第26話 ママの妊娠
12時を過ぎた頃、産婦人科に行っていたパパとママが戻ってきた。
「大丈夫?桃子ちゃん」
「うん。大丈夫」
ママはパパに抱えられていた。
「おかえり、ママ。顔青いけど、大丈夫?」
「うん。ちょっと貧血みたい」
ママはそう言うと、リビングのソファに座り長いため息をついた。その横でパパが、ちょっと心配そうにママを見ている。
「凪は?大丈夫なの?」
ママはすぐに私の顔を見て、そう聞いてきた。
「うん。今はお腹痛くないし…」
「そう…。良かった」
ホッとした顔をママは見せた。
「お昼は食べた?凪」
パパが聞いてきた。
「…ううん。まだ」
「お粥でも作ろうか?桃子ちゃんは、トマトだったら食べられる?」
「あ、うん。トマトに塩かけたのとか食べたい」
「了解。ここで休んでて、二人とも」
そう言うとパパは、キッチンに行ってしまった。
「ママ、それで、あの…」
赤ちゃんはどうだったんだろう。
「なあに?凪」
「あ、あ、赤ちゃん…は?」
「ああ、そうだった。肝心なことを言い忘れてた。今、2ヶ月だって」
「そっか~~~!じゃ、じゃあ、ママ、無理しないでね。つわりもひどいようなら、お店に行くのもやめて家でゆっくりしてね」
「うん。ありがとう」
「それから、ご飯は私と碧とパパとでやるからね。碧もお料理パパに習いたいって言ってたから」
「碧が?」
「それから、掃除や洗濯もみんなで手分けしてやるから」
「大丈夫だよ。匂いさえかがなかったら大丈夫なの…。あ、お粥の匂いがしてきた。ダメだ。ママ、部屋に行ってるね」
ママはそう言うと、鼻を手でおさえながら2階に上がっていった。
そんなに臭いのか、食べ物の匂いって。大変なんだなあ。私がお腹にいるときもつわりがひどかったって言ってたけど、辛い思いをさせちゃってたんだなあ。
「あれ?桃子ちゃんは?」
パパがリビングに来て聞いてきた。
「お粥の匂いがダメで2階に行ったよ」
「あ、そっか。ご飯の匂いがダメなんだっけ。じゃ、トマト2階に持って行くからさ、凪はお粥食べなね?」
「うん」
「それと、凪…」
パパがいきなり顔を近づけた。
「なに?」
「もし、学校でなんかあったんだったら、ちゃんとパパに言ってね」
「え?」
「ね?」
「う、うん。大丈夫。なんにもないから」
「そう?」
「うん」
私はにっこりと微笑んだ。
パパもにこりと優しく微笑むと、トマトが乗ったお皿を持って2階に上がっていった。
びっくりした。パパにはお見通しなのかな。何かあったことわかっちゃったんだ。
でも、なんとなく言えなかった。空君のことが好きだって、パパにはなんとなく打ち明けづらい。
ママにだったら、聞いて欲しかった。でも、今はとても無理だな。
「はあ…」
杏樹お姉ちゃんは江ノ島に帰っちゃったし…。まさか、春香さんに相談できるわけもないし。
爽太パパか、くるみママはどうかな。
「ダメだ。話す気になれない」
私はダイニングに行き、パパの作ったお粥を食べた。
「あ、美味しい…。ホッとする味」
キリキリ傷んでいた胃が、すうっと優しさで包まれた気がした。
もしかして、ううん、もしかしないでも、パパが私のことを思って作ってくれたんだよね。だから、こんなにホッとするんだ。
私はお粥をたいらげ、お椀を洗ってから2階に行った。
また、パパは寝室からなかなか出てこなかった。ママと二人で何か話をしているのか。それともただ、隣に寄り添ってあげているのか。
本当にパパはママを大事にしているよね。
そしてパパは、私と碧のことも大事にしてくれている。
部屋に入り、ベッドに横になり、
「やっぱり、パパに言ってみようかなあ」
と、どうしようか考えた。
言うならなんて言おう。まさかキスをしたことまでバラせないし。そんなことを考えているうちに、1時間があっという間に過ぎた。
「凪、入るよ」
パパの方から部屋に入ってきてしまった。
「パパ?」
「まりんぶるーが忙しいらしくて。ちょっとだけ顔出してくる。凪は寝てる?」
「わ、私も行く」
パパに話ができるチャンスかも。
「あ、でもママ一人でも大丈夫?」
「うん。食べ物の匂いさえかがなかったら、大丈夫なんだよ。あと貧血もあるけど、部屋でゆっくりしていたら、大丈夫だってさ」
「でも…。一人ぼっちで寂しくないかな」
