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第89話 黒谷さんの悩み

 籐也さんと花お姉ちゃん、そして桐お兄ちゃんと麦お姉ちゃんが帰ると、まりんぶるーはまた静かになった。お盆休みも終え、私と空君はアルバイトに励んだ。


 碧は、前ほど必死に勉強をしている様子もなく、彼女とのことも新学期が始まったら話してみると言っていた。

 

 そんなある日、黒谷さんが、碧の塾が午前中で終わる日にやってきた。そして。パパとママの結婚式の2次会のDVDを、私や碧と一緒に見て喜んでいた。でも、碧にはあまり話しかけず、近づかず、顔を見ようともしなかった。


 やっぱり、避けているような、わざと距離を置いているようにも見える。どうしたのかな。

「碧、せっかくだから黒岩さんに勉強見てもらったら?」

「あ、うん。ちょうどわかんないところがあって」

 碧がそう言うと、黒谷さんは顔を引きつらせた。でも、断ることができないようで、ダイニングテーブルに座って、一緒に勉強を始めた。


 黒谷さんはずっと顔が赤い。すごく意識していると思う。そして碧も。

 ちらちら黒岩さんの顔を見たり、なんだか、すっごく気になっているようだ。


 う~~~~ん。変な感じの二人だなあ。碧が顔を近づけさせて質問すると、わざとらしいくらいに黒谷さんは顔を遠ざけようとする。

 あれじゃ、確かに嫌われているかもってそう感じちゃうかもなあ。


 なんであんなにおおげさに、避けるようにするのかな。実は嫌っていたり…?わかんないなあ。


 1時間して、

「サンキュ。黒谷先輩。あとは自分でどうにかなる。じゃ」

とそう言って、碧はさっさと自分の部屋に行ってしまった。


「黒谷さん、えっと文江ちゃんだったわよね?杏仁豆腐作ったの。食べない?」

 ママがそう聞いてきた。

「あ、いただきます」

 黒谷さんは喜んで、私やママと一緒に食べた。


「碧にも杏仁豆腐持って行くわ。そのあと部屋でアイロンがけしちゃうから。文江ちゃん、遅くならないうちに帰った方がいいわよね。凪、バス停まで送って行ってあげてね」

「うん。わかってる」

「ありがとうございます」


 ママはお盆に杏仁豆腐の入ったお皿を乗せ、2階に行った。私は冷たいお茶を二つ持って、黒谷さんとリビングに移動した。


「お茶、飲んでね」

「ありがとうございます」

 黒谷さんはゴクっとお茶を飲むと、はあ…と寂しげに溜息をついた。


「どうしたの?」

「ごめんなさい。私、暗くなっちゃって」

「何か悩み事?」

「……今日、碧君に会えたのは嬉しかったけど、もう来るのはやめます」

「え?な、なんで?」


 どうしたんだ、いったい。

「私、なんだか、辛くなっていくから」

「…なんで?」

 辛くなる?


「私、榎本先輩に悪いことしていたって、最近になってわかったんです」

「は?」

 なんだ?話がずれたけど、どういうことかな。


「榎本先輩、空君と付き合っていたのに、私が空君の近くをうろちょろしてて、嫌でしたよね」

「……」

 なんで、そんなこといきなり言い出したのかな。


「私、あの頃、そういうのもわからなくて。ただ、今まで誰にも話せなかったことや、わかってくれる人がいなかったから、幽霊が見えて、私の言っていることを理解してくれる空君が貴重な存在で、とにかくそばにいたくて、離したくなかったんです」

「…う、うん。そうなんだ」


「彼女がいてもいなくても、そんなの関係ない。それより、私のことをやっとわかってくれる人が現れたんだから、離しちゃいけない…。そんな身勝手なこと考えて、ずっと空君のそばにいようとしました。空君が先輩のほうに行こうとしたら、それを阻止してまで…。ひどいですよね。ごめんなさい。好きな人が他の女性と一緒にいるなんて、先輩、嫌な思いしましたよね」


