七
気付けば背中のコートを、しっかりと掴まれていた。
相変わらず、暗い世界の隅々まで駆け抜けていくように、寒い風が吹いていた。
もう足の感覚も無くなっていたけど、辛うじて立っていられたのは小父さんが掴んでいてくれたからだった。
「だから、殺したのか」と小父さんが言った。
「うん」
今も、両親だったものは自宅という虫籠の中で、死に絶えているはずだ。腐敗が進んでも、冬の涼しい気温で異臭も発生しにくいと僕は勝手に思っていた。
父だったものは包丁で刺した。きちんと両手で握り、刺しやすい腹部を狙い、体重を乗せて思い切り突き刺した。倒れ込む父だったものを引き摺りだすと、口にタオルを無理やり詰め込んで、ガムテープをぐるぐる巻きに固定した。両手足も同じようにしてそのまま放置した。
母だったものは、父だったものが寝室で死んでいる事を知らずに帰宅して、血に驚いた所を襲った。
ロープで首を思い切り締め付けた。始めは抵抗したけど、意識を失うのを待ってから、キッチンの椅子に丁寧に座らせると首にロープを巻き付けて、正座するように足を縛った。ロープとガムテープでしっかりと固定して、起きるのをじっと待った。
起きてからは簡単だった。母だったものは混乱して自分から椅子から落ちて首を吊った。足が伸びれば助かるほどの低い位置で、僕を見つめた。僕は、痙攣を始めて汚物が撒き散らされるまで、黙って見続けた。
これは、僕の義務だと勝手に思い込んでいたけど、やり遂げた。
「それで?」と小父さんは言った。
「僕は迷った」
「迷う」
「このまま、僕は姉さんを変えてしまった男を捜すのか。大人しく警察に往くのか」
本当なら、すぐにでも警察に行こうと思っていたのに、気付けばこのビルを昇っていた。感傷、なのかもしれないけど、そんなものよりずっと鮮明だと思った。それこそ一字一句と忘れていなかったし、どうやって飛び降りたかも全部、覚えていた。なのに、どうしても僕には解らなかった。
姉さんの気持ちを理解してあげることが、出来なかった。
「本当にそう思っていたのか」
小父さんの堅い声が風に揉まれながら、僕の耳に入ってくるけれど、身体の自由はもう利かなくて、いつ死んでもおかしくはないと思っていた。
「本当に?」と僕は言った。
「お前さんは、逃げ道を巧く用意しただけじゃないかな」
小父さんの空気が変わり、僕の震えが一層激しさを増していくのにも関わらず、僕の両手は、金網の柵をしっかりと握っていた。それも、感覚も消えてしまって真っ赤になっている指先を、しっかりと金網の柵に食い込ませていた。そして、背中は相変わらず小父さんの堅い手で握られていた。
「逃げ道?」
「そうだ」
小父さんは言った。
「お前さん本当に、悲しんでるのか」
その言葉に、僕は少し怒りを覚えた。
「小父さんには判らないよ」
小父さんは、僕と姉さんの繋がりを知らないし、僕の心なんて解るはずも無かった。
「判る判らないの問題かね?」と小父さんは言った。
嘲笑されているような錯覚に僕は声を荒げた。
「僕は、姉さんの事が好きだったんだ。なのに、守ってやれなかった。苦しんでいたのに、相談に乗ってあげる事さえ出来なかった」
「お前さんとお姉さんが恋人関係みたいだったのは判るさ」
「そんなんじゃないよ」
「いや、素直に考えろよ。本当に、お前さんは家族として好きだったのかを」
「何を」
訳も無く僕は、僕自身の震える声に動揺した。
「お前さんは、どうでも良かったんだよ」と小父さんは言った。
「どうでも?」
「そう、姉さんが死のうが死ななかろうが、レイプされようがされまいが、どうでも良かった」
「僕は、姉さんが好きだった。大好きでずっと一緒に居たかった」
僕は大声を挙げた。
「お前さんは、姉さんよりも両親を殺す事だけで頭が一杯だったんだじゃないのか」
「一体、何を言い出すんですか」
空は、未だに雪を降らせようという気配は無いけれど、ただひたすら冷たい風が吹き荒れているだけで僕の身体を凍えさせた。その耳障りな風の音が僕と小父さんの隙間をわざと通り抜けていった。
「何が不満だった」
「不満?」
「愛されなかったのがそんなに辛かったのか」
「辛いなんてものじゃないでしょ。普通は」
「お前さんは、その普通じゃ飽き足らなかった」
小父さんは何を言っているんだ。そんな事、あるはずがないし、僕は姉さんを愛していた。大好きだった。
