堕ちたもの
空を夢見る。その不自由な大地から飛び立ち、あの無限の青い空、星の海に行きたい。
子どもの頃、誰もが一度はそんなことを想っていただろう。
けれど、そんなこと、人間にはできはしない。もちろん、鳥や竜と言えども、限界がある。
月や太陽に近づくことができるものなどいない。
それでも、それを求めずにはいられない。
フェン・フォル・フォトンは、とある貴族の子どもである。
貴族の中では下位ではあるが、それでも平民や奴隷と比べると贅沢な生活をしていた。
魔術の才能に恵まれ、魔術学園でも上位の成績を収めるフェンは、フォトン男爵家の二男でありながらも、多大の期待を家族から抱かれていた。しかし、フェンには自分の家にも地位にも、興味などなかった。
彼の興味は空にある。
いつか見た光景。空へと羽ばたく鳥の群れ。それを見た時から、フェンの心は空に縛られ続けていた。
いつか、いつかあの空の向こうへ。
それがフェンの夢であった。
あの、群青色の空の向こう、太陽や月のある場所には何があるのだろうか。
神話に語られる神の宮殿か、楽園か。はたまた冥界か。
どちらにしても、フェンは空への渇望を感じ、それを求めずにはいられなかった。
彼が魔術に没頭したのも、空への渇望が元であった。
失われた機械文明の書物などもあさった。下手をすれば、異端として裁かれる危険を冒してまで、彼は空を飛ぶための研究をしていた。
彼のスキル『高速理解』により、彼は常人以上の学習能力を持っていた。彼の中に知識は瞬く間にしみこんできた。
それでも、研究の成果は全く上がらなかった。
古代文明の機械を再現することは彼には不可能であった。知識はあっても技術はなかったからだ。莫大な金と技術者。技術者も、今の時代にはもういない。ドワーフと言えども、機械文明の技を持ってはしない。
魔術に関しても、浮遊の魔法はあるものの、それでは空を、あの境界線を越えることはできない。
フェン自身、何度も挑戦したのだ。
浮遊は極端に魔力を消費するし、どうしても境界にある魔力の波にぶつかるとかき消される。
おかげで、フェンの夢は一向に叶いはしない。
神童と言われたフェンは、そうやって研究に没頭していたため、社交界には顔を出さず、また魔術院の研究室にこもりっきりで、ろくに人との交流がなかった。
それを心配したフォトン男爵家や友人たちは彼に対しての縁談を彼に内密に進めていた。
研究熱心のフェンを理解してくれる貴族の令状など、そうそういない。
フェンの花嫁探しは難航していた。
フェンはそんなこともつゆ知らず、ただただ研究に没頭していた。
「空間障壁を破るための魔術、浮遊、重力緩和。駄目だ、これでは」
フェンは一人、魔術の方程式を解いている。魔術の構築内容と、消費量を計算する。
鳥のように、翼を生やす、と言う魔術や変身術も考えたが、そういったものは長続きしない。それに、そのようなスキルならまだしも、フェンにはそんなものはない。飽くまで彼の能力は「理解」であり、それ以上でも以下でもない。
いっそ、「飛ぶ」という単純なスキルならば、とは思わずにはいられない。
そもそもこのスキル、と言うものも謎である。
なぜ、皆一様に違う力を持つのか。
血縁関係にあっても、スキルの内容は全く違う。
それにあまりにもスキルの中身に差がある。
稀に無能力者も生まれる、と聞く。
幼いころはよく、神は平等である、とか生命の価値は等しい、などと教えられてきたが、実際はどうだろう?