「…どうして、そんなこと今言うの?もしかして、そういう思いを黒谷さんもしているの?」

「……。あ、碧君って、彼女いますよね」

「うん」

「なんか、悩んでいるって言うか、関係が危ういようなことを言っていて、私、だったら私にも見込みあるかな。なんて、ちょっと思ったりもして」


「え?」

 じゃあ、やっぱり、碧のこと好きなんだ。

「でも、そんなこと考えている自分が嫌で。だけど、彼女と仲良くなったらどうしようってそんなことも思ってて…。碧君の彼女のことなんて、知りもしないくせに、勝手に仲いいところを想像して、辛くなっちゃって」


「……」

「好きな人が、他の人と一緒にいる…。それって、辛いことなんだなあって、それがわかって。先輩にも嫌な思いさせたんだって、やっと気が付いたんです」


「それで謝ってきたの…。確かに辛かったけど、それって空君の気持ちを信じていなかったからなんだよね。空君は、自分と同じように辛い思いをしている黒谷さんがほっておけなかった。優しさからだったのに、私、勝手に嫉妬したりして…。でも、空君の気持ちがわかって、私もなんとか、黒谷さんの力になれたらってそう思ってからは、嫉妬もなくなったんだ」


「だから、私を助けてくれたんですか」

「空君が黒谷さんの力になろうと思っているなら、私も…って、そう思っただけ」

「……」

「でも、黒谷さんが明るくなっていくのは、見てて嬉しかったよ。関わっていくうちに、黒谷さんのこと、大事に思えてきちゃったんだ」


「わ、私のことをですか?」

 黒谷さんの目が、潤んだ。それに、鼻の頭、真っ赤だ。

「私だけじゃなくて、空君や、峰岸先輩、きっと千鶴も、今では黒谷さんのこと大事に思っているよ。同じ部の仲間だし、可愛い後輩だもん」


「…先輩」

 あ。本格的に泣いちゃった。

「もしかして、碧と一緒にいると辛くなるから、碧のこと避けてた?」

「…はい」


「女心だよねえ。でも、なんかわかる」

「え?」

「わかるよ、黒谷さん。恋すると、複雑になるよね。一緒にいたいのに、辛くなったり、切なくなったり」

「……はい」


「でも、碧のどこがいいの?」

「あ、明るくて、それにかっこいいし」

「うん」

「……笑顔が素敵だし、可愛かったし」


 なるほど。一目ぼれに近いのかな。

「でも、あんなにかっこいいから、モテますよね」

「さあ?モテるかもしれないけど、けっこう鈍いし、単純バカだし、生意気だし、ガキだし。あ、ごめん。これは姉から見たからそう思うのかもしれないけど」


「空君は?私から見たら、落ち着いてて、いつでもクールで、優しいとは思いますけど、でも、壁を作っているって言うか。先輩から見たらどう見えるんですか?」

「空君?空君は…」

 言う前に顔が熱くなってきた。


「はい」

 真剣な目で黒谷さんは私の話を待っている。

「えっと。えっと。空君は、可愛くて、あったかくって、可愛くて。あ、2回も言ってた。えっと」

 駄目だ。思考回路麻痺状態。どんどん顔が火照っていく。


「可愛いんですか?!え~~!私、空君を見て可愛いなんて一回も思ったことがない」

「そ、そう?」

 思ったことがなくて、ほっとしたけど。


 それからしばらくして、バスの時間が近くなり、私はバス停まで黒岩さんを送って行った。

 黒谷さんの乗ったバスをしばらく眺め、それから何気に後ろを向いて空君の家のほうを見た。今日、お店が定休日で、空君と会えなかったな。なんの約束もしなかったし。


 もう少しで空君、ハワイに行くんだよね。寂しいな。5日も会えないんだなあ。


 毎日のように会っていたから、ちょっと会えないでも寂しくなってくる。会いたいなあ。家に行ったら駄目かなあ。

 はあ…。溜息をつきながら、とぼとぼと歩き出した。


 メールしてみようかな。

>空君、元気?

 昨日も会ったのに、こんなメール変かな。


 海の見える道に出た。そこからしばらく、ぼ~~っと海を眺めた。まだ、外は暑い。だけど、少しだけ日が傾いて来ていて、昼間よりがまだましかな。


 ブルル。携帯が振動した。

>元気。凪は?黒谷さん、家に来てるんじゃないの?