両親に、愛されていなかった事を言ったのかとも思った。それこそ、僕はもう諦めていたし、今更愛されても逆に困ったはずだ。
「お前さんは姉さんに愛を求めた」
僕の動揺を他所に、小父さんはそう言った。
「何の話です」と僕は呟いた。
「姉さんも判ってくれてたんだろうな。一生懸命演じてくれた。だけれど、我慢できなかった」
僕は初めて、振り返った。
「お前さんは姉さんを愛していたんだと思う。それは本当かもしれないが、姉さんはそういうわけには行かなかった。お前さんからの愛を巧く避けていたんじゃないか」
首を横に回して横目に小父さんを眺めた。
「それに気付いてしまった」
酷く、無表情で冷たい顔をしていた。
「お前さんは、それを知った時、どう思ったのかは知らない。だが、それからじゃないか。本当に、姉さんを愛する事が出来なくなったのは」
鼻水をすする音が聞こえても、小父さんの表情は凍ったままだった。
「意味が判らない」
「本当に、姉さんを愛していたのに、お前さんは途中から、両親を殺す事ばかりを思い描いて、遂には殺すという行動を、実行に移した。理由なんてものは些細で良かったんだ。捕まった時に、少しでも情状酌量の余地があればそれだけで十分だと思っていたんじゃないか」
「貴方に何が判るんですか」
「判らないね。これは、私の単なる想像だ。お前さんと出会ってから考えて来た話」
小父さんは突然、顔を緩めて笑った。
「お前は、両親を愛そうと努力した。本当に、駄目な親だったかもしれないけれど、家族というものは互いに愛し合うものだと、お前さんは思っていたはずだ。だから、学校の授業参観は嫌いだった。本当の両親を見るのが嫌で、自分の両親が学校に来る事もないのを知っていたから」
「家族なんだから、そんなもの当然の努力じゃないか」
視線がぶつかり合っても、そこには熱は感じられなかった。僕の独り言、自問自答のように思えてくるほどに、小父さんは実体が見えてこないのだけれど、小父さんは僕の視線の先に居るのは確かな事だった。
「そうだね」
僕は今、どんな顔をしているのだろうかと、そんな事を気にかけた。
「愛されようとしても、愛してくれなかったのは何故なのかも考えてしまうのは当然だった。そこでお前さんは行き着く。姉さんが居る事に、姉さんは愛されていた。そうだよね。本当は、頭も良くて、活発で明るくて社交的だった姉さんは、学校も家でも皆から愛されていた。だから、お前さんも姉さんを愛した」
「自慢の姉さんだった」
顔を背けるように、僕は金網から視線を外し、外に身体を向けた。
「だから、お前さんは姉さんと同じになりたかった。姉さんと何でも共有したかった。家族以上に親密になれるように。全てから愛されている姉さんを自分のものにすれば、皆から愛される存在になれるのかもしれないと願った」
「僕は、姉さんを愛していた」
「結果は変わらなかった。皆の愛した姉さんはお前の、愛憎に殺されて、両親もお前さんに期待こそすれど、愛しはしなかった。勉強を必死に頑張ったところで、お前さんは誰からも愛されていなかった」
「僕は、姉さんをただ愛したかった」
「お前さんは両親を殺す事ばかりを考え始めたのは何故だ?」
そうなのだろうかと、僕は、本当にそうなのだろうかと考え始めた。
「知ってしまったんだ、何もかも、両親は姉さんですら愛していなかった。ただ、頭の良い娘というだけで将来に期待こそすれど、決して愛してなどいなかった。その証拠に、葬式で両親は泣いただろうか。その後の生活に暗い影を落としたか?」
「両親はただ、役を演じているだけだった」
「許せなかったよな。自分が愛した人でさえ、愛されるべき両親に見放されていたという事実を突きつけられて、やっぱり両親はただ父と母を演じているだけという事を、見せ付けられた。そして、戻った平凡な日常に、今まで以上の閉塞感に苛まれた」
ため息を吐いていた。気付けば、黙って小父さんの言葉に、耳を傾けている僕が居た。
「お前さんは両親を、ずっと両親を殺したかっただけだったんだ。そして、今願いが叶った」
「僕は……」
「お前さんはただ、死ねば良いんだよ」と小父さんは言った。
「そこから飛び降りて、全てを終わらせれば良い。何もかも忘れ去って、姉さんに謝りに行くんだ」
小父さんの声が和らいでいた。
姉さんを愛していた事は真実だった。両親を恨んでいたのも事実だった。だけれど、僕はこのまま、死んで良いのか判らなかった。
