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真昼の月の物語  作者: 深海いわし
第二部 黒雨の章
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第一話 竜と幻 File-6

 1-6 竜化症


 フィアが見回りの時間を完璧に把握していたおかげもあって、フィラが夜明け前に踊る小豚亭に戻ったところは誰にも見とがめられなかった。まだ暗い町並みを通り抜けて酒場に戻ったフィラは、一息つく間もなく昨夜の荷物と楽譜だけを取り替えて、再び踊る小豚亭を後にする。ティナが出て行くフィラをもの言いたげに見つめていたが、まだ落ち着いて報告が出来る心境にはなれなかった。

 いつも通りに礼拝堂へ行き、ピアノの前に腰掛けてしばらく基礎練習をしていると、すぐにフィアがやって来る。

 早足でピアノの側までやってきて、おはようございます、とかしこまるフィアに、おはようと答える以外何と言ったら良いかわからないまま、フィラはピアノを引く手を止めて立ち上がった。フィアが手で示した、ピアノにほど近い礼拝用のベンチに腰掛けると、続いてフィアもその隣に腰掛ける。

「それでは、早速竜化症について説明を始めましょう。まず知っておいていただきたいのは、魔力値と最大魔力容量の関係についてです」

 礼拝堂の空気に染み通るような静かな声で、フィアが話し始める。早朝の城内からは人の気配は感じられず、ただすすり泣くような風の音だけが遠くから微かに聞こえてくる。フィアの声も表情も冷静そのもので、昨夜の涙の痕跡はどこにも見当たらなかった。あれからほとんど一睡も出来なかったフィラは、どうにか集中力をかき集めてフィアの話に耳を傾ける。

「この二つの概念は、訓練用のテキストにおいて、通常、液体の入った容器で表されます」

 フィアは軽く片手を振って、この間と同じように空中に幻影を描いた。フィアが描き出したのは、時折虹色に明滅する透明な液体を三分の二ほどたたえたカプセル型の容器だった。容器の側面の上下二箇所から管のようなものが伸びていて、液体は上方の管から流れ込み、もう片方から流れ出している。液体は空中から滲み出るように現れて溶けるように消えていく。

「あくまでもイメージですが、最大魔力容量は器の大きさに、魔力値は器に入っている液体の量に置き換えられます。魔力は常に世界律の中から流れ込み、また流れ去っていきますが、魔力値が大きく変動することは基本的にはありません。液体、つまり魔力は、魔術を使うと蒸発して気体となり、しばらく魔術を使わずにクールダウンさせておけばまた元の液体に戻って流れ去っていきます。全部が気体になってしまうと、それ以上魔術は使えなくなりますが、クールダウンを経て気体が液体に戻ったり、新たに世界律から液体として補充されたりすれば再び魔術を使用することが出来るようになります。一度に使える魔力量には限界があるが、時間を置けばまた使用可能となる、ということです。しかし、器の大きさと液体の量によっては、使える魔力量にさらに制限が加わることもあります。液体が気化して気体となった場合、その体積は大きく増大します。水が液体から気体になった場合、その体積は約千七百倍にもなりますから、液体の気化によって容器に加わる圧力は膨大なものとなる。その圧力を支えきれなくなれば、容器は破損します。膨らませすぎた風船が割れてしまうように」

 フィアの言葉と同時にカプセル内の気体が激しく泡立ち、虹色にきらめく気体がカプセルに充満する。数秒の後、気体の増加に耐えられなくなったカプセルはガラスの割れるような音を立てて砕け散った。

「水蒸気爆発、という現象です。大規模な魔術を使用して一度に多くの魔力を気化させた場合も、同じことが起こるのです。特に魔力値に対して最大魔力容量が小さい、逆に言えば魔力容量に比して魔力値が高い場合には、気体が存在できる空間が少ないことになりますから、器の破損も起こりやすくなります。ある程度までは世界律への逆流という形で吸収できるのですが、これにも世界律を乱してしまうという副作用があります。世界律の乱れは天魔を呼びますから、これも望ましい現象ではありません」

 再び現れた幻のカプセルの中で、液体がさっきよりは控えめに沸騰し、虹色の気体は上方の管から流れ込む液体を押し退けて外へ流れ出す。フィアは一つため息をついて手を振り、幻を消し去る。