「…そうだね。じゃあ、帰ってきたらママと一緒にいてあげて?今はママ、出産の本とか、子育ての本、凪や碧の生まれたときの頃の日記、読み返したりしてるから」
「え?」
「全部忘れちゃったから、いろいろと思い出さなくちゃって…。あと、暇になったら編み物でもするって言ってたよ。だから、あんまり寂しいってこともないかもしれないな。凪がお腹にいる時も、部屋でよく一人で編み物していたからさ」
「赤ちゃんのものを編むの?」
「うん。ベストとか、おくるみとか。ママ、お腹の赤ちゃんの編み物している時、至福みたいだよ」
「え?」
「凪の時も、幸せ感じながら編んでた。顔がすごく優しくなって、幸せそうだったよ」
「そ、そうだったんだ」
なんか、感動…。
「あ、でも、そんなママの隣にいるだけで、幸せ気分になれるから、凪、一緒にいるといいかもね。胃の痛みもすぐに消えちゃうかもよ」
「…そうだね。あ、でも、心配しないで。もう痛くなくなったから。明日には学校いけると思うよ」
「無理してない?凪」
パパが私の頭を撫でながら聞いてきた。
「うん。大丈夫」
「……そういえば、空はまだ熱があるらしいんだよね」
「え?」
「微熱らしいけど、また夜熱が上がるかもって、春香さんが電話で言ってた。だから、明日も空、休むかもなあ」
大丈夫なのかな。そんなにひどい風邪なの?
「だから、学校で凪のこと見守ってって、空に頼めないしなあ」
「え?」
なんで、空君にそんなこと?
「ま、しょうがないか。さ、支度して。まりんぶるー行くよ」
「うん」
パパは部屋を出ていった。
それにしても。
なんだってパパ、空君にそんなこと頼もうとしたのかな。空君とは学年も違うし、学校で会うこともあんまりないし、それに、空君がそんな頼み、嫌がるかも知れないし…。
パパと一緒にまりんぶるーに行った。まだ雨が降っていたので、パパが車を出した。
「こんちは~~~」
「聖!!」
パパがまりんぶるーに入ると、爽太パパとくるみママがキッチンから大きな声でパパを呼んだ。
「電話で言ってたけど、桃子ちゃん、妊娠?」
キッチンに私とパパが行くと、爽太パパが小声で聞いてきた。
「うん。昨日具合が悪くなったのはつわりだった。今、2ヶ月だって」
「3人目なのね!おめでとう」
くるみママは、すごく嬉しそうにパパの手を両手で握りしめてそう言った。爽太パパも嬉しそうに目尻を下げ、パパの頭をくしゃくしゃにして、
「おめでとう、聖」
と言って笑った。
「サンキュー。あ、でも、しばらくは桃子ちゃん、店出てこれないと思う。今回はつわりもひどくなりそうだし、貧血もあるし」
パパは、爽太パパにくしゃくしゃにされた髪の毛を整えながらそう言った。
「大丈夫よ。誰かパートでも雇うから」
くるみママがそう言うと、ホールのお客さんにオーダーを聞きに行っていた春香さんが来て、
「桃子ちゃん、おめでただってね。おめでとう、聖」
とパパの背中をポンポン叩きながらそう言った。
「サンキュー。でも、まりんぶるー、これから忙しくなるのに、手伝えなくなっちゃう」
「いいの、いいの。おめでたいことなんだから!あ、凪ちゃんも嬉しいでしょ?赤ちゃんが生まれるの」
「はい。碧も大喜びしてました」
「碧も?出産って、ちょうど受験と重なる頃かな。大丈夫?」
「大丈夫だよ。きっと逆に励みになるんじゃない?お母さんも赤ちゃん生むために頑張ってるんだから、俺も頑張ろうってさ」
「なるほど、そうかもね」
パパの言うことに春香さんは頷いた。
パパのこういう考え方が好き。なんでも、悪く捉えようとはしない。
「あ、そういえば、空君大丈夫ですか?」
「うん。今のところは微熱。暇で暇で、漫画読んだりテレビ見たりしてるわよ。あ、聖。手伝いに来てくれたんでしょ?」
「うん。5時くらいまではいられる。そのあとちょっと研究所に顔出さないとならないんだけどさ」
「良かった。スコーンもなくなってきたし、人手が欲しかったの。あ、凪ちゃん。空、まだお昼食べてないのよ。朝ご飯が10時頃だったから、まだ大丈夫かなと思ってたんだけど、さすがにお腹空かせてるわよね」
「そうですよね。もう、2時過ぎてるし」
「それで悪いんだけど、持って行ってくれないかな。ランチの残りがあるの。今、タッパーに詰めてくるから」
「はい…」
パパ、何か言うかな。また空のところに行くのか?とか…。
「凪が顔出せば、空、一発で治っちゃうんじゃないの?」
へ?