見下ろせば、何台かの自動車が過ぎ去って、黒い世界を照らしていくのが見えた。
僕の身体は硬直してしまっていたけど、その硬直は、死が怖いから起こっているのかもしれないし、もう寒くて寒くて、身体がいう事を利かずに固まってしまったのかもしれなかった。
「僕は」
姉さんを愛していた。
小学校の頃からずっと、中学に入って、今でも愛している事に変わりは無かった。
姉さんは僕に言ってくれた。私も好きだと、僕に囁いてくれた。
セックスをしたいと思った事は何度もあるけれど、結局、僕は怖くて抱けなかった。姉さんから手ほどきをしてくれるという事も無かった。だけど、きっとそれで良かったんだと思った。姉さんは抱かれる事だけは咎めていたんじゃないかと今なら、解る気がした。
それでも、僕は今でも姉さんを愛している事に変わりは無かった。
両親の事だって、そうだ。愛されたかったし、愛そうと努力したけれど、僕には何の愛情も注いではくれなかった。姉さんが中学校に入って不良になっていなかったら、僕はもっと早いうちに両親を殺していた。
僕は、やっぱり両親を恨んでいたんだ。だから、殺した。
「耐えられなかったんだ」
「そうだな」と小父さんは言った。
「姉さんが死んだのに平然としている両親と、いつもの朝が耐えられなかった。どうして、両親はあんなにも淡白に、暮らしていけるのか理解できなかった」
姉さんの写真は今でも、僕の部屋だけに飾ってあるだけだ。両親と一緒に撮った写真は一枚も無いけれど、僕と姉さんが写った写真はあった。
「喋っているのに、全てがすり抜けていくんだ。それなら、まだ壁に語りかけた方が良かったかもしれない。話しかけた相手は人間なのに、無機物の壁よりも冷たかったんだから」
「だから、殺したんだろ」
小父さんの声は優しかった。
「それで良い。お前さんは十分にやったんだ」
「姉さんは、愛されていない事を知っても、生きていこうとしていた。だけど、両親は姉さんを見ようとしなかった。寮へ移って清々したとさえ思っていたんだ」
姉さんは死んだ。それは事実なのに、肝心なものが出てきていなかった。
僕は気付いていたはずだ。どうして、姉さんは飛び降りた?
「姉さんは、何故死ななければいけなかったんだ」と僕は呟いた。
「姉さんは、死にたかったんだよ」
「死にたかった?」
「両親に愛されていない。そして、お前さんの愛に押し潰されたんだ。お前が姉さんを死に追い遣ったんだ」
小父さんは優しく僕に語り掛けてきた。
「僕の責任」
「そうだ」
「僕は、死ぬしかないの」
「死んで、謝ってくれば良いだけの話だ」
どうしてか、疑問が沸いて出てくる。とても、大事な事を忘れようとしていた。
「姉さんは、泣いていた」
「悲しんでいたんだろう」
「姉さんは、笑っていた」
「お前に最後を看取ってもらえたからだろう」
なんだ。
それは、なんなんだ。僕はそう呟いていた。
全然、意味が分からなかった。
「どうして」
「何?」
小父さんの強張った声が聞こえた。
「間違ってる」
「間違っていない」
「僕は姉さんを殺していない」
「お前さんが追い詰めたんだ」
「どうして、姉さんは僕に背中を押してと言ったの」
「お前に殺して欲しかったからだろ」
「どうして」
「愛していたからだ」
「なら、どうして死のうと思ったの」
「お前の愛に押し潰されたからだ」
意味が解らなかった。
「違う」
「何が」と小父さんはイライラと声を出した。
「姉さんは、僕の責任で死んだわけじゃない」
「今更、何を言っている」
「姉さんは、必死に生きようとしていた」
姉さんは、両親に愛想を尽かしていた。
僕が必死に両親から寵愛を授かろうとしている最中、姉さんは一人で生きていこうと、決心していたんだ。
そこに、どんな思いが込められていたのかを、知る術はもう無いけれど、姉さんは中学校の終わりには、綺麗さっぱり不良活動を休止して、勉強にどっぷりと浸かっていたんだ。
毎日、勉強して、必死の思いをして今の生活から抜け出せるのを目標に、寮生活が出来て、将来の事を考えて進学校へ入学した。有名大学への入学者も出す学校に行った姉さんが、そう簡単に死ぬなんてありえないんだ。
姉さんは、自由に生きようとしていた。だから、一人暮らしを始めたんだ。
それなのに、僕を気遣ってくれていた。僕に勉強を教えて、僕に生きる道を指し示してくれた。
