四
あれから、姉さんは何事も無く高校に入学し、寮から通学を始め、それなりの交友関係を持ちながら、高校生活を満喫しているようだった。
寮の規則は厳しいけれど、とても楽しいと言っていた姉さんの声は、本当に生き生きとしていて、僕までもが嬉しい気分になった。
僕は、姉さんに短い間だけど、勉強を教わったお陰か、それとも、元々優秀な頭を持っていたのか判らないけれど、とにかく成績がぐんぐん伸びて、ちやほやされるようになった。
最初は、物凄くストレスを感じたし、姉さんに電話越しで愚痴を聞いてもらった事が増えたけれど、今ではその生活にも慣れて、それなりに面倒臭いと感じつつも楽しい中学校生活を送れたと振り返る事もできていた。
姉さんと同じ高校へは、ギリギリだったかもしれないけど、とにかく合格できたし、先生達も、両親も喜んでいた。何より、僕も頑張った甲斐があった。これで、姉さんに胸を張って会いにいけるはずだと思った。
僕の学校生活は大きく変化したけれど、家に変えれば息子という役割を演じる日々に変化は無かった。それこそ、両親を演じている二人が変わるわけでもなく、会話上では僕の成績や行いを褒めてくれた。
それだけだった。それ以外に、何も望んではいけなかった。
どうして、僕の目の前で、二人は同じ食卓に着いているのか判らなかった。姉さんの話題は何一つ挙がらなければ、会話らしいものも上っ面の事だけだ。
学校はどうだ。職場はどうだ。
休日はどこかへ出かけようかなんて事もなく、まして、姉さんに会いに行こうなんて会話が挙がる事などありはしなかった。まるで、姉さんという存在が始めからなかったかのような振る舞いに、僕は今まで味わった事の無い気持ち悪さに襲われた。
同じ話が繰り返されるだけで、何の進展もない会話がお経のように毎日続けられているこの食卓はどう見たって異常だった。
慣れたと言えばそうだけれど、それはきっとこの閉塞感ではなくて、両親だと言い張る二人との共同生活に慣れたという事だと僕は思い知った。だからこそ、僕は三人でリビングに居る事に違和感と不快感を同時に味わったし、できる事なら食事だって一緒にしたくは無かった。
ある意味、ある意味で僕は勉強に集中する事ができたのはこの異様な環境だったかもしれなかった。部屋に篭り、難解な数式から、暗号文のような国語の問題を解き明かしていくという戦いが、僕にとって二番目に、安らげる時間となっていたからだ。
姉さんが高校に通うになってから、僕は携帯電話で連絡を取り合い、会話をした。両親に駄々を捏ね繰り回して買ってもらった物だ。僕の人生で尤も駄々を捏ねた瞬間はこの時だったと言える嫌な自信があった。
電話やメールという間接的な交流から、改めて姉さんが両親を嫌っていた事を知る事ができた。何より、僕が姉さんを好いていたと良く判った。
電話で姉さんの声を聞くのが嬉しかったし、メールのやり取りも楽しかった。多くは無かったけど、多くないからこそ、本気で悩んでメールの文章を練ったりもした。
姉さんに呼び出されたのは、僕の合格発表を報告した次の日だった。一週間ほど僕は姉さんと連絡を取れていなかったから、夜中に携帯が鳴った時は、少し嬉しかった。
僕は、ベッドに入って夢うつつだったけれど、姉さんからの着信音で眠ることも無く、電話に出る事ができた。
「どうしたの」
こんな夜中に、なんて続けようとしたけど言葉が出なかった。
「おめでとう」と姉さんがいつもの明るい声で言った。
「ありがとう」
まだ眠かったけど、変に目が冴えてしまったのは姉さんの明るい声が、何故か強がっていて、酷く寂しそうに聞こえたからだった。
多分、姉さんも気付いていないほどに些細な変化だったのかもしれないけれど、僕は長年付き合ってきているから、その変化に気付けたのかもしれなかった。
「どう、気分は」
「別に、普通だよ」
「なんだ。愛しい私の元へ来れるのよ?」
ちょっとだけ心臓の音が跳ね上がった。
「今は、苦労が報われた事に対する安堵しかないかな」
「つれないわね」
「眠いのは確かだよ」
「明日、会いに来ない?」と姉さんは言った。
時計を見るともう十一時を回っていた。
「明日?」
父も母も未だ家に帰ってきては居なかったけど、それは僕にとって日常で、特に気に留めるものではなかった。
それにしても、突然過ぎて僕は困った。お金も無いし、電車で行くにしても、学校を休む必要があった。
「タクシー代や電車賃くらい出すわよ」と姉さんは言った。
