりとした。……わがままは言っているけれど、それほど悪いコトではない、はずですわよね……? それとも、この世界、この国、この王都に住む貴族が口にはしてはいけない類の事だったのかしら?
「ダメ、だったかしら……?」
思わず不安に駆られてお父様を見れば、お父様はその緑の瞳でこちらを見つめた後、ふと息を吐いて苦笑した。表情の色が和らいで、ほっと息を吐く。同時に、先ほどは少し冷たさを帯びた色だったのだと気づいた。
「君にそういわれたら駄目だとは言えないじゃないか、僕の可愛いヴィヴィー。確かに、二人でこっそり出歩くというのも悪くないかもしれないね。ただし、準備があるから明日になってしまうし、一人で馬車から出たりするのも危ないからしてはいけないよ。それでもかまわないかい?」
「っええ! もともと、一人で馬車から降りるだなんてことするつもりありませんもの。お父様と一緒に楽しめたらそれでいいわ」
私は、思わずガタンとはしたなく立ち上がって満面の笑みを浮かべて答えた。さすが私のお父様だわ、と抱きつきたいぐらいだったけれど、さすがに食事の途中だったことを思い出して席に座る。この過保護で私に甘々な父親は、きっと私を外に出したがらないだろうだなんて思っていたけれど。もしかしたら、考えすぎだったのかもしれない。
――籠の鳥みたいだ、なんて。もしかしたら、それはただ単に私が外に出ようとしなかったからなのかもしれませんわ。
ふと、そんなことも考えた。……前世の価値観の所為で、少し警戒しすぎていたのだろうか。
そんな風に、思いがけず願いが叶えられることになった私は、浮かれた気持ちでその日一日をお父様と一緒にのんびり過ごしたのだった。
さあ、初めての王都観光はお父様とどこに行こうか、危ない場所はお父様が教えてくださいますわよねだなんて気楽にウキウキと考えながら『王都案内』のページをめくりながら眠りについた次の日。
「すまないね、ヴィヴィアン」
朝食の席で体面した父の、眉尻をさげて申し訳なさそうな顔。
物事は相変わらずうまくいかない、と私はしょぼくれることになるのでした、まる。
急に王城から呼び出しがあり、夜まで帰ることが出来そうもない。だから王都散策も一緒にできなくなってしまった。そういうお父様に、私は愕然とする。お父様込みで楽しもう、と思っていたこの矢先にこれである。昨日も今日も、(そうすれば行きたい場所に行ける率が上がるんじゃないかという打算込みだけれど)お父様の甘やかしにあえて逆らわなかったというのに(もちろん、それはとても楽で楽しくて、うっかりするとそのまま堕落しそうだった)。なんだかこれでは、ケーキだと思って口に入れたものがローストビーフだったような気分だ。口は甘いケーキのために準備していたのにいきなりしょっぱい肉を突っ込まれてショックを受けるみたいな。
「お父様の……っ」
馬鹿っ嘘つき! だなんて怒りがわいてきて、けれどはたと前世の価値観がまったをかける。何小さな子供みたいに八つ当たりしようとしているの、私。いや、おねだりも十分子供じみているけれど、まあそこは置いといて。お父様だってきちんと仕事をしている大人なのだ、その仕事を邪魔してはいけないことぐらい、――お父様が故意で約束を破るだなんてことしたわけじゃないことぐらい、前世の価値観的に言うならば小学生だってわかること。……まあ前のヴィヴィアンにはわからなかったのだけれど。
「わかりましたわ。王城からの呼び出しでしたら仕方ないもの……」
「ヴィヴィー……」
一度深呼吸をしてから、私は諦めて目を伏せる。せっかくの初外出は失敗に終わった、かあ。期待していた分、ちょっと納得がいかない気持ちがわくがそれはとりあえず蓋をしてその辺に放置だ。後で枕にでも八つ当たりしてみようかしら。
「本当にすまないね、ヴィヴィー。王城には人の都合を考えない輩が多いのだ。――その代わり、この埋め合わせは必ずするよ。君の気が晴れる素敵な贈り物を用意すると約束するとも」
「……楽しみに、しているわ」
私は笑みを浮かべる。それでも少し表情が陰ってしまうのは仕方がない。喜んでいた分、落差が激しい。
そんな私を見て、お父様はこちらに歩み寄ってそっと頬を撫でる。視線を向ければ、深い緑の瞳がゆるりと細められた。慰められるように頭を撫でられる。
「……代わりにもならないかもしれないけれど、準備だけはしてあったからね。特別に護衛も雇ってあるし、ラミゼット商会へのアポもとってある。この程度じゃあお詫びにならないだろうが、ラミゼット商会で好きなものを好きなだけ買ってきなさい。行き帰りの馬車も特別に最高級のガラスで外が見える窓のついたものを用意している。カーテンを大きく開きさえしなければ安全だから、外を楽しむこともできるだろう。御者には少しだけ遠回りをさせるように言いつけて。――それで少しは元気をだしてはくれないかい? 僕の可愛い天使。君が悲しそうな顔をしていると僕まで悲しくなってしまう」
私は、続けて言われた言葉に目を見開いた。今、もしかしなくても「出かけていい」と言わなかっただろうか。……絶対にそれは無理だと――むしろ、ちょっとだけ怖いとさえ思っていたのに。
「本当? お父様、私が一人で行ってきてもいいんですの?」
「ああ、もちろんだとも」
若干食い気味で聞き返せば、お父様は笑顔で肯定した。きれいで素敵な、いつものお父様の笑顔だけれど、一瞬だけ「作り物めいた」という形容が浮かぶ。なぜそんなことを思ったのか。いつも通りの笑顔じゃない。それをすぐに私は気のせいだと否定して、私も笑みを浮かべた。
