第31話 波風
その日、昼休みになり、教室のドア付近に数人の1年生の女子が来て、
「榎本先輩ってどの人ですか?」
とクラスメイトに聞いていた。
「え?榎本さんなら、あの人だけど。なんで?」
「いえ、なんでもありません」
そんな会話がしっかりと聞こえ、隣でお弁当を食べていた千鶴にも聞こえていたらしい。
「凪になんの用かな」
「うん。誰かな、あの子達」
二人でその子達を見ると、
「なんだ。たいしたことないじゃん。全然山根っちのほうが可愛いよ」
とその中の一人が言っているのが聞こえた。
「空君とは親戚だって聞いたよ。空君も適当なこと言っただけなんじゃないの?付き合ってるわけじゃなさそうだし」
「山根っち、諦めるのは早いって」
どうやら、その1年の女子の向こう側に、山根さんがいるらしい。ここから姿は見えないが。
「何よ、あれ。ムカつく。一言文句言ってこようか」
「い、いいよ」
私は立ち上がろうとしていた千鶴を止めた。
もともと、こういうことは苦手だ。争いごとも、人の中傷も、もっとも苦手な分野だ。
1年生は、ゾロゾロと戻っていき、すぐ近くでお弁当を食べていた子達が、
「ねえ、空君って、相川空君のことでしょ?」
と聞いてきた。
「そうだよ」
千鶴が答えると、
「あの山根って子が告ったんでしょ?でも、空君断ったの?空君、榎本さんのことが好きだって言ったの?」
と声を潜めて聞いてきた。
「凪ちゃん、親戚だっけ?空君と」
凪ちゃんと呼んだ子は、中学が同じだった子だ。
「うん。親戚」
「へ~~~!空君、凪ちゃんのことが好きだったんだ。なんかそういうのに無縁っていうか、恋に無関係な感じの子だったのにね」
確かに。中学2年までの空君は、みんなから浮いている存在で、モテたりしていなかったもんなあ。
「山根って、知ってるよ、私。テニス部でしょ?私も中学テニスしてた時期あったんだよね」
一人の子がそう言ってきた。
「どんな子だった?」
千鶴が聞いた。
「明るくって、みんなに好かれてたけど、私は仲良くなかった。男の先輩にやたらと可愛がられてて、どっかでいい気になってるって感じがして。あ、あの1年の子達はあんなこと言ってたけど、私は断然凪ちゃんのほうが可愛いと思うよ」
「だよね!」
千鶴まで目を輝かせ、そんなことを言っている。
ああ、こういうのも苦手。
「でも、榎本さんは付き合ってるわけじゃないんでしょう?」
「え?」
「今、そんなこと言ってたよね?あの1年」
「う、うん」
「早く空君のことつかまえないと、山根さんって押しが強そうだから、やばいかもよ」
「え?」
「1年の女子、味方につけたぽかったし」
「……」
そういうのも苦手だ。味方とか敵とか、そんなのってないのになあ。
放課後、千鶴と一緒に部室に行った。部室には、もう鉄と空君が来ていた。
「あれ?鉄ちゃんも来たんだ」
千鶴が冷めた口調でそう言うと、
「小浜先輩、俺がいると嫌なんすか?」
と鉄が聞いた。
「うん、だって、凪のこといじめるから」
「いじめないっすよ。いじめたこともないのに」
「いつも、きついこと言ってるじゃないよ」
「あれは、愛のムチってやつですよ」
「なによ、それ~~。わけわかんない」
千鶴が呆れたって顔をして、
「もういいや。こんなのほっておこうね、凪」
とこっちを向いた。
私は鉄のことより、空君のほうが気になっていた。空君、なんで、私のすぐ横に椅子を持ってきて、引っ付いているんだろう。
あ、まさか!
