第八話 父と娘の(一方的に)肌寒い一日
リンジー・ラーウェルとやらに逆ギレし、図書館で大騒ぎしてしまった私は、流石に反省してしばらく図書館への出入りを自粛した。すぐに鉢合わせるのは流石に避けたいし、「図書館で騒ぐなど言語道断!」と前世の私が叫んでいたので。
おかげさまでしばらく本を読まなくていい……じゃなかった、読めない期間ができてしまった。家には大した本はないし、図書館で本を借りるためには、カウンターに行って貸出手続きをしなくてはならない。厄介なことに私のプライドは誰かに本を借りているところを見られたくないと主張していたので、本を読むときは図書館で読んでいたのだ。——そのため私の図書館貸出記録(そんなものを作っているかは知らないけど)はいまだゼロのままである。情けないことに。
あなたヤル気あるの? と言われても仕方ない状態だが、しかし一言言わせてもらうのなら、自分の心とはなかなかままならないものなのだ。理想は見えているが感情が追い付かない。無理なダイエットは体に悪いように(これは前世の知識だ)、無理な自分改革は挫折とリバウンドをもたらすと思う!
とまあ言い訳じみたことを考えつつも、ここ数日はシャノン達取り巻きからそれとなく貴族社会についての情報を得る努力を試みたり、夕食後にメイドたちを追い払った自室にて今まで勉強したことをノートにまとめて復習するなどして過ごしていた。
この世界は、平面であるとされている。
世界の中央には大きな大陸が一つ。いびつな玉ねぎのような形をしていて、中央大陸と呼ばれている。大陸の中央には、神々のおわす天界まで届くといわれる高い山がそびえている。
その山の裾野には、山を取り巻くように深い湖があり、これば死者の国の天井であるとされているらしい。
さらにその周り、山と湖を除いた——つまりいびつなドーナッツ型に、広く“魔境”が広がっている。人間がめったに立ち入ることのできない、魔物や魔族などが住む広い地域だ。そこには魔のモノを統率する魔王という存在もいるらしく、前世の記憶的にいうならば魔界あたりだろうか。どこのRPGだろう。ちなみに一説によれば、死者の国へ繋がる湖から、魔素や魔物が湧き出てくるらしい。
中央大陸の周りには、小さめの大陸が五つ、大きな大陸を取り巻くように存在しており、発見された順番に壱の大陸、弐の大陸……と名づけられているらしい。その小さな大陸の外側にはひたすら海が“世界の終わりの地”まで続いているという。……実際のところどうなのかはわからないけれど。前世の世界でもかつて地上は平面だと信じられていたが、結局まるい星の上に陸地があったのだし。
私が住んでいるこのカナリスタ王国は中央大陸の西に位置する、大陸の中でも一番大きく豊かな王国。国境付近で他の国との小競り合いはあるものの、おおむね国内は平和である、らしい。
今日もまたノートを見返して、ため息をつく。次いで広げた学園で使っている教科書にもいくつか書き込みを加えていく。流石というかなんというか、「オークでもわかるシリーズ」のおかげで、勉強に慣れていない私でもなんとか教科書や授業が理解できるようになってきた。
——私も、やればできるんですのね。
少しずつ少しずつ、勉強がわかるようになってくるにつれて、勉強することがだんだん楽しくなってきて苦笑する。本当にじわじわだけれども、まさか自分がそんな体験をするとは。
勉強用のノートは当たり前のようにこの世界の言葉と文字で記録している。流石の私でも読み書きは完璧だし、この世界で生きる以上きちんとこの世界の言葉で記すべきだ。
そしてそれとは別に、自分の家庭環境や「こんなことをメモするのか?」と首を傾げられそうな一般常識、そして思い出した前世の記憶や知識——そういった他人に見せたくないようなものは、一つの手帳の中に日本語でまとめておいた。自分だけの暗号みたいで楽しいし、前世の自分も私自身なのだ、そこで培われたものを忘れたくはなかった。せっかく思い出したのだから、忘れてしまうのはもったいない。たとえ思い出して以来、いろいろと大変な思いをしているのだとしても。
ノートも手帳も、たかだがメモのためなのに笑えるぐらいに豪華なものだったのにはなんとなく遠い目になってしまったが。
私は時計をちらりとみやって(時間や月日の進みは、どうやら前世と同じものだらしい)そろそろ眠る時間だと机に広げていたものをすべて片づけて、そっと明かりを消した。