この世界はどこかおかしい。
フェンのスキルは、彼にこの世界の矛盾点を突き出した。
下手に理解できるフェンは、その内、神の存在への疑問を抱いていた。
この世界の不条理。神の不在。
いつの間にか、彼は異端と呼ばれる考えを抱き始めていたが、彼を含めてだれもがそのことに気づきはしなかった。
フェンが25歳の時、父親が死亡し、長男が男爵家の当主となった。
しかし、男爵家の多額の負債が長男の精神を追い詰め、長男は病気にかかり、そのまま死んでしまった。
このことにより、男爵家から離れていても問題のなかったフェンの立場は一気に変わってしまった。
下位貴族と言えども、貴族の家が没落する、などということは国の恥。
男爵家は慌ててフェンを当主に据えた。そして彼の結婚話を進めることとなった。
もはや相手を選んでもいられない。早く世継ぎを作ってもらわねば、フェンは一生独身のままだろう。
フェンにあてがわれたのは同じ男爵であるダンフォード家のアミテリアという娘であった。
アミテリアは自己主張の少ない娘で、儚げな少女であった。
フェンは自分の研究を中断させられてまで結婚したのだが、この妻には一切の関心すら抱かなかった。
アミテリアとは同じ屋敷にこそいるものの、赤の他人でしかなかった。
そんなフェンがアミテリアと初めて話したのは、結婚から一か月後であった。
その日、フェンは自身の部屋で魔術を行使していた。
自身のスキルを使い、空を飛ぶための魔術計算をしていた。
しかし、相変わらず、彼の魔術では飛ぶことはできない、ということが分かっただけであった。
「何がいけないんだ?!」
思わず、叫ぶフェン。
これ以上、もはや手段を考えることができない。
フェンの頭脳は、スキルはもはや「不可能」という結論を出していた。
それを認めたくないフェンだったが、現実は厳しいものだと彼とてわかっていた。
「旦那様」
「・・・・・・・・・」
フェンは声がした方向を見る。
見ると、部屋の扉が開いており、そこに申し訳なさ気にアミテリアが立っていた。
「何の用です?」
「いえ、旦那様の、お声がしたので」
怯えた様子で言うアミテリア。それも仕方ない、とフェンは思う。
政略結婚で来ただけの彼女にとって、フェンは狂人でしかない。
ただ「飛ぶこと」にすべてを賭ける、愚かな男だ、と。
彼自身わかっていた。
「下がれ、なんでもない」
「? それは・・・・・・・・・・・・」
アミテリアは空中に浮かぶ、フェンの作った魔術方程式を読み解く。
そして言った。
「これは・・・・・・・・・・・?」
「空を、境界線を越えるための魔術方程式だ」
「すごい、これほどの魔術を・・・・・・・・・・」
アミテリアは感激した様子で言い、目を輝かせる。
「わかるのか?」
フェンは驚いて言う。高速理解のスキルも有していないはずの、貴族の娘が理解できるものではないから。
「それで、これでは空を飛べないのですか?」
彼女は何の疑問もなく、フェンに聞いた。
「・・・・・・・・・・・不可能だ。何かが足りない。だが、その何かを、私は見つけ出せない」
フェンはそう言うと、頭を振る。
「やはり、人の身には過ぎた願いだったのかもしれない。空へ手を伸ばそうなどと」
空の果ては神の世界。それゆえに、そこにたどり着こうなどと考えるのは、神になる、と言っているようなもの。
所詮、人間ではそんなことはできないのかもしれない。
「・・・・・・・・・・旦那様」
アミテリアは、静かにフェンを見ると言った。
「あの、もしかしたら、私がお力になれるかもしれません」
「なに?」
フェンはいぶかしげに見る。
「私のスキルは、『応用』のスキルです。もしかしたら、何かできるかもしれません。それに、私も魔術学園の生徒でした!」
大人しげなアミテリアは、どこか熱意を感じさせる声でフェンに言った。
「ですから、諦めるなんて、おっしゃらないでください」
そう言い、フェンの手を握りしめたアミテリアを、フェンはまじまじと見る。