「空君?」
おでこに手を当てた。やっぱり、熱い。
「熱あるよ?もう部活出ないで帰ろうよ」
「でも、今日、この前の星の観察のこと、いろいろと話すって」
「そんなの、また今度で大丈夫。熱測った?」
「ううん」
「クラクラしてない?頭痛は?」
「ちょっと痛い」
ああ、ずっと今日我慢しちゃったのかな。
「空、熱上がってたの?気付かなかった」
鉄がそう言うと、千鶴が、
「友達として失格」
ときつい口調でそう言った。
「人のこと言えるかよ。小浜先輩だって、榎本先輩のこと、なんにもわかってなかったんだろ?」
「鉄、あんたって、本当に憎らしいんだね」
うわ。喧嘩になるの?これ。
「あの!今はそんな言い合ってる場合じゃなくって、空君が熱出してるんだから、静かにしてあげて」
私はふたりの間に入ってそう言ってから、
「空君、櫂さんか春香さんに迎えに来てもらおう。今、電話するね」
と携帯を取り出した。
「大丈夫。そんなに高熱じゃない。微熱だから、なんとか帰れる」
「でも…」
「ただ、凪、一緒に帰ってくれる?」
「うん!」
私は空君のカバンも持とうとした。でも、鉄が持ってしまった。
「じゃ、私、峰岸先輩に、今日の部活は延期してくださいって言ってくるよ」
「うん。千鶴、お願い」
千鶴は部室を出て行った。そして私は空君の背中を支え、鉄は空君と自分の鞄を抱え、
「先輩のも持つよ」
と私の鞄も持ってくれた。
「凪。そんなに支えてくれなくても、俺、歩けるから。鞄も持てるよ、鉄」
「いいよ。持ってやるよ」
鉄はそう言って、スタスタと廊下を歩きだした。
私は、空君の背中に手を添えるだけにした。
「サンキュ。凪」
「うん」
「なんか、昼過ぎに、またあの山根さんが来て、いろいろと言ってきてさ」
「いろいろと?」
「友達も引き連れて、空君、山根っちと付き合ってあげたら?とか、なんかいろいろと」
うわ。一番空君が嫌がりそうなことかも。
「俺、断ったのにな。なんでかな」
「うん」
空君はしばらく黙り込み、
「それで、頭痛がしてきたんだよね」
とぼそっとそう言った。そして、
「情けないよね」
と溜息をついた。
「情けなくないよ。私もそういうのって苦手だから、わかるよ」
そう言うと、空君は私の顔に顔を近づけ、
「ごめん。俺が凪を守るって言ったのに、俺、こんなに弱くって」
と耳元で囁いた。
「ううん」
私は顔を横に振り、
「私だって、空君の力になりたいから、大丈夫。全然、大丈夫」
と力強くそう言った。
空君はまた、黙り込んだ。そしてゆっくりと昇降口へと向かった。
靴に履き替え、校舎を出ると、
「あ、空君だ!」
という声がして、そのあと、
「どうしたの?」
と山根さんが走ってこっちに来た。
「あ」
空君は、眉をひそめた。
山根さんの後ろから、他の子もやってきた。
「鉄ちゃん。なんで鞄そんなに持ってるの?」
「空、熱があるっていうから」
「熱?大丈夫?空君、家の人迎えに来るの?」
「凪と鉄がいるから平気」
「でも…」
山根さんが私を見て、
「じゃ、私も一緒に行くよ」
と言い出した。
「来なくていいんじゃね?こうやって、榎本先輩がついてるんだし」
鉄がそう言うと、山根さんは鉄を睨んだ。
「いい。俺、凪に送ってもらうから。家もすぐ近くだし」
「だけど」
「それか、凪の家に寄せてもらう。家だと家族、誰もいないから、凪に看病してもらうから」
え?空君、そんなこと言っていいの?
「榎本先輩に看病?」
「…昨日も来てもらったし…。だから、大丈夫。それじゃ」
空君は山根さんから視線を外して、前を向くと歩きだした。
私は、なんとなくあんまり寄り添っているのも悪いような、気まずいような気がして、ほんのちょっと空君から離れた。
すると、山根さんの隣にいた女の子が、
「榎本さんって、凪っていうんでしょ?波風も何もない、つまらない冴えない子って本当だよね」
と言い出した。
え?なんで、それ。もしかして鉄がそんなこと、みんなに言いふらしてるの?