「話を戻しましょう。器の破壊がもたらすものが、竜化症です。器のひび割れに当たる軽度なものから、完全な破壊に至るような重度なものまで」

「器が壊れたら竜化症になってしまうってこと?」

 おそるおそる尋ねるフィラに、フィアは微かに眉根を寄せながら頷いた。

「その通りです。竜化症の症状は肉体の竜化や記憶障害を始めとして様々ですが、最終的に行き着く先は肉体の消滅――すなわち『ロスト』と呼ばれる現象となっています。水蒸気爆発と同様の現象で急激に竜化症が起こった場合など、一瞬にして『ロスト』まで行き着く場合もあります」

 ロスト。声に出さずに、フィラはその言葉を繰り返す。

「魔力の器とはつまり、そのものの存在自体を規定している外枠なのです。器が破壊されると、我々を取り巻く世界律の中で、その者がその者自体の輪郭を保つことは難しくなってしまいます。破壊された器は世界律の流れの中で崩れてばらばらとなり、中身も全て流れ出て溶けていってしまう。世界律の流れの中に、存在自体が取り込まれてしまうことになるんです。肉体の消滅は、そのものの存在自体が世界律の中へ溶けて消えてしまうために引き起こされる、目に見える現象。竜化症とは、人間……いえ、この現世に生きる存在が、世界律の中へと溶けて消えていく過程に他ならないのです」

 フィアは大学の講義のような、奇妙に冷静で理屈っぽい口調を崩さない。

「この現象は、神々のヒューマナイズとは逆の過程に当たります。神々の身体や精神が、世界律の中から徐々にはっきりとした意志と形を現し、現実に存在する物質へと近付いてくるのとは逆に、竜化症の症状はその者を構成する何かが存在感を失って、神々の世界……神界へ近づいていくという形で起こるのです。例えば、肉体的なものでは身体が神界の物質……神々の肉体を形作る物質である竜素に変化していく症状が挙げられます。竜素と化した部分は黒く変色し、ふつうの人間の能力では動かすこともその部分の感覚を知覚することも不可能となります。見た目にわかりやすいので、もっとも初期に発見された症状でもあり、竜化症の名前のもととなった症状でもあります」

 淡々とした、けれど具体的に想像すると背筋が寒くなってくるような言葉だ。

「精神的なものとしては、記憶の蓄積が神界の法則に侵されていくことによる記憶障害がよく知られています。神々の記憶方法は人間のそれとは異なっているため、普通の人間はそれに順応することができず、記憶障害が引き起こされるのだと言われています。身体的とも精神的とも言えない珍しい例としては、その者の存在自体が徐々に神界に引き込まれていくこともあります。この症例では、ふと魔力が不安定になったり、周囲の状況が神界に近付いたりした場合に、現界における存在感の希薄化が起こります。周囲から見ると、身体が半透明になったり、影が薄れるなどの現象となって現れますから、身体的な症状だと思われがちですが、同時に精神の希薄化も起こっていますので、どちらとも言い切れないわけです。そのまま神界に引きずり込まれ、ロストしてしまった、という例も過去に何件か報告されています。魔術使用以外のきっかけでロストする危険があるため、竜化症の進行度合いが見極め難い、やっかいな症状です。他の症状と比べれば普段の生活には支障を来すことは少ないのですが……ジュリアン・レイの竜化症は、主にこちらの症状となって現れているようです」

 フィアはそこで、ふっと憂鬱そうなため息をついた。

「右手は……竜化しかけているようですけどね。ただ、まだ表面には表れていません。手袋を外しても見た目だけではわからないでしょう」

「じゃあ、団長の影が薄く見えたのも……」

 混乱しながらも注意深く話を聞いていたフィラは、フィアが言った症状の一つを思い出して呟く。

「見たことがあるんですね? ここで」

「う、うん」

「そうですか……それも症状の一つと考えて間違いないと思います。ここは光の神々の影響が強いから……恐らく、一部の光の神々が彼を現界の物質ではなく、世界律の流れの一部と捉えたことで、物理的な光そのものも、彼を物質的な存在として捉えず、その身体を透過してしまったのでしょう」

