第32話 安心しきった顔
空君と、自転車をゆっくりとこぎながら、私の家に行った。
「空君、うちで休んでいく?ママもいるとは思うんだけど」
「うん」
空君は、素直に頷いて、自転車を門の中に停めると、一緒に私の家に入ってきた。
「お邪魔します」
「ただいま、ママ、いる?」
「おかえりなさい。あら、空君?」
ママはリビングのソファに座っていた。
「空君、熱出しちゃって。うちのほうが近いし、寄ってもらったの」
「熱?大丈夫なの?」
「はい。微熱だと思うし。でも、桃子さん、妊娠してるんですよね。風邪うつったら大変なんじゃ」
「そうだった。ごめん、ママ。私、考えなしだった。あ、そうだ。空君、私の部屋に来て」
私は慌てて空君の腕を引っ張り、私の部屋に連れて行った。
そしてバタンとドアを閉め、
「あ~~。私、本当に抜けてるよね」
と一気に落ち込んだ。
「そんなに落ち込まなくても」
「ううん。私っていつも、どっか抜けてるの」
そう言うと、空君はクスッと笑い、それから部屋の中へと入っていった。
「凪の部屋、可愛いね。それに、凪の匂いがする」
ドキン。昨日も言ってた。シャンプーの匂いかな。
「ベッド、座ってもいい?」
「うん。いいよ」
そう言うと空君はベッドに腰掛けた。そして、ふうっと溜息をついた。
「辛い?頭痛い?」
「ちょっとね。なんか、高熱出した時より、微熱程度の方が頭痛ってしたりするよね」
「じゃ、自転車も辛かったんじゃない?」
「平気。今は多分、一気に気が抜けて…」
そう言うと空君は、そのままベッドに横になってしまった。
「空君?寝るの?」
「うん。ちょびっと休ませて」
「いいよ」
私はそっとドアを開け、下におりていこうとした。すると、
「凪?行っちゃうの?」
と空君が寂しそうに聞いてきた。
「なんか飲み物持ってくる。水でいい?」
「うん」
「あと、ママにも事情話してくるね」
「あ、うん。じゃ、すぐに戻る?」
「うん。またすぐにくるよ」
そう言うと、空君はほっとした顔をした。
バタン。ドアを閉め、階段をゆっくりと下りた。
空君、本当に子供の頃に戻っちゃったみたいだ。
「凪?空君、大丈夫なの?」
「うん。ベッドに横になっちゃった。水、持っていくよ」
「櫂さんか春香さんには、もう連絡したの?」
「あ、まだだ。微熱だから、迎えに来てもらわないでもいいって言われて」
「だけど、うちで休んでいるのは連絡しておこうか。学校からあんまり遅くまで帰ってこないと、心配するかもしれないし」
「うん」
「じゃ、ママから電話しておくね?空君、微熱なんだよね?」
「うん。そうみたい」
「じゃあ、しばらくはうちで休んでもらおうか」
「ごめんね、ママ。風邪がうつったりしたら大変な時期なんだって、うっかりしてた」
「ううん。大丈夫だよ。凪は空君についていてあげたら?」
「うん」
私はコップに水を汲み、2階に上がった。
部屋にそっと入ると、空君はすっかり私のベッドに横になり、布団までかけて目を閉じていた。
「空君、寝ちゃった?」
小声でそう聞くと、空君は目を開けた。
「水、飲む?」
「あとでいい。机に置いといて」
「うん。わかった」
「……凪」
「え?」
「手、繋いでくれる?」
「うん」
私はベッドの脇に座り、空君の手を握った。
「凪…」
「うん」
「鉄…、どう思う?」
「え?」
「鉄、凪のことが好きだって、俺、正直びっくりした」
「うん。私も」
「どう思う?」
「どうって…、別に」
「……」
空君は私をじっと見た。
「空君?」
「凪、付き合うってどういうことだと思う?」
「え?」
何?突然。
「今日、山根さんに聞かれて、付き合うってことがどういうことなのか、まじでわかんなくって、考えてた」
「う、うん」
「………。みんなさあ、誰かを好きだって告白して、付き合ってくださいとか言うじゃん?」
「うん」
「そうしたら、そのあと、どうすんの?」
「デートとかするのかな」
