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真昼の月の物語  作者: 深海いわし
第一部 晴雨の章
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第三話 ピアノと拳銃 File-8

 3-8 幽霊


 その日はクロウも参加しなければならない会議があるというので、第一回目の射撃の訓練はまたの機会に持ち越された。

 フィラは夕方近くにピアノの練習を切り上げ、礼拝堂を出た。空は少し曇っていて、風が強かった。柱廊を吹き抜ける風が立てる悲鳴のような音を聞きながら、早足で裏門へ向かう。雨が降り出しそうだったから、その前に踊る小豚亭に帰り着きたかった。夕立の気配を含んだ湿った風が、フィラの髪の毛をばたばたと顔にたたきつける。フィラは邪魔な髪を両手で押さえながら、思い切って中庭を突っ切ることにした。通り道以外はいまだに長いままの雑草が、フィラの足下でざわざわと騒ぐ。回廊を吹き抜けるのは、湿った生ぬるい風だ。

 嫌な天気だな、と、フィラは思う。荒れ果てた古城を一人で歩いていると、幽霊でも出てきそうな気がしてくる。

 ほとんど小走りで中庭を通り抜け、裏庭へ続くアーチにさしかかったところで、ふと吹き荒れていた風が止んだ。柱廊を吹き抜ける風の悲鳴が途切れ、踊っていた髪もおとなしくなる。フィラは乱れてしまった髪をなでつけ、落ち着かない気分で周囲を見回した。

 ついこの間も似たようなことがあった。その時は急に周囲から音が消えてウィンドが現れたのだったが、今度は本当に幽霊が出そうで嫌だ。幽霊なんか絶対に出ない、とは言い切れない気がする。人間の言葉を話す猫がいて、剣と魔法で戦う聖騎士がいて、神出鬼没な占い師がいるくらいなのだから。

 そんなふうにびくびくしていたものだから、通路の先から黒装束の女性が現れたとき、フィラは心底びっくりした。驚きの余り声も出せないフィラの数メートル先を、女性は重力を感じさせない足取りで横切っていく。黒い霧を纏っているようにも見える衣装は僧服でも聖騎士団の団服でもない、歩くたびにふわふわとなびく柔らかそうなローブだ。真っ白な横顔は日に焼けたことなどないようで、フードの下から覗く髪も光を知らずに育った植物のように色素が抜けていた。

 ゆったりとした足取りで歩いていた女性は、廊下の角に隠れてしまう前にふと歩みを止め、ちらりとフィラへ視線を投げかけた。感情がないような、あるいは憎悪や慈愛や苛立ちや諦念を一緒くたにした結果無色になってしまったような、とにかく底冷えのする視線だった。

 ――顔立ちに見覚えがある、ような気がする。

「ウィンドさん……?」

 怖いくらいの無表情に怯えながら、フィラは震える声で呼びかけた。女性は眉一つ動かさず、一言も答えずにフィラから視線を外す。

「ま、待って下さい!」

 これで応えてもらえなかったら本当に幽霊だ、というなんだかよくわからない強迫観念がフィラを突き動かした。フィラは衝動的に走り出し、女性の後を追って一つ先の曲がり角を曲がった。

 誰かとぶつかったのはその瞬間だった。

「わ!?」

「ああ、すみません」

 バランスを崩したフィラをとっさに支えた相手は、フィラが持ち直したのを見て肩に添えていた手を離した。

「大丈夫ですか?」

 見上げてみれば、ぶつかった相手はレイヴン・クロウだった。

「は、はい」

 おもいきりぶつけてしまった鼻の頭を押さえながら、フィラは情けない心持ちで頷く。

「余計なところには行かない方が良いですよ」

 心配そうな表情のクロウは、到底怒っているとは思えない口調で厳しいことを言った。

「え?」

 クロウの意図を量りかねて、フィラは首を傾げる。

「ものすごい埃、なので」

 ――怒られているわけではないのだろうか? ここは謝るところなんだろうか?

