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 学校の帰り道だった。

 姉さんが中学三年生で僕が一年生だった。

 僕にとっては当たり前だと思っていた事が、どうやら、学校としては珍しかった事のようで、暫くの間、俄かにざわめき立つ学び舎へ登校する事になっていた。卒業を控える三年生、その中で話題に挙がっていた人物が姉さんだった。

 今まで、部活動で沸いた事があったようだけれど、学業でここまで騒がれた事はなかったそうだ。

 素行不良で何度も補導され、生活指導されていた姉さんが、県下有数の進学校への入学を決めたからだ。

 今まで、僕の居る学校からその進学校に行った人は両手に納まる程度だと、母校で教鞭を揮っている僕のクラスの担任が言ってきた。

 その顔は、あからさまに僕への期待が込められていて、迷惑極まりない事だったけれど、我慢できないほどではなかった。

 姉さんの合格が知れ渡ってから、学校は俄かに騒々しく揺れていた。どうして、ここまで騒ぎ立てる事が出来るのか僕には判らなかったけど、姉さんはその全てを受け止めているようだった。今までの付き合いづらさは影を潜め、クラスメートでは笑顔が見えて、皆に優しく、先生受けも良くなった。姉さんはきっと、変わろうとしているんだという事が良く判った。他人から見ても、不良が優等生になったのだから、そう思うのも不思議じゃないけれど、僕からすれば、少し意味合いが違って見えていた。

 とにかく、姉さんの下駄箱にラブレターが入るようになったし、先生もやたらとおべっかを使い始めた。

 僕にも、その余波がやってくると、学校に行くのが少し面倒臭く思うようになった。今まで、注目されてこなかったのが、普通で当たり前だったから、皆からの質問や会話に気分が悪くなっていた。

 先生の掌返しを適当に避けながら、姉さんは「帰ろう」と言って、そんな状態だった僕を教室から連れ出したのは、僕のクラスでホームルームが終わった直後だった。

 皆からの視線が恥ずかしかったけど、姉さんはそんな事に構う人じゃない事は良く判っていたから、僕は大人しく手を引かれて教室を後にした。

 下駄箱にまたラブレターが入っていたらしいけど、姉さんはそれを破って、近くにあったゴミ箱に捨てていた。

 いつもの通学路を久しぶりに姉さんと二人きりで歩いていた。これまで何かと渦中にいた姉さんを僕は遠巻きに眺める程度だった。勿論、僕にも被害はあったけど、姉さんに比べればどうってことなかった。

 だから、僕は姉さんと登校することはあっても、下校する事はめっきり減っていた。

 僕と姉さんは横並びに歩いて、少しだけ姉さんが前を歩いていたから僕は肩越しだったけど、その横顔を眺めてみた。

 どういう意味で、あんな暴挙をしたのか知りたかった。姉弟という事は知られているけれど、手を引っ張って出て行ったという事実で、僕は明日から暫く友達と称する人々から質問攻めにされる事は半ば確定事項だと考えていたからだ。

 憂鬱になりながらも、僕は黙々と歩いた。

 校門を出ても、姉さんは僕を連れ出す時の一言以来、喋らなかった。

 淡々と過ぎ去っていく景色と、車道を走り去る自動車に視線を向かわせながらも、僕はその沈黙に耐えようか迷っていた。誘ったのだから、姉さんには何か僕に話すことがあるのだろうとは思っていたけど、どうやら、姉さんも迷っているような気がした。

 町の喧騒が、いつもより大きく聞こえて、僕は変な脅迫観念に襲われた。元々、ちっぽな存在だった僕がもっと小さい存在になって、それこそ小人みたいになってしまうのではないかと、漠然ながらそんな考えが浮かんできた。

 何処かで、自動車のクラクションが鳴っていた。

「姉さんがここまで勉強出来るって知らなかった」

 沈黙に耐え切れなくなって僕は、急かされても居ないのに慌てて声を出していた。

「今度、勉強教えてよ」

 僕は何かに焦っていた。それが、姉さんによるものなのか、僕自身によるものなのか、はたまたこの町が僕を急かしてくるのかは判らなかった。だけど、僕は努めて明るく喋っていたし、心なしか口早だった。

「小学校の頃は良く教えてもらっていたけど、やっぱり中学の勉強は難しくなってくるから、姉さんに教えてもらえたら、僕も今よりは成績が上がるんじゃないかなって思って。ほら、元々勉強が出来るわけじゃないし、中学入ったからには少し、頑張ってみようかなって」

「今のままで楽しい?」

 姉さんは僕の早口言葉みたいな喋りの一切を無視して言った。

 何の事を言っているのか良く解らなかったけれど、僕の会話が悪かったわけではないようだった。

「どうしたの?」

 僕は姉さんの横顔を見ながら言った。姉さんは無表情と言うよりは時折吹く、冷たい風に嫌気が差しているのか判らないけれど、顔が堅い印象を僕に持たせた。

「今の生活を楽しいかと聞いているんだけど、どうなの」

 顔と同じように堅い口調だった。

 一気に張り詰めた空気が、世界を包み込んでいくようだった。

「学校生活は楽しいよ。友達だっているし、先生だって眼を掛けてくれてる。姉さんのお陰だよ」

 嘘を付いた。

 姉さんが進学校行きを決めてから、やたらと先生方から指導を受ける事が増えていた。それに、友達も何かと増えた。浅い付き合いに変わりは無いけど、居ないよりかは居た方がやっぱり楽しいという思いは確かにあった。だけど、やっぱり嫌だった。