「ありがとう、お父様! それならお父様にもお土産を買ってくるわね」
「……楽しみにしているよ、僕のヴィヴィー」
食事が終わり、仕事へ向かうお父様を見送ってから、私はほうと息を吐く。昨日からずいぶんと目まぐるしい感情の上がり下がりがあった気がする。
でもともかくも。私は引きこもりから一歩踏み出すことができるのだ。……思いがけず、一人で(といっても、もちろん使用人たちは連れていくに決まっているが)。
お父様に久しぶりの「おねだり」を発動させた時とは別の緊張と不安を感じながらも、外出用に身支度を整えて。
さあ、でかけようと準備の終わった私は、今日連れていく使用人たちを引き連れて玄関を出る。
途端、まず目についたのは馬車。普段のものよりも装飾が少ないが、品が良いデザインで、何より窓のガラスが薄い。我が家の馬車はどれも分厚い色ガラスのものばかりだったから、新鮮に思えた。
……というよりお父様、いったいこの馬車はどうしたのかしら? もう一つの本邸や別邸にあったものを借りたというのでしたらよいのですけれど。
急ぎ新しいものを買ったというのも否定できないなぁと前世の価値観につられて遠い目をしてしまった。わざわざ買っただとかだったら、なんだか申し訳ないというか、やらかした気分になる。自分改革的に。
と、私が出てきたのに合わせて、すぐに「ヴィヴィアン様」と執事のマシューが声をかけてくる。準備は整っているらしい。あけられた扉から馬車に乗ろうとしたところで、ふと視界に黒が飛び込んできた気がして何気なくそちらに視線をやった。
そしてかち合った深い紫の視線に、思わず体が止まった。
「……マシュー。ねえ、彼は? 見ない顔だけれど」
「…旦那様が本日のために用意した護衛でございます。ギルドの中でも指折りの実力者ですので、安心して外出を楽しめるように、と」
「ふうん……?」
私は、内心ちょっと動揺しながら、彼を品定めするように上から下まで見た。……前の私だったらきっとこうするはずだ。
黒い髪、深い紫の瞳、見覚えのある顔。この前会った、某教師未満の……キール、だったかしら。……まさか、こんな形でまた会うとは、思いませんでしたわと内心でひとりごちる。
そんな私をどう見たのか。マシューは、来年度学園で講師をする予定だから、早めに顔合わせをしておくのも悪くないかとのお父様の配慮も含まれているのだと淡々と告げた。なぜか「知ってるわ」だなんて言えなくて、とっさに前の私の態度で「ふうん?」ともう一度興味のなさそうな相槌を打っていた。
目の前でそんなことを話されている彼はといえば、ほんの少しだけ驚いたように眉を挙げて、ぽつりと口を開く。
「君は……」
「初めまして。きちんと私を守ってくださるんでしょうね? 正直、それほど強そうには見えないけれど。いいかしら? 万が一何かあって、私はもちろんのこと馬車に傷一つつけたりしたら、お父様がきっととてもお怒りになって、あなたなんてすぐに王都にいられなくなりますわよ」
とっさに彼の言葉を遮って「初めまして」を装ったのは、半分は自分へのごまかしだ。前にあったときは前の私を知らない相手だと思って気を抜いてしまったけれど、今思い出すと後々エアルドット令嬢のヴィヴィアンとして学園で会うのだからちょっと失敗したと思ってしまっていたから。……いっそ、別人だと思ってくださればいいのに。
もう半分は、まあつまり。私なら(ちょっと自分改革に成功している段階でも)“小汚い荒くれもの”の冒険者相手にならこういった態度をとるだろうから、である。とくに、父親のテリトリーにいる間は前の私にまだ引きずられて尊大になりがちだし。
そんなことを思っていると、果たして「初めてということにしたい」という気持ちが伝わったのか、それとも前にあったことを忘れたか別人だと納得したのか、キール・ヴィクロフは雇われ護衛らしく名乗って礼をとる。その所作が思ったより自然かつ丁寧で私は驚いた。慣れているというか、板についているといえばいいのか。……たぶん、学園にいる平民よりずっと慣れている。
ギルドの中でも腕の立つ冒険者は貴族の指名が多かったり王宮に招かれることもあるというから、この人もそれなりの場数を踏んでいるのかもしれない。
そんなことを思って納得しながら、私は「まあ、せいぜいよろしくお願いするわ」と言い放って馬車に乗り込む。一緒に乗り込んできた使用人の横で扉が閉まり、がたごとと走り出してしばらくたつまで、正直ちょっと動揺がしたままで外の景色を見るのを忘れてしまっていた。
がたん、と馬車が揺れて、その後がたごとと少し道が荒くなる。もっといい道を走ればいいのに、と思ったところで、外のざわめきに気が付いてはたと我に返った。
――そうだわ、私、王都を見るのが目的だったんじゃない……!
最近思う。私、一つの事を考えていると別のことを忘れてしまいがちなタイプなんじゃないかしら、と。そんな自分にあきれながら、私は馬車の窓の分厚いビロードのカーテンを勢いよく開いた。
薄くて透き通ったガラス。その先に広がる雑多な色と景色と人が、私の視界に飛び込んできて。
同時に、ベール越しだった世界が急に鮮やかになったような気が、した。
――これが、王都……、私の住む都なんですわね……。
がたごとと、少し荒い道を馬車は進んでいく。ぽつりと思った感想は、胸のうちに消えた。




