歌にのせた、願いごと。
一人で楽譜とにらみ合いをしていた。
楽譜には、たくさんの書き込み。
私の文字。先輩の文字。あの人が書いた文字。
音楽室にはもう誰も残っていない。
私は一人。いつも一緒にいた二人は、もう卒業してしまった。
二人とも、大好きだったから。
二人の邪魔をしたくはなかった。
だけど、募る気持ちを止めることは出来なくて。
あの人を選ぶと、先輩を傷付けてしまう。
先輩を選ぶと、あの人に私の気持ちが届くことは決してない。
もう、どうしていいかわからなくなって。
結局私は、あの人を選んだ。
卒業式の日に、好きですと告げたら。
あの人は困った顔で、ごめんと言った。
そうして私は、大好きな二人を同時に失ってしまったのだった。
楽譜に書かれた文字を丹念にたどる。
もう、何度も何度も読み返したから、書かれていることは全部覚えてしまった。
二人が教えてくれたことを、私は丁寧に拾いあげて、体に染み込ませ、声にする。
この声が二人に届きますように、二人が幸せでありますように、と願いを込めて。
それくらいのことは許してもらえるのではないか、と。
メールの着信音が鳴った。
ああ、良い感じで歌っていたのに。
僅かに苛立ちを覚えながら、携帯電話を手に取った。先輩からだった。
『窓の外を見て』
私は首を傾げる。
先輩は一体何が言いたいんだろう。
ゆっくりと立ち上がり、窓辺へと歩み寄る。
学校の縁をぐるりと囲っている緑色のフェンス。その向こう側に、二つの影が並んでいた。
見慣れない普段着だけれど、誰なのかはすぐにわかる。
先輩はこちらに気付いて、ニコッと微笑んだ。
あの人は、フェンスに背中を預けていて、私からは表情を伺うことは出来なかった。
先輩があの人に何かを話しかけている。音楽室からは遠くて、何を言っているのかわからない。
ついこの前まで、よく見ていた光景。
決して私が間に入ることの出来なかった二人だけの世界が、今、再び目の前にあった。
私があの人に告白したことを怒っているのだろうか。
だからこうして、渡さないわよ、と見せつけようとしているのだろうか。
それほどまでに、先輩に嫌われたのかと悲しくなって、壁に背中をもたれかけ、そのままズルズルと床に座り込んでしまった。
これは、罰なんだ。
二人を困らせ、傷付けた。
許してくれるとは思わないけれど。
それでも、先輩に謝ることだけはするべきなのかもしれない。
携帯電話を持ち直し、メールの画面を開いたとき、外から微かに懐かしい声が聞こえた。
あの人の、優しくて甘いテノール。
ああ、この曲は。
さっき私が二人のために歌っていた、あの曲だ。
ある詩人が、恋人にプロポーズした日に書いた詩。
ある作曲家が、友人の結婚披露宴のために作った曲。
二人は、もう、そこまで仲が深まったのか。
それを私に知らせに来たのか。
それなら私は、二人を祝福しなければ。
力が入らない足を、なんとか言い聞かせて立ち上がり、もう一度窓から外を見る。
二つ並んでいたはずの姿は、一つしか残っていなかった。
あの人の声をもっとよく聞きたくて、私は窓を開けた。
フェンスに背中を預けているあの人の、どこか寂しそうな後ろ姿。
そういえば、優しくて甘いテノールは、いつもと違って悲しげに聞こえる。
歌はまだ続いている。穏やかな優しい曲が、哀愁を覗かせながら。
またメールの着信音が鳴り響いた。
『私たち、ホントは卒業する前からダメだった。
でも、悔しかった。だからいじわるしたの。
ごめんね。
あとは、あなた次第』
顔を上げて、画面からあの人の背中へ視線を移す。
じゃあ、あの歌は、誰のための歌なのだろう。
まさか。
いや、そんなはずは。
窓の外へ向かって、私は恐る恐る声を出す。あの人に合わせてソプラノを。
きっと私の思い違い。そう思ったけれど。
あの人は、ゆっくりと振り向いて。
ガシャンとフェンスを両手で掴む。
それでも歌うことを止めはしない。
信じられない、というような顔で私を見つめ、やがて私の大好きな、心の底から嬉しそうな温かい笑顔を浮かべた。
私の顔も、少しずつ頬が緩んでいく。
互いの声が重なり合い、ハーモニーを作る。
あの人の声からは哀愁が姿を消し、明るく柔らかな響きが顔を出す。
歌い終わった余韻など放り出して、あの人は正門へ向かって走り出した。私も踵を返し、音楽室を飛び出す。
廊下を走り、階段を下り、一階の渡り廊下まで来たところで、あの人の姿が目に入る。
彼の腕が、私を優しく抱きしめた。
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