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小春

作者: 糸川草一郎

小春は真っ白な大人の雌猫であった。猫の繁殖期である春先に我が家へふらりとやってきたが、非常に人懐っこい猫で、見た感じは明らかに野良ではなかった。猫なのに人間の女のような色気があり、人に媚を売るというか、科を作るようなところがあった。そして我が家の猫とすぐに仲良くなり、餌付けしたつもりもないのにいつしか一緒に餌を食べていた。

小春は眼に特徴があった。普通の猫より際立って大きな眼で、しかもアイラインを引いたかのように輪郭が黒っぽくなっており、それが大きな眼を殊更強調していた。人間の物差しで測れば、明らかに美女猫であった。

その所為か、やってきた当初から雄猫によくもてた。隣の家にこの辺り一帯を仕切るボス猫がいて、どうやらその猫と仲がいいらしく、どの猫の子種か判らないが、すぐにお腹が目立つほど大きくなってきた。

居ついてしまったものは追い出すのも大人気ないので、それでは飼ってやろうという事になり名前を付けようという話になった。特に意味もなく「小春」と名付けた。小春とは御存じのように陰暦十月の別名であるが、僕が念頭に置いたのは文盲の将棋棋士、坂田三吉の細君の名前である。最初はそのように小春と呼んでいたけれど、程なくして元気な仔猫を生んだので、別に何の気もなしに小春の事を「ママ」と呼ぶようになった。そうしているうちに小春もそれが自分の名前だという自覚が芽生えてきたらしく、ママと呼ぶと返事をするようになった。

ある時宅配便の小母さんが荷物を持ってきた。荷物は何だったか覚えていないが、この小母さんの声を聞きつけた小春は玄関先に顔を見せるや否や、この小母さんに飛びつくように抱きついたのである。何の事はない、小春はかつてこの小母さんのお宅の飼い猫であった。小母さんの話によると、小母さんのお宅は猫屋敷と言われるほど猫を飼っていて、小春はこの小母さんの運転する車に乗るのが好きだったらしく、いつも宅配便の車に配達のたびに同乗していたと言う。ところが登山道の界隈を廻っていた時、ちょっと眼を離したすきに小春は車を飛び出してどこかへ行ってしまった。登山道から僕の実家まではかなりある。言ってみれば歩くには遠すぎる距離だ。あの辺りの道路には当時歩道もなかったし、途中には国道もある。何処を通るにしても安全な旅ではなかった事は確かである。

その小母さんは猫の意思を尊重して、この猫を返してほしいとは言わなかった。小春が大事ではないという事ではなく、事を荒立てたくなかったのだと思う。

夕餉時になると、小春は父の席の右側に陣取る。そして暫くは人間の夕餉を面白そうに観察している。が、時々たまらなくなるらしく、つい手を出す。けれど、食べものに手を出すと頭を叩かれるのが判り切っているから、そんな頭の悪いねだり方ではない。どのようにするのかと言うと、父の箸を持つ方の腕、つまり右腕に自分の右の前脚をそっと添える。添える腕の場所はちょうど父の肘の内側近く。それが、「下さい」という意思表示なのだが、そんな願い事を素直に聞くほど父は性格が優しくない。しかしそのように無視されて引き下がる小春ではない。彼女には必殺技がある。第二段階はどうするのかと言うと、その右前脚に徐々に力を込めてゆく。力を込めると猫の前脚はどうなるのかと言うと、あの伝家の宝刀とも言うべき「爪」が出てくる。この第二段階も無視されると遂に必殺技が出る。右前脚に渾身の力を込めて、父の右肘の内側にその恐るべき爪をぐさっと喰い込ませるのである。これは、さすがの我慢強い父でも、かなり痛い。だからとうとう父の方が降参して小春はおすそ分けを頂ける段になる。しかし、その戦利品がふるっている。肉とか魚ではないのだ。何を分けてもらったかと言うと、普通猫は食べない、南瓜の甘煮であったり、大根や人参を甘辛く煮たものであったりする。

