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真昼の月の物語  作者: 深海いわし
第二部 黒雨の章
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第一話 竜と幻 File-7

 1-7 届かぬ祈り


 リラ信仰の総本山――中央省庁区の壮麗なフォルシウス大聖堂の身廊に、ジュリアンはいた。聖堂でも至聖所にほど近い神祇官席からは、ユリンの礼拝堂とは比ぶべくもない広大な空間に、何千人ものリラ教会の関係者が詰め込まれ、一様に沈痛な面持ちで黙りこくっている様子が見渡せる。

 大聖堂には幾本もの石柱が太古の森のようにそびえ立ち、高い天井は薫香の香りと煙にうっすらと覆われてさらに遙か彼方にあるかのようだ。採光用の高窓から差し込む光は弱く、並び立つ人々の姿は幽霊のように色を失って見える。暗鬱な石の森には、単旋律の鎮魂歌が重くのしかかるように低く響き続けていた。

 今行われているのは、先の任務で命を落とした者たちの軍葬式典だ。祭壇では光王と光の巫女が向かい合って祈りを捧げている。弔われているのは、何も先日の輸送任務の犠牲者ばかりではない。辺境での殉教が常態化している今、光の巫女が軍葬式典を執り行うのはほぼ毎月の定例行事となっている。ジュリアンが参加するのも、これが初めてではなかった。だが、何度繰り返したとしても、戦友や部下を見送るこの行事に慣れることはない。

 ふと、神祇官席と一般信者席を隔てる天幕が、微かに動いて衣擦れの音がした。

「怪我、治った?」

 ほとんど物音も立てずに滑り込んできたフランシスが、小声で尋ねかけてくる。

「一朝一夕で治るわけないだろう。まあ、動けないほどではない」

「竜化症は?」

「どちらかと言えばそちらの方が問題だな」

「でしょうね」

 頷きながらジュリアンの左隣に立ったフランシスは、さりげない仕草で二人の前の手すりに宝飾の施された懐剣を置いた。礼装用の短剣に偽装されているが、実際にはセキュリティ能力の高い接触型魔術通信装置だとジュリアンは知っている。無言で剣の柄の側に触れる。フランシスが鞘の上に手を置くと、一拍遅れて調整ノイズが頭の内側に聞こえた。

 ――今回の……水の神器喪失の後始末についてだけど。どうやらアズラエルを貸してもらうことになりそうです――

 通信装置を通じて脳内に響いた声に、ジュリアンは微かに眉根を寄せる。

 ――……やはり、粛清か――

 ――ちょっと数が多くてね。トカゲの尻尾切りでは根本的な解決にならないから。まあ、トカゲの俺が言うことじゃないけど――

「フランツ」

 不満と抗議を込めて低くその名を声に出すと、フランシスは軽く肩をすくめた。

 ――君にとっては不本意だろうけど、利用させてもらいます。ここらで邪魔な勢力を一掃しておけば俺も楽になる――

「タイミングの悪いやつは振られるんですよ」

 カツカツと鞘を指で叩きながら、フランシスは珍しく皮肉や嘲りを隠そうともしない笑みを浮かべる。

「運命の女神様ってやつに、ね」

 そんな冗談を聞いていたい気分ではないと表情に出ていたのだろう。フランシスは微かに苦笑を浮かべて瞳を伏せた。

 ――リラに仕えるものの台詞じゃないね。失言だったかな。接触はこちらから図るから、君は適当にアズラエルをユリンの外に出してください――

 言葉が終わると同時に、フランシスはジュリアンの手からするりと懐剣を抜き取って袖口に納める。

「タイミングを逃さないためにも、君は早めにユリンに戻った方が良いですよ」

「それは忠告か、脅しか?」

 いつもの彼らしい真意の見えない微笑の奥から、何もかもを見通そうとするような鋭い視線がジュリアンを射貫く。

「どうとでも。でも、なんとなくその方が良いような印象もあるんですよ。ごく個人的な感想として」

「珍しいな」

 平坦な声で返すと、フランシスは視線の鋭さはそのままに、微笑を苦笑に切り替えた。

「何だと思われているのやら。君には汚れた大都会よりもユリンのような田舎町の方が似合う、と言ってるんですけどね」

「褒め言葉として受け取っておこう」

「性格悪いですね」

「お前に言われたくない」

 ため息混じりに言い返す。

「はは、それはもっともだ」

 愉快そうに笑い声を上げると、フランシスは優雅に一礼した。

「じゃあ、俺はそろそろ失礼します。お大事にね、ジュリアン」

「お前も、あまり無茶はするな」

「ご心配なく。俺は憎まれっ子だから」

 ひらひらと軽い調子で右手を振りながら、来たときと同じように物音一つなくフランシスは姿を消す。その背中を視線だけで見送って、ジュリアンはまた主祭壇の光の巫女に視線を投げた。巫女は瞳を伏せ、真摯に一心に祈りを捧げている。