赤茶のさらりとした髪と、愛嬌のある顔。儚げな印象であったが、今はどこか、輝かしい。
フェンはなぜか、彼女とならば、できるのではないか、と感じていた。
それから、夫婦はともにこの「空を飛ぶ」という、くだらない、だが誰もなしえたことのない偉業を目標とした研究に没頭した。
徐々に、ではあるが、フェンひとりでは見つけることのできなかった問題点を見つけ、その夢への道を進んでいった。
そんな風に、妻と触れるうちに、フェンはアミテリアのことを愛するようになっていた。
自分の夢を受け入れてくれる。馬鹿にすることもなく、親身に尽くしてくれる。
政略結婚でありながらも、なぜ、彼女はこうまで尽くしてくれるのか、フェンにはわからない。
ある時、フェンは聞いた。
なぜ、こうまで尽くしてくれるのか、と。
それを聞くと、アミテリアは頬を紅くしていった。
「私はずっと、あなたを慕っていたんです」
「俺を?」
「ええ、魔術学園にいた時から」
そう言ったアミテリアだったが、魔術学園にいたころ、彼とアミテリアの間に関係はなかったはずだ。
そう言うと、アミテリアは笑う。
「ふふ、憶えていないでしょうね。でも、あなたがいたから、今の私がいるんです」
そう言い、美しい笑みを浮かべたアミテリア。フェンは詳しく聞き出そうとしたが、妻の突然の接吻に、言葉を遮られた。
「これ以上は秘密です」
「そんな、酷いな」
「だって、結婚したのに、あなたは私を見てはくれなかったんですから。これが報いです」
そう言い、徒っぽく笑い、でも、と彼女は言った。
「明日の実験が成功したら、教えてあげますよ」
そう言い、アミテリアは笑う。
「そうか、なら明日は成功させよう」
二人で作り出した理論。これで、飛べるはずなのだ。
二人は、静かに星の海を見上げる。
「楽しみですね」
「ああ」
静かに重ねた手の暖かさを、フェンは愛おしく感じた。
翌日は快晴であり、絶好の天気であった。
雨天では理論上完全な状態とは言えないので、幸先がいいな、とフェンは思った。
「それじゃあ、行くぞ」
「はい」
夫婦は頷き合う。
本来ならばフェンだけで、行うはずだった。だが、妻も行きたい、と言った。
あなたと同じものを視たい。そう言った妻の真剣な頼みに、否とは言えなかった。
それに、ここまでたどり着けたのは、彼女の支え合ってのことだった。
二人は手をつなぐと、静かに魔術を構成する。
高密度の、複雑な魔術が形成される。
フェンの高速で組み立てる魔術方程式を、アミテリアが細部まで再現し、補足する。これにより、難しい魔術も完全に組み上げられる。
二人とも優秀な魔術師だが、それだけではない。絆の深さが、この見事な連携を生み出していた。
そして、ゆっくりと浮かび上がった二人の身体は、次第に空に向かって飛翔しだす。
徐々に、速さが上がる。
硬度とともに空気が薄くなり、重力と、障壁の力が二人を襲う。
前身を襲う圧迫感に、アミテリアが呻く。
「アミテリア!」
「気にしないで!!」
叫び、アミテリアは作業を続ける。フェンも、痛みに耐えてつづける。
夢は目前だ。
障壁を超える瞬間、身構えた。理論が間違っていれば、ここで地に落とされる。
しかし、二人の身体は障壁を超え、さらなる先へと向かう。
「やった!」
だが、喜ぶには早い。まだだ、まだ、先がある。
「いけぇえええええええええええええええええええ!!!」
フェンは妻の手を握り、先へ、先へと行った。
そして、天に輝く、夢にまで見たあの光を、二人は見た。
「たい、よう・・・・・・・・・・・・・・」
暗い海の中、二人は、その巨大な光を見る。
目を焼かんばかりの光は、とっさに魔術で保護しなかったら、身体ごと焼き尽くしていただろう。
「綺麗・・・・・・・・・・・」
漆黒の中に浮かぶ、無数の光を見て、アミテリアは呟く。
おそらく、地上にこれほどの輝きはない、とまで思わせる、星の海を見て、フェンは涙した。
求め続けた空。その先にある、この世のものとは思えぬ風景。