 僕を本当に見ているか判らないし、僕は僕でこれまでの生き方と、今の状況を比較してみたけど、どうしたって合わないと思っていた。

「家は」と姉さんが言った。

「満足なの?」

 姉さんは僕を見ず、ただ真っ直ぐと帰り道の先に顔を向けたままだった。

 僕は今までの生活を思い出してみようと、視線を道路に落とした。考えたところで今までの家庭生活を満足なのかどうかと言われれば『NO』だとも言えるし、『YES』だとも言えた。どちらの答えも正解だと感じている僕が居て、どうにも発言に困ってしまった。

 姉さんは考える僕に口を挟む事はせずに、黙って歩いていた。

「両親が離婚して、お母さんと二人で暮らしている健太君っていう、僕の友達が居る。それから、お父さんの顔を知らない女の子を僕は知っている。だから、満足と言えばそうだと思う、かな」

 僕は、考えに考え抜いた答えを喋りきった。納得できる答えではなかったけど、これが一番無難だと思った。

「客観的に物事を見るのは止しなさい。今の生活、疲れないの?」

 姉さんはため息を盛大に吐き出していた。どうやら、正解ではなかったようだ。何よりも、両親が演じている事と、僕が息子を演じている事について、言われている事は良く判った。

「慣れたのかな」

 本音だった。僕にとって、今の生活は慣れてしまっていた。姉さんには判らないかもしれないけれど、僕にとってはもうこれが日常になってしまっていた。

「だから、本当はどうしたいかを聞いてるの」と姉さんはイライラしたように言った。

 判らない、それが本当の事だった。だけど、口から出る事は無かった。

「姉さんはどうしたいの」

 答えに詰まったと思われたくなかったのもあるけど、僕は、姉さんの回答に興味があったから、逆に問い掛けてみた。

「変えたい。いえ、逃げ出したい」

 姉さんは、はっきりと言い切った。

 なるほど、僕はそう小さく呟いた後、姉さんの一瞥に気が付いて目を合わせた。

 じっと見たことが無かったけど、真っ黒な瞳がキラキラと輝いていた事を知った。その顔と瞳を見つめていると、僕がキザったらしい事を言うなら、宝石みたいに綺麗だと思った。口には当然、出さなかったけど、とにかくふとそう思って、僕は視線を外した。

 その事を気にする様子も無く、姉さんは口を開いた。

「だって、息が詰まるじゃない。気持ちの悪い低レベルな演劇を、毎日見せつけられているのよ? ただでさえそんな日常にうんざりしているのに、中途半端な演技のうえ、中途半端な隠ぺい工作。何がしたいのって思わない? そんなに隠したいなら、きちんと隠せば良いじゃない。あれじゃ、見せ付けられている気がして、私は耐えられない」

 その言葉に、姉さんは中学に入ると羽を伸ばした鳥のように自由を満喫しようとしたわけだった事を知った。

「だけど、やりすぎじゃない?」と僕は言った。

 補導された回数は両手に収まりきれないし、学校に両親が呼び出された回数も同じくらいだ。その問題児たる姉さんを三年間、面倒を見続けた義務教育は凄いと思うし、これだけ振り回されても、親を演じ切った父と母には変な感心すら覚えていた。

 僕なら、さっさと縁を切ったりするだろうと思うし、そうしなくても、きっと施設かなんかに放り込んだりするかもしれないと思った。

 僕でもそう思ったんだから、両親だって考えた事はあるはずだ。それをせずにじっと演じてきたのだから、少しくらいの感謝はしても良いと思った。

「これくらい普通だわ。罰すら当たりっこない」と姉さんはふて腐れたように言った。

「知ってる? 父を演じている男は今年で三人目よ、三人。今年はまだ二ヶ月しか経っていないっていうのにもう三人。私の知る限りだからもっと多いかもしれない」

 最初は何の事なのか判らなかった。

 僕の心を見透かしたように、姉さんは少しだけ間を開けてから捲くし立てた。

「愛人の数よ。今年遊んで付き合ってきた女の数」

 父を演じている男性は、職場が女性に恵まれているようで、良く女性を代えて遊んでいる事は、周知の事実だったから、僕は特に遊び自体には驚かなかったし、何人居ようと、素直に父を演じている男性に変な尊敬にも似た念を向けた。僕は男だけど、意地になっていると思われるほどの女遊びをしたいとは思えなかった。まだまだ子供だからかもしれないけど、そう思った。