 ふと視線を落としてしまったフィアの横顔を見つめる。

「フィアも竜化症、なんだよね」

「はい。私の場合、珍しいタイプの発症の仕方をしているんですけどね」

 フィアは目を伏せたまま、愁いを帯びた微笑を浮かべた。

「珍しい……?」

「記憶がどんな細かいことであっても消えない、というのも、竜化症によって引き起こされる記憶障害の一つなんです」

 言い終えて短くため息をつく。その反動を利用して立ち上がったフィアのほっとしたような表情を見て、フィラはフィアも実はかなり緊張しながら話していたのだと気付いた。

「今日は、もう戻ります。そろそろ朝礼ですから」

「うん。ありがとう。いろいろ教えてくれて」

 一瞬、フィアの表情が哀しげに歪む。

「いえ、こちらこそ……聞いてくださって、ありがとうございました」

 静かに立ち去るフィアの背中を見送ってから、フィラもピアノの前に座り直した。譜面代に楽譜を広げ、鍵盤に手を置いたところでふと動きを止める。ゆっくりと右手を持ち上げ、手の甲と掌を交互にためつすがめつ眺める。

 竜化しかけているというジュリアンの右手。その手を、彼は憎悪に満ちた瞳で見つめていた。

「どうして……?」

 あの瞳の、意味。

 竜化症が進行すれば、最終的に行き着く先は肉体の消滅――。フィアははっきりとは言わなかったけれど、それが死と異なるものだとは思えない。

 掌に爪が食い込むほど、強く右手を握り込む。微かな痛み。指先で感じる、生きている者の肌の感触。

 ――彼は、消えてしまいたかったのだろうか。


 覚悟はしていたが、やはりピアノの練習はさっぱり進まなかった。集中力が全く続かない。ため息をついて譜面を閉じ、立ち上がった。今日はレイヴン・クロウから射撃の指導を受けることになっている。ジュリアンの帰還で予定が変わっている可能性もあるが、何も連絡がないからには練習場へ行ってみなくては中止かどうかもわからない。練習の開始時間にはまだだいぶ余裕があるが、ピアノの練習もこれ以上は進められる気がしないので、パイプオルガン演奏台の脇にある書棚にしまってあった拳銃一式を取り出し、練習場へ向かうことにした。

 夏草が侵入してまた少し荒れ始めた回廊をぼんやりと歩いていると、ふと視界の端に誰かのブーツの爪先が飛び込んできた。

「あ、あの、フィラさん」

「え?」

 滅多に人を見かけることのない回廊でフィラを待ち構えていたのは、いつか避難所までフィラを護衛してくれた少年兵だった。

「今、時間大丈夫ですか?」

「え、あ、はい。少しなら大丈夫ですけど……どうかしたんですか?」

 妙に思い詰めた表情の少年兵を不審に思いながら、フィラは小さく頷く。

「あの、聞いてもらいたいことがあって」

 言いにくそうに視線を落としながら、少年兵――ヤン・バルヒェットは回廊脇の崩れかけたベンチに座り込む。フィラも促されるままに、その隣に腰掛けた。

「こんなこと、フィラさんに聞いてもらうのは心苦しいんですけど。どうしても誰かに話さずにいられなくて……すみません」

「い、いえ。私で良ければ、いくらでも聞きますから。聞くことくらいしか、できませんけど」

 半分混乱しながらも、フィラは真剣に話を聞こうと姿勢を正す。

「すみません。本当……突然こんなこと言われても困るってわかってるんですけど。実は、俺、ここ、やめることにしたんです。僧兵やめて、実家に戻って、近場で何か仕事探します」

 泣き出すのをこらえるように、膝の上に置いた拳を振るわせながらヤンは言う。

「俺……やっぱり覚悟なんてできてなかった」

 声に涙の気配が混じって震えた。

「この間、友だちが死んだんです」

「この間……って、団長が怪我をして帰ってきたときの……?」

 ひやりと胸の奥が冷えた。あの時の、血と泥に汚れたジュリアンの姿。死臭をまとって一人礼拝堂に立ち尽くしていた、その姿が脳裏に浮かぶ。

「そうです。団長がいれば、戦場で危なくなっても大丈夫なんだって、俺、どっかで思ってました。でもそんなの甘かった。団長がいたって死ぬときは死ぬんだって、頭ではわかってたつもりなのに……俺、怖くなって。駄目だった。覚悟できてたつもりだったけど、全然駄目だったんです。昨日辞表提出してきました。俺は、尻尾巻いて逃げ出します」