記録上、ここに訪れたものは恐らく、二人だけ。
「アミテリア」
「フェン」
二人は向き合うと、静かに唇を近づけた。
その時、不意に二人の脳裏に声が響いた。
『ほう、人がここまで来たのか』
「!? 誰だ?!」
フェンは妻を抱きしめると、警戒するように周囲を見回す。
あたりに気配はおろか、なにもない。二人以外には。
先ほどまでの光も、太陽もない。暗黒が広がっていた。
『誰か、と問われるならば、私は神。私は真理。私は宇宙。私は世界。何者でもあり、何者でもないもの』
男とも女とも、子どもとも大人とも思えぬ不思議な声はそう言った。
『ここにたどり着いたものは、私が知る限り初めて。褒めて遣わそう、人の子よ』
だが、と声は続ける。
『下賤な創造物が、我が領域を侵すなど、赦されることではない』
「なに?」
その声を聴いた瞬間、フェンの背筋は凍る。
『二度と我に近づけぬよう、貴様の翼を折ってやろう』
「翼、だと・・・・・・・・・・?」
『そう、貴様の翼。すなわち、その心と、その腕の女よ』
「!?」
その瞬間、腕に抱きしめていたはずの、アミテリアの身体が、彼の下から離れる。
「やめろ、何をするつもりだ・・・・・・・・・」
『お前は理解しているはずだ。ここがなんなのか、私が何かを』
フェンの頭の中で、世界の矛盾、神の不在の理論が形成され、一つの答えを導き出していた。
この世界の真実が。
『だから、私は貴様を殺そうとも思った。だが、それでは面白くない。貴様の大事な夢と希望を、手折ってやろう』
「やめろ、やめてくれ」
フェンの絶叫。だが、彼の妻は、深淵へと引きずられていく。
二人の伸ばされた手。しかし、それが触れ合うことはない。
『恨むならば、不相応な夢を抱いた自分と、そのスキルを恨むがいい』
「殺してやる!!殺してやる!!!」
激昂するフェン。
夢を、希望を奪わんとする「神」。それに対して、フェンは今までの人生で一度として抱かなかった憎しみを爆発させる。
妻は、どんどん、深淵に引き込まれていっていた。
「フェン!」
「アミテリア!」
まだ、伝えていない思いがある。まだ話したいことがあった。
だが、それを言葉にするには、あまりにも時間が足りなかった。
フェンは、必死に叫んだ。
「アミテリア、愛している!いつか、いつか絶対に、君を取り戻す・・・・・・・・・・・!!」
「フェン・・・・・・・・・・・!!」
『下らぬ茶番だ』
そう言った声は、アミテリアを一気に深淵の闇の中に引きずり込んだ。
「ああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!!」
フェンの泣き叫ぶ声が、虚空に響く。
『さて、あとは、貴様だけだ』
殺してやる、と呪詛を吐くフェンに向かって声は言う。
『堕ちるがいい、愚かなる人間よ』
声が言った瞬間、強い力がフェンを襲う。
そして、その身体は下界に落ちて行く。
遠ざかる深淵。
もはや、そこに夢はなく、絶望だけがあった。
(アミテリア・・・・・・・・・・・・・・)
空を夢見、空へと駆けた一人の男は、愛する妻と夢を失い、独り空を堕ちる。
中央大陸にある、世界で最も高い山オリュンの山に、流れ星が堕ちた。
神のすむ山、と呼ばれるそこに落ちた隕石からは、一人の魔神が現れた。
全身は焼けただれ、醜い人間とは思えぬ身体。
その背中には、剣のように鋭い、八対の翼が存在した。
翼をもちながらも、決して飛ぶことはなく、その魔神は一日中、雄たけびをあげていた。
世界を震わすその声に、強大な魔物たちもつい動きを止め、世界にいた魔神たちはその強大な魔力に驚いた。
空を目指し、神に近づきすぎたフェン、という人間はもはやそこにはいなかった。
後世にて、ゾドークの66魔神の一人として数えられ、その中でも最も強力、と言われる『堕天』のハーイアが、誕生した。
以後、ハーイアはオリュンの頂上にて、神を倒すために暗躍することとなる。