「そうよね。医者に行くより、薬飲むより、凪ちゃんがそばにいてくれるのが一番なのよね、空は…」
「凪もじゃない?ママの心配はしなくて平気だから、今日は空のところでゆっくりしてこいよ。な?」
パパがそんなことを言うなんて!
「凪ちゃん、お腹痛くて休んだんだっけ?凪ちゃんは大丈夫なの?空も心配してたよ?」
春香さんが心配そうに聞いてきた。
「そ、空君、私が休んだこと…」
「碧がメールで教えてくれたみたい」
「碧が?そうか…。あ、私ならもう大丈夫です。空君にお昼届けてきますね」
「うん。お願い。空、きっと喜ぶから」
春香さんにそう言われたけど、本当に喜んでくれるかな。
どうもまだ、空君に無視され続けてた頃のトラウマみたいなのがあるんだな、私って。また嫌がられるかも、とか、無視されちゃうかも、なんて恐怖が残ってる。
空君の家に着いた。お店の方に周り、櫂さんに挨拶をすると、
「あ、空のお見舞い?上がって上がって。空、暇してるし喜ぶよ」
と櫂さんにも言われてしまった。
そうか。一人で暇してるのか。でも、空君だったら、一人でいても平気そうな気もする。あ、でも、風邪とか引いて一人でいたら心細くなるのかな。
だから、誰が来たとしても喜んじゃうかな。
でも、一人でいるのが好きな空君だったら、邪魔にならないかな、私がいたら。
え~~~い。暗い。なんだか、私の考え方って暗いかも。
2階に上がりながらそんなことを考え、リビングに入るまでに首をぐるぐると横に振り、気持ちを切り替えた。
「空君…」
私は緊張しながらリビングに入った。
「凪?!」
「あ、お昼、春香さんに頼まれて」
「お腹痛くって休んでたんじゃないの?」
空君はリビングのソファで寝転がっていたのを、座り直して聞いてきた。
「私ならもう治った。大丈夫だから」
「そっか…」
「それより、空君は熱まだあるの?」
空君はそう言うと、おでこに手を当て、
「もうそんなでもないんだ。37度くらいで」
とちょっと微笑んだ。
「微熱だね。頭は痛かったりしない?」
「うん」
私はまだ、空君から離れたところに立っていた。空君は黙ってそんな私を見ている。
「あ、これ、お皿に乗せてくるね」
私はそう言って、キッチンに行きお皿を出した。ご飯は炊飯器に入っていたので、空君のお茶碗によそって、それらをダイニングテーブルに運んだ。
「空君のお箸はどれだっけ?」
「いいよ。自分で用意する」
そう言うと空君はソファから立ち上がった。でも、ちょっとふらついている。
「だ、大丈夫?」
「うん。大丈夫」
空君はまた微笑んだ。
これ、無理して笑ってくれてるのかな。
ダイニングに戻ってくると、空君はいただきますと言って食べだした。私は、空君の前の椅子に腰掛けた。
「食欲はあるの?」
「ある。だから、明日には学校にも行けるよ」
「え?でも、無理しない方が…」
「……」
「空君?」
「凪は明日、学校行く?」
「う、うん」
本当は行きたくないけど、みんなに心配もかけられないしなあ。
「碧が心配してたんだ。凪、何かあったかもって。昨日は鉄に送ってもらったの?」
「うん。たまたま、帰りにばったり会って」
「そう…。じゃ、鉄が原因ってわけじゃないのか」
「なんの?」
「お腹痛くしたのって、精神的なもの?」
「ううん!きっと風邪。胃に来る風邪だったんだよ」
私はつい、思い切り否定してしまった。あ、今のもわざとらしかったかな。
「俺の風邪、うつしたかな?」
え?