 けれど、彼女の祈りが誰にも届かないものであることを、ジュリアンも巫女自身も知っていた。神々は死者の行方など見守らない。死ねば身体は土に還り、魔力は世界律に溶けて消えてなくなるだけだ。

 リラに祈りを捧げても、届くことなどあり得ない。祈りも、懺悔も、むなしいだけだ。

 そう思った瞬間、乾いた干し草と甘いリンゴを思わせる香りが、ふっと思考を過ぎった。

 思わず顔を上げて周囲を見回す。煙に霞んだ薄暗い大聖堂の光景がひどく非現実的に見える。深くため息をつきながら眉間を手で押さえた。

 自分が今何を考えたのか、何を求めたのか。思考を振り払うように頭を振る。考える必要などない。

 ――むなしいだけだ。


 あれからジュリアンは礼拝堂に姿を現さない。フィアも何かと忙しいのか、姿を見せることはなかった。

 礼拝堂と踊る小豚亭を淡々と往復するだけの、フィラにとってのいつも通りの日常はそうやって戻ってきた。

 季節も同じように淡々と巡り、夜風は冷たく透き通り、夏空も高く遠ざかって秋の空に変わり始めた。エルマーが仕入れる食材が変わり、新しいメニューが増えて夏のメニューが終わり、虫の鳴く音色ももう秋の色に染まり始めている。まだ日中は暑くなるけれど、衣替えも近いかもしれない。考えているのもそんな日常的なことばかりで、あの時礼拝堂であったことやフィアから聞いた話がまるで夢だったように感じられる。

 そのはずなのに、なぜかフィラには時折この日常こそが夢のように思えて、胸が締め付けられるような微かな痛みを感じるのだった。それはふとした瞬間に訪れる。例えば厨房で食器を洗っていて、酒場の喧噪が急に遠ざかって聞こえたとき。他愛ない会話に笑い合うソニアとレックスを一歩引いた距離から見つめているとき。屋根裏で眠りにつく前に、天窓から月を見上げたとき。

 エルマーとエディスが久しぶりに二人で市に出かけるからと踊る小豚亭を閉めてしまって、ソニアとレックスも仕事があるからと一人で暇を持て余しているとき。

 石畳の路地裏から細く切り取られた空を見上げて、フィラはそっとため息を零し、また足下に視線を落とした。路地裏に人の気配はなく、まるで異世界に迷い込んでしまったように辺りはしんと静まりかえっている。雲の動きに従って照ったり陰ったりする秋の午後の柔らかな日差しと、音もなく吹き抜ける穏やかなそよ風と前を歩くティナだけが、この世界で動いているもののように感じられる。

(ただの散歩なんだけどな……)

 暇を持て余していたから、散歩に出かけて今まで入ったことのない路地に探検のつもりで入り込んだだけなのに。それなのに、なぜこんなに心細い気分になってしまうのだろう。

 俯いて歩いていたフィラは、上方から差し込んでいた光がいつの間にか両脇からも周囲を照らし出していることに気付いて足を止めた。知らないうちに狭い路地裏を抜け出して、小さな広場に出ていたようだった。広場の中央にはクヌギの木が一本立っていて、石造りの壁に囲まれた広場を柔らかな木陰と葉擦れの音で満たしている。

 そしてその木陰には、ウィンドが佇んでいた。真っ直ぐにこちらを見つめて微笑むウィンドは、まるでフィラが来るのを待っていたかのようだ。

 いや、実際待っていたのかもしれない。呆然と歩み寄るフィラに、ウィンドはにっこりと笑いかけた。

「こんにちは、フィラ。お久しぶりですね」

「ウィンドさん……お久しぶり、です」

 そう言われれば、占い師に導かれて大地の果てでジュリアンと話したのは、もう一月以上もまえのことだ。

「少し、大人びましたね」

 ウィンドはそう言って、慈愛に満ちた、けれどどこか不思議と哀しそうな微笑みを浮かべた。

「願っていたはずなのに、叶うと哀しいこともあるのですね」

 ウィンドがそっと腕を伸ばし、その指先が頬に触れるのを、フィラは凍り付いたように見つめていた。ひやりとした柔らかな感触は、礼拝堂で出会った黒衣の女性と同じものだ。それなのに、向けられる眼差しはあの時とは違ってどこまでも慈愛に満ちて、そして哀しい。