そうして、おやすみなさいと心の中で誰にともなくつぶやいて、ベッドにもぐりこんだのだった。明日は、そろそろまた図書館に行こうかしら、だなんて決意して。
◇◆◇◇◆◇◇◆◇
しかし、次の日の朝。
――そんなことを思っていた時期もありましたわね。
人生はままならないものですわ、と朝食の席でうふふと私は遠い目をして乾いた笑いをこぼしたのだった。
目の前にいるのは、とろけるような笑顔を私に向けてくるナイスミドル……もとい、父のオズワルド。
ここ数日、王城での仕事が忙しかったらしく、この屋敷に帰ってくることはなかった。私はそれを寂しいと思いつつも、少しほっとしていたのだが。
今朝、ドレスを着て朝食の席に来てみれば、満面の笑みで父が抱き着いてきて、「ああ会いたかったよ、私のかわいいヴィヴィ―!」だなんて。
そのまま、いつも通り朝食かと思いきや、席に着いたのと同時に、父はとんでもないことを言い放ったのだった。
「しばらく寂しい思いをさせて悪かったね、ヴィヴィ―。だが今日は休みをもらってきたんだ。しばらく会えなかった分、今日はたくさん話をしようか? そうだ、久しぶりに庭で散歩をして、奥にある泉の近くで昼食をとろう。あそこはアイリーンとの思い出の場所だし、昔はよく三人で食事をしていただろう?」
「ちょ、ちょっとお待ちになって、お父様。私、今日も学園が――」
「ああ、学園なら大丈夫だよ。もうマシューに休む旨を連絡させたからね。今日は家族水入らずでゆっくり過ごそう」
「……お父、様」
きらきらとした笑みを向けてくる父に、私は思わず言葉を失う。
いくらなんでも、高々数日会えないだけで、休みをもぎ取って一日一緒に過ごそう、はないと思う。ましてや、そんな理由で学園を休ませるだなんて、この世界でもちょっとやりすぎだ。確かにこちらは前世の世界よりも家庭の事情で学園を休むということに関してはゆるいのだが、父と一緒に過ごすためだけに休むのはどうなのだろう。
ちなみに、貴族ともなれば父親と一季節まるまる会えないだなんてざらで、下手をすれば年単位で会えない場合もある、らしい。私の記憶の中で父とひと月ですら離れた記憶はないから実感はないのだが、たかだか数日会えなかっただけでこの態度はちょっと親ばかすぎる。
この態度をみるに、父は私のことを年端もいかない幼児のように思っているのではないだろうか。
そんなことを考えながらも、しかしやたらと嬉しそうな父を見ていると反論もできそうになくて。
「まあ、うれしいですわ、お父様」
内心はともかく、にこやかに笑って見せるほか、なかった。
そんな訳で、うきうきという言葉がとても似合う父に見守られながら朝食を終え、新しいドレスに着替えて父のエスコートで家の庭を散策することになったのだった。
からっと晴れた青い空。庭は丁寧に手入れをされていて、私の知らない名前の花が咲き誇っている。
――改めて見ると、見事な庭ですわよね……
維持費がとんでもないんだろうなぁと思うのは前世が庶民だったからだろう。今まではこれが当たり前であり特に思うことはなかったのだが、こうしてみると非常に美しく、手間をかけて整えているのだろうなと思う。
思えば、記憶が戻ってからこうしてゆっくりと屋敷の庭を散策するのは初めてだった。学園があったのもあるし、今まで足りていなかった情報を得ようと必死だったということもある。同時に、今までの私だったらわざわざ改めて庭を散策するということをしないだろうと思ったからでもあった。突然庭を散策したいだなんて言い出したら、何が起きたのだと使用人たちがてんやわんやになるだろう。
「どうしたんだい、ヴィヴィー?」
そんなことをつらつら考えながら庭に見惚れていると、父が私の顔を覗き込んできた。相変わらず整った顔立ちだと思う。私はそれに「何でもありませんわ」と笑って首を振った。
「そうかい? それならいいのだけれど」
心配げな父は、まだ納得しきれていないという風に私の視線をとらえる。
「――そういえば、最近熱心に勉強をしているようだね? 学園の図書館にも通っているようだし、ノートまで作っているだろう?」
「え? ええ……」
そのほかにも、最近の私の行動を挙げて、頑張っていて偉いね、と頭を撫でてくれる父。それが気持ちよくて思わず目を細めてしまうが、数秒遅れてその内容に「ん?」と顔が引きつった。
――私、そのことに関して言っていませんわよ、ね……?