小春は犬のするようなマーキングをする猫であった。例えば、彼女がやってきた年に僕は新しく車を買い換えた。車が来た翌日、早速乗って出かけようと車の処へ行ったら、新車のバンパーの処に、ゼリーのようなものがこびりついていた。何だろうと思ってよく見たら、それは紛れもない猫の尿の痕であった。面白いのは、それを拭き取ってしまうと、また同じ処へ小春は執拗にマーキングする。何度拭き取ってもされてしまうので、仕舞には僕の方が根負けして、みっともないが尿の痕をつけたまま車を運転するしかなくなった。それほど執拗にマーキングが続いたのである。

しかし小春にも、中にはこんな武勇伝もある。ある朝母が起き出して外へ出た時に見つけたのだが、犬小屋の前に25センチから30センチ程もある大きなどぶ鼠が二匹、添い寝でもしているかのように枕を並べて死んでいた。普段なら咥えて人のいる処へ見せに持ってくるところであろうが、余りに大きく、運ぶのに骨が折れるので止めたのだろう。しかし犬のいる眼と鼻の先へ持ってきて、さもどうだ、食ってみろと、あたかも犬をからかうように二匹並べておくやり口は明らかに小春のやりそうな事である。

このように一癖二癖で済まない小春は、何と言うか、わけの判らない物事に腹を立てる事が多々あった。普通の猫の考えつかないような悪さをした。

冬、小春は炬燵のある茶の間で寝るのが常であったが、来た当時立派な大人の猫であったから、家の引き戸などは軽々と開ける事が出来たけれど、我が家では寝る前にやっておく事があった。お勝手口の三和土の処に猫のトイレがある。小春が夜中に催しても困らないように、三和土へ出る処の引き戸を猫の出入りがしやすいように十センチほど開けておかなくてはならないのである。自分で開けられるくせに、開けておいてもらわないと、小春はご機嫌を損ねるのだ。

こんな事があった。その晩はたまたま僕が一番遅くまで起きていたのだけれど、さて寝ようかということになって、茶の間の板襖を開けて自分の寝室である奥の間へ行った。僕はうっかりしていた。三和土への引き戸を開けておく事を忘れたのだ。

すると、どういうつもりだったのか、小春は常識では考えられない事をやった。何をやったかと言うと、玄関へ出る引き戸を開け、座敷に這入る引き戸を開け、縁側へ出る障子を開け、僕の寝ている奥の間の障子の破れた処から這入って来た。そして僕の枕元でにゃあにゃあと頻りに啼き、喉をごろごろ鳴らして、掛け布団の上に乗ったかと思うとそこで用を足しはじめたのである。

小春は前述のように鼠捕りの名人でもあって、当時はまだ蚕も年に二回飼っていたから、小春の存在は養蚕農家にとっては有難かった。実を言うと、我が家の猫はペットではない。あくまで家畜として飼っている。今でも田植えの頃に猫がいないと、苗床を鼠が荒らしに来たり、収穫した芋などを齧られたりの被害をこうむる事がある。こういう時、猫がいてくれるとそれだけで鼠の出没頻度は激減する。鼠の捕り方を知らない猫でも、居てくれるだけで助かる。ただテレビで放送しているような鼠と仲良しになってしまうような猫ではどうしようもない。そんな猫はお呼びでないから、よその知り合いに譲ってしまう。

よく猫は魔物だと言うが、小春にも魔物のようなところがあった。春が来るたび、秋が来るたび仔猫を生んだけれど、育てる場所は生むたびに変えた。出産直後の母猫は大変ナーバスになっている。その時は三和土の間の上がりはなの電話台の下で子育てを始めたので、底の浅い段ボール箱を置き、柔らかなタオルを敷いてそこに置いてやった。最初はその中で大人しく乳をやりながら頻りに子をあやしていたけれど、ある朝、仔猫は忽然と消えていて、小春一匹が段ボール箱の中のタオルに寝息を立てていた。その後仔猫たちを見かけた家族はいない。何処へやってしまったのか、未だに謎である。まさかとは思うが、ありえない事を家族内であれこれ考えたり、噂をしたりして肝を冷やした。

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