>今、バスで帰って行ったの。バス停から一人で帰るところ。海が綺麗でちょっとだけ寄り道してる。

>待ってて、行くから。バス停の近くだよね?

>うん!


 嬉しい!デートだ。お散歩デートだ!

 それから5分くらいして、空君が走ってやってきた。


「ハア…」

 あ、ちょっと息切れてる。すごい勢いで来てくれたとか?

「お…おす!」

「……おす?」

 変な挨拶しちゃったかな?空君、不思議そうな顔しちゃった。


「空君、もしかして、忙しかった?」

「いや。全然。DVD観ていただけだから」

「映画?」

「うん…。ちょっと怖いやつ」


「好きなんだね、怖いやつ。私は一緒に見れないや」

「そうかもね」

 それで、今日は黒谷さんが来るよと言っても、うちに来なかったのかな。来るかな~と思って、メールで教えたんだけどな。


「もう5時なのに、暑いね」

「うん」

「ハワイのほうが涼しかったりして」

 空君はそう言いながら、空を見上げた。


「いいな。ハワイ…。碧もいいな、いいなって、ずっと言ってるよ」

「そう?じゃあ、そのうち、うちの家族と凪の家族でそろって行くっていうのはどう?」

「…ママ、妊娠中だから」

「その頃には生まれてる。凪の受験もあるんだし、再来年あたりかな」


「赤ちゃんが2歳?まだ、2歳にはなっていないか」

「うん。ちょっと小さすぎかな?」

「……空君と二人で行けたらいいのになあ」


「え?ハワイに?」

「ハワイじゃなくてもいい。どこか、旅行とかに行きたい」

「ふ、ふ、2人で?」

 あれ?真っ赤になっちゃった。深い意味はなかったんだけどなあ。


「今度、旅行気分で下田の町歩くのはどうかな、空君」

「え?」

「空君と二人で、ブラブラ街を歩いたり、美味しいもの食べたり。そういうのがしたい」

「泊まらなくてもいいの?」


「うん。日帰りでもいい」

「な、なんだ」

 やっぱり、空君、深く考えすぎてた。


「そうだね。行こうか。プチ旅行。デートらしいデートもまだしていないんだし、行きたいね」

「…デートはしてる。今だって、デートだよ」

「こんなのが?」

「うん!立派なデートだよ。カップルで海を見ているだなんて」


「そうかな。近所を散歩しているだけなのにな」

「近所に海があるから、デート気分じゃないかもしれないけど、きっと海の近くに住んでいない人は、こういうのこそ、あこがれるデートかもしれないよ?」


「へえ。そうなの?江の島では?やっぱり、海が近いから、海に行ってもデートって感じじゃないんじゃないの?」

「そんなことないよ。パパ、よくママと海でデートしてくるって、浮かれて2人で出かけたもん」

「そうなんだ。あの二人は、本当に仲いいね」

「うん」


「凪は?誰かと江の島でデートした?」

「うん」

「え?!」

 あ。良かった。ちゃんと焦った反応をしてくれた。


「だ、誰と?」

「パパと」

「……な、なんだ。聖さんか。聖さん以外ではしていないよね?」

「ううん」


「え?あ…碧?」

「まさか~~。碧となんかデートしないよ」

「じゃ、じゃあ、誰と?」

「爽太パパと」


「なんだよ、凪。身内以外でだよ。いないんだよね?」

 あ、ちょっと怒ってるかも。

「いないよ。だって、彼氏だっていなかったんだもん。デートするわけないよ」

「………」


 あれ?もしかして拗ねた?黙り込んじゃった。

「じゃあ、空君は?」

「いない。一人で見ていることばっかりだったから」

 そうか。そうだよね。


「エヘ…」

 安心して空君の腕にしがみついた。一瞬、空君が私を見たけど、すぐにまた海に視線を移した。

 そして黙って海を眺めた。


 ちょうどいい感じの気持ちのいい風。それから、静かな波の音。遠くからは、海で遊ぶ子供たちの声が聞こえてくる。

 なんか、いいな~~。こういうゆったりした時間。


「サーフィン、最近あんまりしていないね、空君」

「今朝したよ」

「え?!」


 知らなかった。

「ごめん。見に来たかった?」

「ううん…。櫂さんとしたの?」

「うん」


「可里奈さんも来た?」

