五
コンビニで待っていたのは確かに姉さんだった。店内の雑誌売り場でファッション雑誌を読んでいる姿を、僕は駐車場から見つけていた。
「一時間以内にはまた電話すると思います」
タクシーの運転手さんにそう言うと、僕は店内に入って姉さんに近づいた。それは何処からどう見ても姉さんだった。だけど、姉さんに思えなかったのは何故だろうという疑問が浮かぶのを振り払うかのように、勢い良く店内に入った。
アルバイト店員らしい男の人がレジカウンターから気の抜けた声と、訝しい顔を向けられるという嫌な歓迎を受けながら、姉さんの元へ向かい、声を掛けた。
「お待たせ」
「遅い」
「何読んでるの?」
「流行り物」
そんな他愛も無い会話をしながらも、僕は姉さんを観察した。けれども、何がおかしいのか良く判らなかった。
「何か買う?」
「ココアかコーヒー」
「奢ってあげる」
「ゴチになります」と僕は言った。
姉さんも笑った。だけど、僕の疑問は消し去れないままだった。
何かが変わった気がしたのに、その何かが判らなかった。変わった所は沢山あるけど、髪の毛は黒に戻っている事も、化粧も薄化粧になった事も今に始まった事じゃなかったし、服装も今は茶色のコートと赤いマフラーをしているだけで別段奇抜でもなかった。
カウンターでコーヒーを二つ手にとって、小銭を出していく姉さんの仕草も、特に変わりは無かった。
「何」
「別に」
僕の観察眼に気付いたのか、訝しげにこちらを見てきたけど、僕は自然を装ってコンビニにある時計を見た。
もうとっくに日が変わっていた。
外に出ると寒い風が吹き荒れていた。その中で、僕と姉さんは黙ってコーヒーに口をつけていた。
姉さんの買ったコーヒーは苦くて、僕の口には合わなかったけど、姉さんが奢ってくれたものだし、何よりも寒かったから、僕は黙って飲み続けた。
「ありがとう」
姉さんはそう言った。
視線を向けたけど、姉さんはこちらを見るわけでもなく、力無い微笑を浮かべていた。
「どういたしまして」と僕は言った。
「両親から着信が六件来たけど、無視したらもうかかってこない」
「所詮、そんなものよ」
「そうかもね」
「そうよ」
「うん」
「ねぇ」と姉さんは言った。
「何?」
「付き合うって何だろうね」
藪から棒に姉さんは口を開いた。
「いきなりだね」
「そうよね」
厄介ごとだと思っていたけど、姉さんの顔は酷く疲れていたから、なんとか力になってあげたかった。
「元彼氏?」
「違う」
「面識はあるのに判らない?」
「視線を感じるだけ」
違和感が凄かった。僕は今、本当に姉さんと会話しているのか判らないと思ったほどのおかしさだった。
言葉全てが、全部用意されている気がした。
「今は?」
「大丈夫かな」
「ふぅん」
僕は聞けなかった。だから、僕は思わず減らず口をたたいた。
「何よ」
「女の子だって気がした」
「失礼な事を言うわね」と姉さんは笑った。
僕も笑った。だけど、すぐに姉さんは真剣な顔になっていた。
「行きたい場所があるんだけど」
「ここから遠い?」
「歩いて行ける」
「なら行こう。行きたいなら付いて行くよ」
姉さんの好きなようにさせたかった。そうしないと、姉さんは姉さんで無くなってしまうような、怖さがあった。
「ありがと」
「姉さんの頼みだからね」
「本当、生意気な弟になったわね」と姉さんは言った。
「良い師匠に出会えたからだよ」
「誰の事かしら」
「誰の事かな」と僕は言った。
前を歩く姉さんの背中を見つめる。連れ添って歩く事は久しぶりだった。
何年も会っていないような錯覚に襲われているのに、それが判らずにただ歩いて目的地を目指した。
暫くの間、沈黙が続いた。姉さんは少し喋りたそうな事があるかのように、小さく顔を挙げたり下げたりしていたけれど、結局喋り出す事は無かった。
代わりにとは言わないまでも、僕はその沈黙を破るために、日常生活の説明を始めていた。
合格が決まるとやっぱり、姉さんの時みたいに先生たちが掌を返した事、クラスメイトや同じ学年でいつのまにか、知り合いが増えていた事、三人の女子から合格後に告白されてフッた事を始めに話した。それから、父が愛人と喧嘩してその愛人が自宅まで押しかけてきた事、母はそれを知りながらも見なかった事にして、いつもの日常と男漁りに勤しんでいる事と、本当に他愛も無い僕の日常をひたすら話した。だけど、帰ってくる返事は曖昧で気の抜けたものばかりだった。