「デートって何?」
「えっと。映画見たり、買い物したり、食事したり。二人でどっかに行くことかな」
「他にはなにするの?付き合ったら」
「…学校一緒に行ったり、帰ったり…とか?」
「それ、凪ともうしてるよね」
「うん」
「じゃ、他には?」
「そのうちに、お互いの家に遊びに行ったり?おうちの人に紹介したり?」
「それも、もうしてるよね。紹介もなにも、みんなが凪のこと知ってるし」
「うん」
「じゃあ、他は?」
「えっと、手、繋いだり」
そう言うと、空君は繋いだ手を見た。
「他は?」
「えっと…」
「あ、キスしたりとか?」
空君が聞いてきた。私はコクンと頷いた。
「それももう、凪とはしてるしなあ」
でも、それって子供の頃の話…じゃなかった。この前、したよ。私からも、空君からも。
「……付き合うってどういうことかなあ」
また空君が呟いた。
「凪、わかる?」
「え?」
「今の話聞いてると、俺らってそんなこともうしているじゃん」
「うん」
「それ、付き合ってるってことになるの?」
「さ、さあ?」
そうなのかな。でも、そんな気がまったくしないのはなんでかな。
「じゃあ、俺、今度聞かれたら、凪と付き合ってるってはっきりと言えばいいのかな」
「誰に?」
「山根さんとか、そのへんの女子とか」
「………」
言っちゃうの?でも、本当に私たちは付き合ってるの?
「ねえ、凪」
「え?」
空君は私の顔をじっと見て、
「山根さんが言ってたけど、付き合ったらいろいろとわかるとか、好きになるかもとか、そういうのってあると思う?」
と聞いてきた。
「え?」
「俺、ずっと考えてた。考えすぎて熱が出たのかもしれないけど」
山根さんと付き合うことを?
「きっと、山根さんといたら、すげえ疲れると思う。気を使うし、何話していいかもわかんないし」
「う、うん」
「ひとりでいるほうがずっと気楽。そう思って、ひとりでいる時間を取りそうな気がする」
「うん」
「そんなことしたら、怒りそうだよね、あの人」
「う、うん」
そうかも。
「凪とは、付き合うだのなんだのって、そういうの考えないでも、一緒にいると安心するし」
「うん」
「とっても楽だし」
うん。でも、それだけっていうのも、ちょっと寂しいような気も…。
「嬉しいし…」
「え?」
「なんか、嬉しいし」
「嬉しい?」
「うん。幸せな気分になれるし」
そっか。そうなんだ。それは嬉しいな、私も。
「だから、付き合うとかって必要かなあって思うんだけど」
「え?」
「よくわかんない。俺。ずっと考えたんだけど、凪と付き合うことになったら、どう変わるのかとか、どんなことするのかとか」
「え?」
「でも、今と変わんないよね?あ、だからもう、今が付き合ってるってことか。あ、ごめん。話戻ってるね。俺、変だよね」
「ううん」
「……それでさ」
「うん」
「凪は、鉄にもし、付き合ってって言われたら、どうするのかなって気になって」
「どうもしないよ。断るから」
「どう言って断る?」
「それは、す、好きな人いるし、付き合えないって」
「その、好きな人って俺?」
「うん」
「そっか…」
空君は天井を見た。しばらく黙り込み、
「なんか、眠くなっちゃった。俺、寝てもいい?」
と聞いてきた。
「いいよ」
空君はまた、ほっと溜息をつき、
「凪の部屋、気持ちいいね」
と一言そう言って目を閉じた。
安心するとか、気持いいって、私も空君と一緒にいるとそう思うことがあるけれど、それより、ドキドキするとか、緊張するっていう時もあるんだけどな。空君には、一切そういうところが見られない。
きっと、空君にとって、恋じゃないのかもしれない。
だから、私と空君は世間で言う付き合っているとか、恋人って関係じゃないと思う。
だけど、そんなこと怖くって言い出せなかった。
そして漠然と、もし空君が、ドキドキしたりする相手と出会ったりしたらどうしよう。空君が誰かに恋しちゃったらどうしようと、不安になった。