「いや。もう東京に帰ったんじゃない?」

「そっか」

「朝、けっこう早かったから、凪に悪いかなって思って」


 悪くないのに…。

「早くに起きないと、サーファー、けっこういるしさ。混むと嫌だから…」

「……」

「凪?どうした?」

 空君が私の顔を覗き込んで見てきた。


「ううん」

「お、怒ってんの?もしかして」

「ううん」

「えっと…。女の子とかいなかったよ?俺と父さんと、あと誰だかわかんない、おっさんがいたけど」


「…怒ってない。ちょっと寂しいなって思っただけ」

「……そう?」

「あ。じゃあ、サーフィンから戻ってきて、また寝ていたの?」

「うん。昼ぐらいまで寝てた。そのあとも、まったりとしてた」


「じゃあ、呼んで悪かったかな。映画も途中?」

「……」

 空君、なんで無言?


 チュ。

 わ!

「な、なに?いきなりキス…。なんで?」


「デート、凪とできて、俺も嬉しいよ…」

「……ほんと?」

「うん」

 空君は、可愛い顔で頷いた。そして照れた。


「可愛い」

 ムギュ~!腕にもっとしがみついた。

「………。む、胸、当たってる」

「ごめん」


 ちょっとだけ、しがみつく腕を緩めたけど、まだ空君は真っ赤だ。

「あ、あのさ。夏場って、薄手の服じゃん。今日も、Tシャツ1枚で」

「空君?」

「凪…」


「あ、うん」

「それで、あんまりくっつくと、もろ、わかるっていうか…」

「え?」

「む、胸…のふくらみ…」

 あ!


 カ――――ッ!空君の顔がもっと赤くなった。

「ご、ごめん」

 私までなんだか恥ずかしくなった。でも、それでも、ギュッてひっつきたくなっちゃうのは、どうしたらいいんだろう。


「や、やっぱり、凪も嫌でしょ?」

「え?」

「そういうの…。俺にわかっちゃうのって」

「……え?」


「だから…。い、嫌じゃないの?俺から触っているわけじゃないけど、でも、触っているようなもんだし」

「え?そ、そうなの?」

 そんなこと考えたこともなかった。確かに、ムギュってしがみつくと、私の胸がムニってしちゃうなとは、なんとなく感じていたけど。


 そういうのって、気を付けないといけなかったのかな。

「あの。ごめん。私、今までそういうの、あんまり意識してなかった。空君にひっつくなって言われたら離れるようにしていたけど、私はあんまり気になっていなかったから」


「え?そうなの?嫌じゃないの?」

「うん。でも、なんで嫌なの?」

「え?だって、嫌でしょ?男に胸、触られちゃってるんだよ?」

「触られるのとは違う気が…。それに、男じゃなくて空君だし」

「俺も、男だけど…」

「でも、空君だし」


「……」

 あれ?空君、目が丸くなったままだけど、どうして?変なこと言ってる?

「まさか、とは思うけど。うん、まさかだよね」

「何が?」


「いや、いい」

「よくない。言ってくれないとわかんない。なあに?」

「ほ、他の男がたとえば、凪の胸、触ってきたらどうする?」

「……痴漢!って叫ぶか…、ぎゃあーっ!てさわぐか、殴るか、蹴るか、逃げるか…」


「お、俺だったら?」

 空君が、緊張した顔で聞いてきた。

「空君?」

「う、うん」


「空君だったら…」

 ちょこっと想像した。でも、空君の方から私の胸に触ってくるなんて、どうも想像もできない。

「う~~~ん、そんなの、想像もできないんだけどな~~」

「やっぱり、俺って男としてまったく見られてないよね?」


「う~~~~~ん。だって、そういうのをしそうな感じがしないんだもん」

「だから、凪は平気でこうやって引っ付いてくるのか…」

「う~~~ん。そうなのかな?」

 私はまだ、空君と腕を組んでいた。


「………。周り、人いないね」

 空君はあたりをきょろきょろと見回してそう言った。

「うん。いないよ」

 なんで?


 ぺタ…。

 え?

 空君の掌が、私の左の胸をすっぽりと隠しちゃった…。な、なんで?


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