うわの空という言葉をこういう時に用いるんだという例を、見せられている気分になった。
そう思っている内に、姉さんがある建物の前で立ち止まった。
「ここ?」
「ここ」
雑居ビルだった。
姉さんは堂々と正面から建物内に入ると、慣れた様子で階段を上がり始めたので、僕は無言で後に続いた。
何故、簡単に入り込めたかは、深く考えないように努めながら、僕は階段をひたすら上を目指して昇っていった。
エレベーターがあったけど、姉さんが使わなかったので、僕一人で乗るわけには行かなかったし、乗ろうよ、と声を掛ける事も出来なかった。
草臥れた建物内の階段は、外に突き出たような作りで、壁の代わりに鉄柵だった。風の冷たさに身を震わせながら、小気味良く反響する二人分の足音と、吹き抜ける風の音が世界の全てだった。
僕は、前を歩く姉さんの背中を見た。しっかりとした足取りで階段を昇る姉さんを見ていると、僕は不安に押し潰されてしまいそうになった。
息が乱れ始めた頃に、ビルのどん詰まりまで上り詰めることに成功した。
目の前には鉄の扉が侵入を拒むかのように閉じられて、錆びた色が歴戦の戦士を思わせる容姿を作り成していた。
「開けるの?」と僕は言った。
「開ける」と姉さんは言った。
「鍵が付いているわけじゃない」
何故、そんな事を知っているのかを聞く前に、扉は錆びている割りに音も小さく開かれた。
その空間は酷く殺風景で、何より強い風が吹いていたので、寒くてこの場に長居はしたくないと思った。
暗い夜空に鉛色の分厚い雲が覆いかぶさってくるように見えた。
「ここに何の用?」と僕は言った。
「何でだろうね」と姉さんは言った。
一歩ずつ歩きながら、ゆっくりと喋っていた。
「決心が付かなかったの」
「何の」
「でも、すっきりしたかもしれない」
「どうして?」
要領を得ない言葉ばかりだったけど、僕はなんとか相槌を打てていた。
「両親は変わっていないのね」
「うん」
「別れもせずに何をやっているのかな」
姉さんは鼻で笑った。
「演じる事が日常過ぎて、離婚するのも面倒だからじゃないかな?」
両親は何一つ変わっていない勝手な理由を僕は喋ってみた。けれども、それが今の姉さんを変える事になるとは思えなかったし、僕は姉さんが何をしたいのかをなんとなく理解してしまった。
「趣味は合いそうよね」
「男漁りと女漁り?」
姉さんも僕も変わることができたのだから、あの二人だってきっと変わることができるはずだった。その機会は何度無く訪れたはずなのに、二人は諦めていた。もしくは怖がっていた。そう思えるほどに、二人は変わる事を拒絶していたんだ。
姉さんは、そんな二人をどう思ったのだろうかなんて、場違いかもしれない考えが浮かんでは消えていった。
「お似合いね」
今、目の前で僕に背中を見せて、寒さに震えている女性は一体誰なんだろう、僕はそんな疑問に苛まれた。
姉さんはこんな空気を持っていたのだろうかと、思って手を伸ばそうとした。けれど、手はまるで僕の腕じゃないみたいにいう事を聞かなかった。
「どうしたの?」
代わりに僕は、声を出した。
「馬鹿」
「ごめん」と僕は言った。
いつもの姉さんで、いつもの明るい口調だったのに、姉さんはもう姉さんじゃなかった。
「私が死にたいって言ったらアンタはどうする」と姉さんは言った。
「止めたい」
即答した。そうしないといけなかった。
「ありがとう」
金網に手を掛けた姉さんを、僕は何故か止める事が出来なかった。それどころか、一歩も動く事が出来なかった。
「でも、無理なのよ」
音を立てて、金網を昇って向こう側の世界へ降り立つ姉さんに僕は声を掛けた。
「理由を聞かせて。僕が何とか出来るかもしれない」
「だったら、もう相談してる」
「聞いてないのに理解なんて出来ない」
「あっ、雪だ」と姉さんが言った。
姉さんの周りを雪が舞い始めていた。
強い風が姉さんの髪を揺らす。雪も同じように揺られていたけど、やがてはコンクリートに着地して溶けていき、染みを作っていった。