私と同じところに来なさいと、言ってくれた。だから、僕は努力して姉さんと同じ学校へ入学を決めた。成績は絶対に危ないだろうけど、後ろから数えた方が早いかもしれないけれど、それでも姉さんと一緒なら頑張っていけると思った。
姉さんが大学に行けば僕も大学に行ったはずだ。きっと姉さんは同じ大学に来なさいと誘ってくれたかもしれないけど、僕はその時こそ、断ったはずだ。
「僕は、一人で生きていく。姉さんも、姉さんだけの人生を生きて良いんだ」と僕は呟いた。
「は?」と小父さんは呆れた声を出した。
「僕は、姉さんに恩返しをしたかった。だから、高校を卒業して大学に進学する時、きっと僕は姉さんと違う大学へ行くと姉さんに言ったはずだよ。姉さんはもう僕の事を考えなくて良いんだと胸を張って言える時だと思ったから。姉さんにはっきりと言うつもりだったんだ。ありがとうって。姉さん、今までありがとう。だから、姉さんは本当に、姉さんだけの道を歩んで良いんだって」
「何を言っている?」
「姉さんは、何故自殺したのかを調べなければならない」と僕は言った。
「お前が殺したようなものだろ」と小父さんは言った。
「違うよ。だから、僕は警察に出頭する。全部の罪を償ってから、僕の人生を賭けて、姉さんを救い出す」
それが、今の僕に出来る事だと思った。
姉さんが死ぬことを覚悟した時、どうして僕と一緒にここへ来たのかを理解したように思えた。
姉さんもきっと、僕を愛してくれていた。僕だって、愛していた。それでも、姉さんは僕の見えない、僕の知らない僕までも愛してくれていたに違いないと、今なら思えた。
それなのに、僕の前で笑って、僕の前で泣いて、僕の前から居なくなってしまった。
それは、何故だ?
死ななければならないほどの出来事を体験したからに他ならないんだ。
「お前さん、それ本気で言っているのかい?」と小父さんが言っていた。
僕は、固まって動かないと思っていた身体を思い切り、反転させた。
小父さんの手から背中を引き離し、金網の柵をしっかりと握りなおして、小父さんを真正面から見つめた。
小父さんの顔を強張っていた。寒さからか、きっと僕の顔も強張っているだろうし、青白く気味が悪いからかもしれなかった。
「姉さんがどうして死ななければならなかったのかを調べる」
「姉さんはお前さんが殺したようなものだ」
「違う」
「違わない」
「じゃあ、何でだ」
「それを、これから調べていく。だから、警察に行って両親を殺したと言って逮捕される」
「本当に」と小父さんは言った。
「それでいいのか」
僕は頷いた。
「もう決めた」
「そうか」
小父さんはそう言ってから、上を見上げた。僕も釣られて空を見上げると、どんよりと垂れ下がる鉛色の雲間から、白い粒がひらひらと落ちてきていた。
「雪だな」と小父さんは言った。
「そうですね」と僕は返した。
「あの時と同じです」
「そうか」
小父さんの顔は笑顔だった。
「もうコートは必要ないよな」
「お世話になりました」と僕は言った。
「気にするな」
僕はコートをその場で脱ぎ始めたのは、今すぐ返した方が良いとなんとなく思ったからだった。
小父さんは微笑みながら、コートを受け取って小脇に抱えた。その顔は、とても安らかに見えて、僕はなんだか嬉しかった。
話して良かったと思えたのは、きっと僕のやるべきことが見つかったからでもあり、姉さんへの思いが本当だった事を、改めて実感することができた。
僕は、生きる意味を見つけていた。両親だったものを殺した事に後悔なんて微塵も感じないけれど、僕は生きるために警察に行って刑に服す決意を決めたのは、殺す相手を絶対に許さないと決めたからだ。
遠回りだと思うけど、姉さんはきっとそれでも許してくれるだろうと勝手に思うことにした。ケジメをつけろと怒られそうだと思ったのは僕だけの秘密にしながら、金網を昇ろうかと思った。
手が悴んでいて、感覚が消えていた。
「じゃあな」と小父さんが言った。
空は、あの時と変わらず、不機嫌な顔をのように曇り空で、その隙間から風に揺られる雪たちが、ゆらゆらと舞い降りてきていた。
僕は、目を閉じなかった。
ただ、空を見つめて流れるほんの数秒だけ、姉さんが見たのはこんな景色だったのかと思っていた。
小父さんは笑っていたのだろうかと考えたけれど、結局のところ、最後に見えたのは、小父さんの右手だけだった。
僕は、僅かばかりの街灯が照らす真っ黒なアスファルト目掛けて、重力に引かれて落ちていった。
(了)