空君から寝息が聞こえてきて、私はそっと空君の手を離した。すると空君はゴロンと寝返りをうった。
熱、高くなっていないかな。心配になってそっとおでこに触れた。でも、よくわからなかったので、子供の頃ママが熱を出した碧の首に触れていたのを思い出し、首に触れてみた。
あ、ちょっと熱い。熱、あるみたいだ。
そのあと、空君のうなじに触ってしまったことを、恥ずかしがった。ああ、私って…変だよ。
空君が私の部屋にいる。それも、私のベッドで寝ている。それだけでも、なんかドキドキしてるし、信じられない。
しばらく、ベッドの横のクッションに座り、ベッドにもたれかかりながら空君の顔を見ていた。そしていつの間にか私も、ベッドの隅に頭を乗せ、寝てしまったようだ。
誰かが頭を優しく撫でている。パパかな。
「凪?起きた?」
目を開け、顔を上げると、空君が私を見ていた。
「あ、私寝てた。ごめんね?」
「ううん」
「空君は熱、どうした?」
「どうかな?頭痛は治ったけど」
「体温計持ってくるね。あ、外、もう真っ暗」
私は立ち上がると、カーテンを閉めた。そして、部屋を出て1階に行った。
「凪、空来てるんだって?」
もう碧も部活から帰ってきたのか。時計を見ると、6時を過ぎていた。
「うん。今目が覚めたから、体温計取りに来たの」
「俺、部屋に行っても平気?」
「うん。空君起きてるし、大丈夫。ところで、ママは?」
「寝室にいる。あ、飯、作ろうと思ってご飯炊いたんだ。そうしたら、母さん、慌てて寝室に逃げてった」
「碧がご飯炊いたの?ちゃんとお米研いだ?」
「研いだよ。父さんに教わった事あるもん」
「夕飯、どうしようか」
「カレーなら作れるよ、俺」
「シチューにしない?カレーは空君、どうかな」
「あ、そっか。空もうちで食っていくのか。わかった。確かシチューのルーもあるよ。牛乳も」
碧がキッチンに行っている間に、私は体温計を持って2階に上がった。
「空君、ご飯食べていける?碧がシチュー作るって」
「碧が?」
空君がびっくりしている。
「あ、はい。体温計」
「うん。サンキュ。でもさ、触った感じどう?」
「何が?」
「俺の熱」
「あ、どうかな」
私は空君のおでこを触った。すると、
「首は?首触って熱測るんじゃないの?さっき、してたよね」
と聞いてきた。
うわ!起きてたの?私が空君のうなじ触った時。
「えっと、うん。首の方が熱あるかどうか、わかりやすいかも。よくうちのママがしてて」
「俺の母さんも。で、どうかな」
空君がそう言って、後ろを向いて私の方にうなじを向けた。
ドキン。ええい、触ってしまえ。さっきだって、触ったの、空君気づいていたんだから。
そう思いながら、空君のうなじに手を当てた。
ドキン、ドキン。
「あ、さっきより、熱くないかも」
「じゃ、体温計いらないね」
「でも…」
「熱、下がってるよ。もう頭も痛くないし」
「……でも」
「腹も減った。碧の作るシチュー楽しみだな」
「…うん」
空君がニコニコしているから、それ以上は何も言えなくなった。そして、私がうなじ触っても、ドキっとか、そういうのしないんだね?なんて聞ける訳もなく…。
そのうえ、空君はまた私の手を握りしめ、
「凪に手を握ってもらうと、安心する」
とにっこりと微笑んだ。
ああ、手を繋いでいても、なんとも思わないのか。
私は、ドキドキしているのになあ。
空君は本当に安心しきった子供のように、私を見ている。
そんな無邪気な顔をして、そんな綺麗な瞳で見ないで。私の心を見透かされているような気にもなってくるよ。
私、今、きっと変なこと考えてるよ?
空君にキスしたいなあとか、空君といるとドキドキするのに、空君は何にも思わないのかなあとか。
私って、魅力ない女の子なのかな…とか、いろいろと。
でも、空君には私の心は見えなかったようで、安心しきった顔で、ずっとニコニコしているばかりだった。