そう、少なくともメイドたちには言っていない。そりゃあ、徹底的に隠しているというほどではないのだが、それでもひっそりやっているつもりだった。
「それに、不思議な暗号も作っていて。――私にもヴィヴィ―の暗号を教えてくれないかい?」
……さらに言うならば、日本語で書いたノートについては、いまだかつて誰にも見せた記憶はない。
しばらく家に帰ってきていなかったというのに、どうしてこんなにも詳しいのだろうか。使用人たちに私の様子を聞いたとしても、それほど詳しく報告できるものだろうか。ましてや、学園内のことまで。
――お父様ならば全て知っていても当たり前かもしれないですけれど。
あきらめに近い思いで息を吐いて――、はたとその異常性に気づいてさあっと血の気が引いた。
ちょっとまて、どうして私はそのことを当たり前だと思っているのだろう。思い返せば、私は父親に隠し事をしたことがない。する必要がなかった。
だってお父様は私のことについて知らないことなんてないのだから。
私は今まで、そのことについて疑問を挟んだことはなかった。むしろ、父に任せていれば大丈夫だと安心すらしていた。
しかしだ。それはつまり、私の行動は全て父に監視されているということではなかろうか。何をしても、父に伝わってしまうのだ。
さすがに私自身の心の中までは覗けないだろうから、前世の記憶については安全だが。しかし、それは父にとって理由のわからない違和感を感じさせてしまう原因になる。
そして私が怖くなったのは、――それがきっと異常だろうとわかっているのに、特に嫌悪感を感じない自分自身だ。
明らかにおかしいのに、おかしいという感情が湧いてこない自分自身が気持ち悪い。
「ヴィヴィ―?」
「っ、だめよ、お父様。だって作りかけの暗号だもの。完成してから教えたいわ」
「そうかい? 残念だなぁ」
「ふふふ、完成したら一番にお父様に教えてさしあげますわ」
我ながらよくまわる口だなぁと感心した。にこやかに保った顔が引きつっていないかとても不安だ。
まあ、未完成な暗号なのは確かだ。なにせ日本語に使われている文字は、カタカナやひらがな、漢字にローマ字と種類が多い。全てを思い出すのはまず無理だ。特に漢字。
「じゃあ楽しみにしてようかな。――でも、どうして急に勉強を頑張り始めたんだい? もしかして、誰かに何か、言われた?」
すっと父の目が細くなる。その深い緑の瞳の奥に、冷たい光が宿っているような気がして思わず背筋が凍る。いつも私に甘い父の、初めて感じる一面に思わずぞっとした。私はとっさに首を振る。
「いいえ、お父様。誰にも何も言われていないわ」
「本当に? ――遠慮しなくていいんだよ? 何か君に言った人がいるなら、すぐに私にいいなさい。私が懲らしめてあげるのだから」
「本当に、何でもないのよ、お父様。ただね、私、きちんと勉強したほうがいいのかもしれないってふと思っただけですの」
怖い。もしもここで私が誰かの名前を挙げたのなら、この父は確実にその人を消してしまいそうな気がする。今までの私だったら、ためらいもなくその人の名前を挙げてほっとするのだろうけれど。
ああ、なんて恐ろしい。けれどこの父を嫌うことは、どうしても出来そうもなくて。
「そうか……。それにしても、ヴィヴィ―、君はなんて偉いんだ。勉強をしようというその気持ちは素晴らしい。――でもね、私のヴィヴィ―。君はそんな風に勉強しなくていいんだよ? そのままで十分魅力的なのだから。無理なんてしなくていい。魔法を使うなら魔術師を雇えばいいし、勉学が必要なら学者にやらせればいい。何かしたければ使用人を使えばいいのだよ」
ふわり、と私の髪を撫でながら、そっと父は私を引き寄せる。恋人にするかのように顔を寄せて、私と目を合わせた。鼻がくっつきそうなぐらい近い。
その距離を当たり前ととらえる自分自身に戸惑う。これは……この世界では父と娘との距離はこれが当たり前なのだろうか。
「恋をしたいのなら、素敵な相手を連れてきてあげる。だからね、ヴィヴィ―。君はいままで通り、自由に好きなようにしていておくれ。この屋敷の中で、君がしたいように生きていていいんだから。――何でも、私が叶えてあげよう」
ああ、それは。どろりと甘く沈むように――
「ありがとう、お父様」
そのまま父の言葉に溺れそうになる自分を済んでのところで前世の記憶が引き揚げて。
ぼやける思考を振り払うように、私は満面の笑みを父に向ける。
「じゃあ、何かやりたいことがあったらお父様にお願いするわね」
「――ああ、いつでも言いなさい」
「ふふ、楽しみだわ!」
前世の記憶を意識しなければ、今までの私と変わらない言葉が自然とこぼれていく。
暖かい陽気のくせに、私は肌寒くて仕方がない。この父の言動の真意が……まったくわからない。
にこやかに親子の会話を交わしながら、しかし私は決意する。そうでもないと、ずぶずぶと何か得体のしれないものに沈み込んで戻れなくなる気がするから。
――もしもお父様に何が大きなお願いをするとしたら……本当にせっぱつまったときだけですわ。
徐々に明らかになっていく家庭環境。
と、やんでれお父さん。