 フィラの困惑をどう解釈したのか、クロウは真摯な表情で言葉を続ける。

「……蜘蛛や鼠も出ますし」

「蜘蛛や鼠、ですか」

「それにくしゃみも出ます」

「はあ……」

 冗談なのか本気なのか、いまいち分からない人だ、と思いながら、フィラはあいまいに頷いた。

「あの、今、誰かこっちに来ませんでしたか?」

 気を取り直してクロウに尋ねかける。

「いいえ。フィラさん以外は」

 クロウは至極真面目な表情で首を横に振った。

「そう、なんですか……?」

 フィラは困惑して周囲を見回す。先程の女性が身を隠せるような場所は見あたらない。

「でもさっき、黒い服を着た女の人が見えて、それでええと」

「幽霊かもしれませんね」

 あたふたと説明するフィラに、クロウは重々しい口調で言い放った。

「幽霊!?」

「ええ。出そうだと思いませんか? このお城」

「……思います、けど……」

 だんだん本気で怖くなってくる。泣きそうな顔のフィラに、クロウは困ったようにはにかんだ。

「脅かしてしまってすみません。冗談です。お詫びに踊る小豚亭まで送ります。ちょうど、今から行こうと思っていたところでもありますから」


 その夜、フィラは屋根裏の寝藁に寝ころんでティナにその日あったこと――ただし、幽霊の話はなんだか怖かったので省いた――を話した。

「急に忙しくなった」

 話の締めくくりにフィラがそう言うと、エディス手作りのクッションの上で丸くなっていたティナはしっぽをぱたりと動かした。

「その割に楽しそうだね」

「楽しいよ。良いピアノ、思い切り弾けるから」

 頬杖をついて両足を動かしながら、フィラは笑って答える。そんなフィラに、ティナは少しだけ不安そうな顔をした。

「記憶が戻らなくても良いってくらい?」

「それは……」

 フィラは言葉に詰まって考え込み、ため息をつく。

「そこは、考えてなかったけど。でも、どうだろう」

 両腕に顎を埋め、思考を巡らせた。

「もしもここ以外に行く場所がないなら、思い出しても同じかもしれない」

 ユリンを出ても行く場所はないのだと、そうジュリアンは言っていた。ティナもその言葉を否定してはくれなかった。だとしたら、ここ以外に居場所がないというのは事実なのだろうと、フィラは思う。

「そうかもね。あいつも、フィラが黙っている限りは黙認するつもりみたいだし」

「黙認?」

 不正の匂いの漂う単語に、フィラは軽く眉根を寄せて顔を上げる。

「フィラがここにいることを、だよ」

 答えるティナには元気がない。

「そっか……黙認、か。私、そうやって守ってもらってるってことなのかな?」

 つられてフィラの気持ちも沈む。

「気にくわない言い回しだけど、そう言っても良いかもね」

 フィラはあーとかうーとかうなりながら寝返りを打って、寝藁を挟んでティナと反対側の枕元に置いてある革表紙のノートを見つめた。

「……でも、私、本当はまだ迷ってる」

「迷うって、何を?」

 背中越しにティナの声が聞こえる。

「団長のこと」

 じっと枕元のノートを見つめながら、フィラは短く答えた。

「……あの人のこと、信じて良いのかどうか。友達が……ずっと夢だったこと、忘れさせられちゃったから」

「魔法で?」

「そう」

 フィラはノートの表紙と裏表紙をつなぎ止める、鍵のかかった金具に手を伸ばす。

「その夢って何だったの?」

「飛行機だよ。空を飛ぶこと」

 金具の表面をなぞる。冷たい感触に、なぜだか胸が締め付けられるような気分になる。工房の屋上で空を見上げながら、夢を語っていたバルトロの表情を思い出す。夢を忘れてからのバルトロが、あんな生き生きとした表情を見せたことはない。最近ずっと元気がなくて、酒場にもあまり来なくなってしまった。

「空、ねえ……」

 背後のティナがため息をつく。

「そういうことなら、僕はあいつのこと、当面は信じても良いと思うよ」

 やっぱりジュリアンに同調するのは癪なのか、どことなく悔しさのにじむ声でティナは続けた。

「空はね。ちょっと難しいから。……いろいろあってさ」

「いろいろ?」

「それは言っちゃいけないことになってるんだ」

 振り向いたフィラに向かって、ティナはさっきよりもはっきりと悔しそうな調子で答える。

「約束させられたから。ここに来る前、お城で」

「……わかった」

 フィラはもう一度寝返りを打ってノートに向き直り、表紙を撫でてため息をつき、瞳を閉じた。

「好きで禁止してるんじゃないはずだよ。あっちも」

 好意的な意見を述べつつも、ティナの声はやっぱり悔しそうだ。

「……うん。ありがと」

 掛け布団に腕を引っ込めながら、フィラは小さく礼を言う。

「……お礼を言われるようなことじゃ……」

 ティナはため息混じりに天井を見上げ、不満そうに呟いた。

「なんか、複雑」

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