「ううん。別のだよ、大丈夫」
「それならいいんだけど」
うわ。空君にまで心配かけちゃったんだ。どうしよう…。あ、そうだ。話を変えちゃおう。
「あのね、実はうちのママ、妊娠したんだ」
「え?!」
あ、空君、すごく驚いてる。
「昨日ママ、具合が悪くって仕事の途中で家に帰ってきたの。それで今日産婦人科行ったら、2ヶ月だって」
「赤ちゃん?」
「うん」
「そっか。凪と碧にまた兄弟ができるんだ」
「うん」
「いいな。羨ましい」
「え?兄弟?」
「うん。うち、もう兄弟ができることはないからさ」
「…じゃ、じゃあ、赤ちゃん産まれたら、うちにちょくちょく来たら?」
「え?でも、俺、赤ちゃんとか子供って苦手」
「……そうだよね」
空君はまた黙り込んだ。そして、
「碧も凪も、赤ちゃん産まれたら忙しくなるかな」
と小声でそう呟いた。
「え?」
「あ、なんでもない」
そうか。碧、空君のところに遊びに来なくなっちゃうかも知れないんだ。でも、そうじゃなくても、碧、受験もあるしなあ。
「あの…。碧は部活引退したら、本格的に受験勉強もするし、赤ちゃん生まれる前から忙しくなりそうだよ」
「そうだよね。もう、うちに遊びに来ていられないよね」
「あ、碧の勉強を空君が見てあげたら?」
「う…。そういうのは苦手だな。人に何かを教えるのって、できないんだよね」
「そっか…」
空君が小さな溜息をついた。
「なんか、俺、苦手なもんばっかりだよね」
「そんなこと…。私も教えるの苦手だし、勉強もできないし」
「……」
あ、空君黙っちゃった。フォローになっていなかったかな。
空君はお昼ご飯を食べ終わると、食器を片付けに行ってから、
「凪、もう帰るよね?」
とちょっと寂しそうに聞いてきた。
「ううん。私も暇だし、まだいられるけど」
寂しそうに空君が聞いてきたから、そう答えた。答えてから、あ、いたら迷惑だったかな…という考えが浮かんできた。
「そう…」
空君が、ほっと溜息をつき、嬉しそうに微笑んだ。
うわ。今の笑顔可愛かった。それって、私がここにいてもいいってことだよね?
「じゃあ、DVDでも観る?凪、オカルトとか苦手だよね?」
「うん」
「じゃあ、SFなら平気?」
「怖くなかったら」
「宇宙人とか出てきて、人類が危機を迎える…とか」
「怖そう」
「そんなでもないよ。ちょっと宇宙人に殺されたり、食べられたり」
「ダメ。そんなの絶対に…」
「怖い?」
「うん!」
「………。でも、俺、見たいなあ」
え~~~~!!空君って、そういう映画が好みだったの?昔は可愛いディズニー映画が好きだったじゃない。
「観ていい?凪、怖かったら耳と目を塞いでいたらいいから」
「それでも聞こえちゃうよ。音だけでも嫌だな」
「……じゃあ、俺に抱きついててもいいから」
へ?
うわ!ほんと?それはちょっと…したいかも。
「じゃ、じゃあ…」
そう言って私はリビングのソファに移動した。空君も横に来て、DVDのスイッチをいれた。
空君が、隣にぴったりとくっついて座っている。ドキドキ。
これは、どんな映画を目の前でやっていようと、目に入ってこないかもしれない。それに音だって、聞こえないかもっていうくらい、心臓が高鳴っちゃってる。
空君、こんなに近くにいてくれるんだ。
ドキドキしながらも嬉しくて、胃の痛みも千鶴のことも全部がいっぺんに吹っ飛んでいった。