 驚いたのは、そんな事じゃなかった。

「どうしてそんな事知ってるの?」

 姉さんがどうしてそんな事を知っているのかという事だった。

「この町のラブホテルは一箇所に集中していて、そこを縄張りにしている不良集団が居るの。私は夜にバイトをしていたし、同じバイトをする仲間はその集団と繋がりがあって、私はそのバイト仲間と親しかったの」

 とんでもない事を知らない間にしでかしている姉さんに、僕は心底、驚いていた。

 この人の行動力は何処から沸き起こってくるのか、本当に不思議だった。

「ついでに、母を演じている女はラブホテルを利用していなくて、駅前のビジネスホテルを使っているの」

「そっちも同じような手で?」

「そっちも同じよ」と姉さんは言った。

「凄いや」と僕は言った。

「スパイ映画やギャング映画みたい」

 僕の言葉に姉さんは不機嫌そうに眉を顰めた。

「で、いつまで息子を演じるつもり?」

「いつまでって、両親が死ぬまでかな」

「はぁ?」と姉さんは呆れた声を出した。

「少なくとも、僕はまだ中学生だし、無茶をする姉さんみたいに行動力があるわけじゃないし、頭も良くない。だったら、演じてでも安定した生活をしていたい」

 僕が今、一人で社会に放り出されたら野垂れ死ぬ自信が、情けないけどあった。折角、両親が形だけでも居るのだから、加護を受けられるまで精一杯受けようと思っていた。

 中学校を卒業して、高校に入るかまだ判らないけど、どうしたって働く事になるのは避けられない未来で、就職できるまでは両親の力に頼りたいし、たとえ就職できなくても、今の両親なら僕を養ってくれそうな気持ちもなんとなくだけどしていた。

 ただ、そう思っていても、そんな事は口が裂けたって姉さんには言えなかった。

「本当に中学生? 達観しすぎじゃない」

 姉さんは、口を尖らせて不機嫌そうに僕を見た。

「無茶をする姉さんが居るから、僕はひっそりと生きる事を目標にしたんだ」

「はいはい。破天荒な姉で悪かったわね」

「でも、嫌いじゃないよ」

「えっ?」と姉さんは言った。

「僕は姉さんの弟で良かったと思ってる。演じている家族だったとしても、姉さんの弟になれたことだけは良かった」

 本当に、これだけは感謝できると、胸を張って言えると思った。

 嫌いじゃなかった。一緒に居て疲れるけど、嫌いじゃないと感じられたのだから、満足できる疲れ方って、やっぱりあるんだと知ったし、その満足は姉さんに勉強を教わった小学校時代が初体験だった。

「弟にしては、随分と生意気な口を利くわね」と姉さんは僕の顔を見ながら笑った。

「そうかな?」

「そうよ」

「でもね、ありがとう。頑張った甲斐があった」

 前を向き直して一緒に歩いていた姉さんはそう言って微笑んでいた。

 どうしてか判らないけど、不思議な気分だった。

「そう?」

「そう、アンタも頑張って勉強しなさい。そして私のところに転がり込んできなさい」

「転がり込むって、寮でしょ。無理だって」

「男気を見せなさいよ」

「だったら勉強教えてよ。どう考えても、自力じゃ無理だし」

「頭の悪さは自覚してるのね」

「僕より悪い人はいるけど、僕より良い人の方が多い」

「もう少し、集中したら? 日常で演技なんてしているんだからそれくらいできるでしょ」

「生きていくために、何が必要なのか判らなくなるんだ」

「変に、頭が堅いわね」

 そう言って、姉さんは呆れたような笑みを浮かべていた。

「良いわ、ただしビシバシやるわよ」

「お手柔らかにお願いします」

 学校の帰り道だった。

 家族というものを演技なしで接し合えたと、僕は心の底から思っていた。とっくに諦めていた生活だった事を経験する事ができた。

 幼い頃から感じていた閉塞感から解放された快感を覚えた僕は、姉さんが寮に移るまでの一月ちょっとほど充実した人生は無いと思えた。それほど僕が家族生活を満喫した日々だった。

 毎日、家に帰れば姉さんに勉強を教わり、他愛も無い世間話をして、姉さんがどんなバイトをして、どうしてお金を集めていたのかを教えてもらい、どんな悪い事をしてきたかの武勇伝を聞かされた。

 姉さんはただ、家に帰りたくなかったからそうした無茶をしていた事を知れた。稼いだお金で、欲しい物を買うわけでもなく、貯金する金額を決めて、将来のために溜めている事を知った時は本当に驚いた。

 僕は、姉さんが学校でモテる事を知らせてあげたり、逆に僕が女子の先輩から可愛がりたい後輩一位だったとか聞かされたり、とにかく今まで溜め込んできた何かを二人して吐き出そうと躍起になっていたのかもしれなかった。

 両親は相変わらずだったけど、姉さんが進学校に行く事を素直に喜んでいたし、僕が勉強に真剣さを見せ始めるのも嬉しそうだった。

 だから、あの時だけは本当の家族みたいな日常だった。

 例え、それが仮初めだと言われようと、僕にとっては最初で最後の家族生活だった事に変わりは無かった。

 もしかするならば、世界は変わってくれるんじゃないかと思える事もできた。


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