「行くのに、お金が無いよ。二人にお金を貰えるなら、行くと思うけど」
二人が僕に、お金を貸し与えてくれるか判らなかった。
「やっぱり、そうだよね」
姉さんはため息を吐き出した。
「どうしたの」
心配になった。いつもの姉さんじゃなかったから凄く心配になった。
僕はふとんを押しやって、ベッドを椅子代わりに座った。きちんと腰を落ち着けて話さないといけない気がしたのは、きっと僕の中で、これは深刻な話を抱えているんじゃないかという妙な考えが浮かんできていたからだった。
「ちょっとね」
「電話じゃ言えない?」
「難しいわね」
「なら、無理に聞かないけど」と僕は言った。
間が開いた。だけど、姉さんのため息が電話ごしに聞こえた。
「ストーカー」と姉さんは言った。
「何?」
「付き纏い」
「誰が」
「私が」
「告白の練習くらいは喜んで受け持つよ」
正直、焦っていたのを隠すのに必死だった。
「馬鹿」
不機嫌そうに姉さんが言った。その言葉に、僕は安堵と不安がごちゃ混ぜになった声が出た。
「されてるの?」
「そうだったら、どうする?」
困った相談を受けてしまったと僕は思った。
「警察には行った?」
「まだ」
「なら、早めに行った方が良いよ。相談だけでもした方が後々面倒になっても対処してくれやすいと思うし」
「そうだよね」と姉さんが言った。
言い澱んでいる気がしたけれど、違う気がした。
「不味いの?」
「ほら、私色々と悪い事したでしょ? 変に学校で噂が沸いても困るかな」
「そうかな」
「そうなのよ」
違和感があった。姉さんらしくはないし、どこかよそよそしい気がした。
「それで、僕にどうしろと?」
「ボディーガードでも頼もうかな」
姉さんは力無い声で笑っていた。
「あと一月くらい待ってくれると助かるけど」
「だよね」
「うん」
「ごめん。こんな時間に」
いつもの姉さんはこんな会話をしないし、好まない。何でも即決し、やると決めればまずは行動してみるのが姉さんだった。
「大丈夫?」
「何よ今更」
「警察に電話しなよ。今からでも、誰かに見られているとかでもいいから」
「嫌よ。それにここは寮なのよ?」
寮でも電話するくらい良さそうな気もするけれど、寮に住んだ事の無い僕の知らない事情があるのかもしれなかったので、ひとまず相槌を打った。
「それもそうか」と僕は言った。
「そうよ」
「何かあったら、すぐ電話して」
「ありがと」
僕は部屋の壁に飾ってあるカレンダーを眺めた。
薄暗い中でも、日曜日は案外と、見えた。
「明後日、そっち行くよ」
「良いよ。無理しなくて」
「行く。下見って言えば親も電車代くらいは出してくれる」
姉さんに会いに行くなんて言わなければ出してくれそうな予感はあったけれど、勘でしかなかった。
僕の言葉の後には、妙な沈黙が流れた。何も聞こえてこないほどに静かさが電話越しに存在していた。
「判った。待ってる」
「うん」
電話を切ってから、僕は一睡もすることが出来なかった。
あんな電話をされて、安眠できるはずもないと少しだけ怒りながら、両親の帰りを待った。
どっちでも良いから早く帰ってきて欲しいと、今までの人生でここまで両親の帰宅を待ち望んだ事は無いという悲しい確信があった。
とにかく、僕の腹は決まっていた。
僕は、両親が別々の時間帯で帰宅するのを確認してから、小遣いをせびって家を飛び出した。
両親は何度も僕の携帯に電話を掛けたが、一切出ずにタクシーを捕まえて僕は姉さんの元へ向かった。
一回目の電話を掛けても姉さんは出なかった。二回目も出なかったけど、三度目でようやく電話に出た姉さんは、疲れたような声を出して「はい」と答えた。
「今、時間ある?」
「どうしたの?」と姉さんは言った。
「向かってる」
「何処に」
声が変わった。それは何処か嬉しそうで、苦しそうだった。
「そっちに」
「馬鹿」
「馬鹿でもいい」と僕が言った。
姉さんはそれから一分くらい間を開けて喋りだした。
「寮の近くにコンビニがあるの。そこで会いましょう」
「後一時間もすれば着く」
「掛かりすぎ」
姉さんは笑った。
「交通ルールは守らないと」
「それもそうね」
「近くになったら、また電話して」
「判った」
タクシーの運転手は世間話を振ってくる事は無かった。
僕の年齢と電話の会話内容から、色々と想像して口を挟まない事に決めたのかもしれなかった。だけど、その判断に僕は感謝した。とても今の状態では、タクシー運転手と他愛も無い世間話ができるほど、僕の心は落ち着いていなかった。