「哀しい……どうして、ですか……?」

「魔法が、解けてしまうから」

 黒衣の魔女がつけた爪痕をなぞるように頬を撫でて、ウィンドは静かに手を離した。

「占い、いたしましょうか」

 伏し目がちに囁かれた声も、辺りの静寂を乱すことはない。

「今日は森へ行くといいことがありますよ」

「いいこと、ですか?」

 密やかな声音はそのままに、少しだけいたずらっぽい調子を覗かせたウィンドにフィラは目を瞬かせる。

「そう、素敵な出会いが」

「な、なんだかそれは本当に占いっぽいですね」

 見上げればウィンドは、ひどく楽しそうな笑みを浮かべていた。

「たまには占い師らしいことも言わないと、フィラに信じてもらえないかもしれないと思って」

「私、そんなに疑い深いですか?」

 思わず聞き返したのは、ジュリアンのこともフィアのこともまだ信じ切れない自分を自覚していたからだ。フィラのそんな戸惑いを、ウィンドはきっと見抜いている。

「いいえ、フィラ。あなたは疑い深くはないと思います。ただ、あなたは知らないだけ。あなたが信じたくても、知らないものを信じるのは難しいでしょう?」

「それって……団長のこと、ですか」

 にっこりと笑みを深くしたウィンドに、フィラは自分の発言が恥ずかしくなって思わず赤面しながら俯いた。不機嫌にしっぽで地面を叩くティナが視界の端に飛び込んでくる。

「知識を得ることだけが知ることではありません。たまには直感を信じてみるのも良いかもしれませんよ」

 ますます消えてしまいたくなったフィラをなだめるように、ウィンドは静かに言葉を紡いだ。

「あなたは誰かを信じることはあっても盲信することはないだろうと、そう、思えるのです」


「不思議な人だよね、いつも思ってたけど」

 南へ向かう街道を歩きながら、フィラはぽつりと呟く。

「彼女が人だったら確かに不思議だね」

 フィラの肩に乗ったティナがはたりとしっぽを動かしながら答えた。

「人だったらって……じゃあ、何だったら不思議じゃないの?」

「神族。それもかなり高位の」

「ええ!?」

 思わず立ち止まって声を上げてしまったフィラは、誰かに聞こえなかったかと慌てて周囲を見回す。子猫相手に話している姿は、良くても変人にしか見えないだろう。

「か、神様ってそんなあっちこっちにほいほいいていいものなの?」

 周囲に人影がなかったことを確認し、平静を装って再び歩き始めながらフィラは首を傾げた。

「いや、ほいほいいるんだけどさ、実際。君には影しか見えてないってだけで」

 確かに、フィアがそんなことを言っていた。何だっけ。森羅万象は神界にいる神々の影がこの世に映ったものである、とかなんとか。

「でも君に見える形でこんな風に高位の神が現れるのは、確かにちょっと異常かな。十中八九ジュリアン・レイのせいだろうけどね」

「団長の?」

「そ。あいつ、なんかそういうのが集まってくる中心にいるから」

 ティナは当然のことのように言い放つが、フィラは訝しげにさらに首を傾けた。

「なんで?」

「それがよくわからないんだよね。あいつに対して協力的な割に、もう人間とは関わりたくないって感じの神々が多いみたいだから不思議なんだ。利害が一致するとかなんとか、そういう雰囲気は感じるんだけど」

「同じ神様でも、考えてることわからなかったりするんだね」

 当然かもしれない。人間同士だって、相手の考えていることなんてわからないのだから。

「結構わかんないものだよ。人間と関わる期間が長くて人間ぽくなっちゃった相手だと特にね」

 フィラの思考と同調するように、ティナも静かに答えを返してくる。

「僕も相当ヒューマナイズしてるけど……だからなおさらわからないところもあるし」

「人間ぽくない神様はわかりやすいの?」

「わかりやすいって言うか……基本的に世界律に忠実だから思考を読む必要とかあんまりないんだよね。物理法則と同じようなものだから」

 考え込んだティナのしっぽがゆっくりと揺れるのを、フィラは横目で追いながら歩き続ける。

「人の思いが世界律を変質させるんだ。人と世界律の関わりが、世界律を人に近い精神を持つ存在に変えていく。そうやってできあがった存在を、人は神と呼ぶ。人が人に似せて神を作るんだ。だから人が人同士で理解し合えないのと同じくらい、人に似せて作られた神同士も理解し合えないんだ。わかる?」

「うーん、まあ、感覚的にはなんとなく……わかるような、わからないような」

 茶化しながらティナの喉をくすぐると、ティナは不満そうに猫パンチを繰り出しながらごろごろと喉を鳴らした。聞いているこちらまで和んだ気持ちになるその音を聞きながら、フィラは考えていた。

 ――昔は。神が神に似せて人を作ったと言われていたんじゃなかったっけ。

 けれどその知識がいつ、どこで、何からもたらされたものだったのか、今のフィラは思い出すことが出来ない。ため息をついて空を見上げた。フィラの気持ちと裏腹に明るく晴れ渡った蒼穹が、行く手に広がる惑いの森の緑と対比されて、ひどく美しく映えていた。

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