「姉さん」
「ねぇ、セックスって何だろうね」と姉さんが言った。
「わかんない」
突然の言葉に僕は混乱した。何を伝えたいのかを必死に考えてみた。
「経験ない?」
けれども、判るはずも無かった。姉さんは僕に伝えようとしながらも、絶対にそうすることを拒んでいた。
「あるわけないよ」
どうして僕が動けないのか、解らなかった。助けに行けるのは僕しか居ないのに、どうしても動けなかった。
固まった足に震える唇の先には、揺らめく黒い髪が金網ごしにあって、荒々しいのに、綺麗だった。
「姉の私が言うのもなんだけど、アンタ結構かっこいいと思うけどな」と姉さんは笑った。
「知らないよそんなの」
「セックスってね。気持ち良いと思う?」
「だから知らないって」
僕は声を荒げた。
「全然気持ち良くないの」
けれども、姉さんには僕の声がもう届いていないようだった。
「何を言い出すの?」
「気持ち悪い。ただ、気持ち悪いの。男がただの支配欲だけで女を組み敷いて、優越感と興奮と快楽がごちゃまぜになった恍惚としたムカつく顔をするだけで、こっちの気持ちを考えもしないで、独りよがりで気持ち良くなって終わり」
訳が判らなかった。
僕には姉さんが何を言おうとしているのかを、理解する事が出来るだけのセックスに対する知識と経験が無かった。
姉さんの声は、掠れていた。もう、戻れない所まできていた。判ってしまった僕自身を恨んだけれど、どうする事も出来ない事は判った。
「こびり付くのよ。忘れられない。まるで、網膜に焼印を押されたように、ずっと纏わり付く。もう無理なのよ、何度も忘れようとしたけど、もう無理なの。自由になりたくて、不良になろうとした。いっそ施設にでも放り込んでくれた方が良かった。だけど、両親はそれをしなかった。だから私は必死に勉強を始めた。高校も遠い寮生活出来るところ選んだし、そこなら国立だって頑張れば狙えるところだし、頑張ればそのまま大学先で仕事を見つけて、結婚もして」
姉さんは泣いていた。
背中を向けているけれど、泣き声になっていることではっきりと判った。
姉さんは努力した。必死に抜け出そうとしていたことを僕は知っていたし、応援もした。それに、僕を変えてくれた事に感謝もしていた。だからこそ、辛かった。だからこそ、戸惑った。
「頑張って、頑張って。その先に自由があると思ってたのに。全てを奪っていったのよ」
「誰?」と僕が言った。
「誰が奪ったの?」
「知らない」と姉さんは力無く答えた。
その日は一際寒い風が吹いていた。
ひらひらりと雪を舞い散らしながら、静かに降っては溶けていく中、徐々に染みの無いコンクリートの方が少なくなっていった。雪は勢いを増して降りかかってきた。
姉さんは全てを飲み込んだ。全部、持って行くつもりだった。だったら、どうして僕を呼んだ。助けて欲しかったと縋ってくれたわけじゃなかった。それが、何よりも悔しくて、何よりも悲しく僕の胸を締め付けた。
僕は、何故、ここに立って、姉さんの背中を見つめているんだ。何故、立ち尽くしたままで居られるんだ。
「一緒に来る?」と姉さんは言った。
甘美な響きに聞こえるほどに、艶やかな音色を聞いた。
「どうしても、消えないの?」
「無理よ」
「判らない」
「無理なのよ」
「嫌だ」
僕は叫んだ。
「お願い」
「嫌だ」
「背中を押して」
優しい声で、懇願された。
「嫌だよ」
「最後のお願い」
「死ぬなら勝手に死ねよ」
どうして、死ななければならないのかを絶対に教えようとはしなかった。それは何故なのかを僕は理解できなかった。
何よりも、どうして僕は一歩も動くが出来ないのか判らなかった。どうしても、助けたいと思っていたのに、動けなかった。
「お願い」
「死なないで」
泣いていた。
姉さんは泣いていた。
どれだけ、やり取りをしたのかわからないけど、僕は一歩も動かなかった。それどころか――僕は泣いてすらいなかった。
「頑固者」と姉さんは小さく呟いた。
僕は、どうして悲しいのに涙を流す事すら出来ないのか解らなかった。悲しんでいるはずなのに、何かがおかしかった。
「良いよ。頑固者で」
「でも、良かった」
姉さんは笑った。
「ありがとう」
下を覗く事は、できなかった。