 ヤンが言う友だち。ジュリアンにとっては、恐らく部下。

 守りきれなかった、のだろうか。

 だとしたら、自身の怪我も顧みず礼拝堂に来た彼が何を思っていたのか、何をしていたのか――実感は湧かなくとも、予測は出来る。

 苦しくなって、無意識に詰めていた息を無理矢理吐き出した。

 やっぱり、あそこに居合わせてはいけなかったんだ。あの日、あの時、あの祈りの場に。

「すいません。やめる理由、誰にも話せなくて……なんでフィラさんなんだろう……俺……すみません」

 ヤンが啜り上げる。その手の甲に涙が落ちて弾けるのを、フィラはただ見つめることしかできない。

 言葉は何も思い浮かばなかった。どんな台詞を言ったとしても、今目の前で苦しんでいる人間に投げかけるには、あまりにも残酷で怖い言葉にしかならないような気がした。


 ひとしきり泣いた後、ヤンは自分の故郷に来る機会があったら是非立ち寄ってほしいとか、フィラさんもどうか元気でとか、ごく当たり前の別れの台詞を、それでも少しすっきりしたような表情で告げて去って行った。

 少し遅れて訓練場にやってきたフィラを、レイヴン・クロウは咎めない。

「ヤン・バルヒェットと話していたようですね」

「見てらしたんですか?」

 入り口で立ち止まっていると、訓練中の僧兵にそのまま続けるようにと指示を出してこちらへやって来たクロウが、真意の見えない微笑をたたえたまま小首を傾げた。

「見ていたわけではないですが、まあ……なんとなくね。察しはつきます。彼は何と?」

「僧兵をやめて、実家に戻る、って……」

「そうですか」

 ふっと、クロウの微笑に深みと陰りが増す。

「羨ましい、というのが正直な感想です」

 その言葉が何に対するものなのか理解しかねて、フィラは思わず目を瞬かせた。

「僕のように、こういうろくでもない場所でしか生きられない人間にとっては……戻っていける日常があるというのは羨ましい話ですからね」

 慈しむような、それでいてどこか諦めを含んだような複雑な表情でクロウは続ける。

「彼にはそこへ戻っていく権利がある。彼はそれを正当に行使しただけです。何も恥じる必要などないと、いずれ悟るでしょう。例えば……故郷で両親に出迎えられた瞬間などに、ね」

 フィラを通してどこか遠くを見ていたような視線が、ふいに生き生きとした光を取り戻した。クロウはさっきよりも深く――わざとらしく破顔して、フィラの頭に手を乗せる。

「大丈夫ですよ、フィラさん。心配する必要はありません。人とは強い生き物です。僕も彼には何度か教える機会がありましたが、彼は人としての強さをちゃんと持っていましたよ」

「人としての……強さ……」

 呆然と呟く。それは、何だろう。

「ええ、その点に関して言えば、聖騎士団の面々は彼に負けているように感じられますね。僕も然り、団長も然り」

 フランシスにあっさりと殴り倒されたどこか頼りない少年兵。接点のほとんどなかったフィラに、人生を左右するような決断を打ち明けて泣いていた元僧兵。

 ――話すだけ話して泣き終えた後の、少しだけすっきりした表情とフィラを気遣う言葉。

 クロウの言う『人としての強さ』とは、そういうもののことなのだろうか。

「ただ、団長はその強さを必死で求めているように思えます。そこが僕との違いですね」

 あっさりと告げられた言葉にはっと顔を上げる。

「クロウさん……」

「団長には必要な強さです。それを得られなければ彼はおそらく、志半ばで倒れることになるでしょう。しかしまあ、まだ時間はあります。僕はそれまで、与えられた任務を全うするのみです」

 あなたを利用しなくてはならない、と、迷いのない瞳で言っていたフィアの姿が、ふと穏やかに語り続けるクロウの姿と重なった。言っていることもその表情も全然違うのに、なぜかどこか共通したものを感じる。まるで自分自身のことはどうでも良いかのような。

「でも、クロウさんも欲しいんですよね? その、人としての強さを」

「え? ……ええ、まあ……」

 気がついたときには、問いかけてしまっていた。クロウは頷きかけたまま、中途半端に動きを止める。

「だったら、クロウさんにだって」

「いえ。すみません。僕は……欲しくない」

「どうして……?」

 急に表情を硬くしたクロウに、フィラは眉根を寄せる。

「ちょっとね。そう思える理由があって。でも、その理由は秘密です」

 右手の人差し指を立ててウインクして見せた後で、それでは練習を始めましょうか、と、クロウはいつも通りの笑顔を浮かべた。

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