「し~~。聞こえちゃうよ」
山根さんがそう言った。
「いいじゃん。聞こえたって。空君って、見る目ない。山根っち、あんな女見る目ない人、もうやめたほうがいいよ」
その子がそう言うと、空君は、くるりと方向転換しようとした。
うわ。なんかあの子達に言いに行くつもり?
「空君、いいよ。帰ろう」
「でも…」
「いいよ。空君」
空君は私が腕を引っ張ったからか、そこで立ち止まり、私をじっと見ると、
「うん。わかった」
と言って、私の横に並び、また歩きだした。
駅に着くと、先に駅に着いていた鉄が改札口で待っていた。
「鉄…」
空君は、鉄から私と空君の鞄を無理やり取って、
「お前、見損なった」
と一言、冷たく言い放った。
「何?」
鉄はびっくりして目を丸くした。
「凪のこと、いろんなやつにあんなふうに言うなんて、見損なった」
空君はまた冷たくそう言うと、私の手を引き改札口を抜けた。
「ちょ、待てよ。なんのことだよ」
「凪本人に、あんなこと言ってんのも、聞いてて腹が立ってた。でも、今まではなんとか抑えてたけど、もう我慢の限界」
「空?だから、どういうことだって」
「クラスの女子が、凪のこと、波風のない、つまらない子って。それ、お前が言ったんだろ?」
「俺が?なんでそんなことクラスの女子に言わなきゃならないんだよ。そりゃ、榎本先輩には言ったことあるけど、そんなのいつもの冗談で、影でこそこそ言うようなことじゃないし、そんなこと俺しねえよ」
「じゃ、なんであいつら、そんなこと言ってたんだよ」
「山根だろ?俺がそんな話を榎本先輩に言った時、山根もその場にいたじゃん」
「………」
空君は黙って、ホームにあるベンチに座った。その横に私も座ると、鉄は顔を青ざめさせ、空君の前に立った。
「俺、確かに榎本先輩にひでえこと言ったかもしれないけど、他の奴に榎本先輩の悪口言うようなことはしねえよ」
嘘だ。今朝、千鶴には言ってたんじゃないの?
「第一、悪口言うような、そんな感情も持ってない」
「そんな感情って?」
空君が、冷たい口調で聞き返した。
「だから、俺、榎本先輩を悪く思ったことないから」
「…え?」
「その逆で、どうしたらこっちを向いてくれるかとか、心開いてくれるかとか、笑顔が見れるかとか、そんなこと考えてて。それなのに、あんな憎まれ口叩いちゃって、傷つけちゃって…」
「え?」
空君も、目を丸くして鉄を見た。
「だから、榎本先輩の悪口を、みんなに影で言ったって、榎本先輩が傷つくだけだし、そんなこと俺がするわけないじゃん」
「鉄って、まさか、凪のこと好きなの?」
ええ?!まさか!なんで、そんなこと聞いてんの、空君。
「そうだよ」
「え?!」
今、なんて言った?鉄。
「好きだって自覚したのは、ほんの数日前。ずっと気になって、なんで気になってるかは自分でもわかんなかったよ」
「数日前?なんで?」
「峰岸先輩が褒めたり、空が榎本先輩といきなり仲良くなったりしてて、すげえ嫉妬したんだよ」
「………」
嘘だ~~~~。何、それ。
「空の部屋で、あんなふうに抱き合ったりして、心の中で、冗談じゃねえって思ってた。だって、ついこの前まで、空、先輩と口もきいてなかったのにさ」
鉄の顔、真剣だ。これ、冗談を言ってるわけじゃないんだ。
「……」
空君は、まだ目を丸くしたままだった。
電車がやってきて、それに乗り込むと、鉄は私たちから離れ、隣の車両に移ってしまった。
「…鉄が?」
空君がぼそっと口を開いた。
空君と私は、空いている席に座っていた。でも、空君はずっと下を向いたまま。
「鉄が?」
また空君がそう言った。そしてまた、黙り込んでしまった。
私、やっぱり、波風がない状態がいいよ。なんだか、私の周りはここ最近、ずっと波風が立っている気がする。




