壱
プロットの無い小説です。
誤字脱字があるかもしれません。
短編です。
空は、『どんよりと』、なんて言葉が似合うほどに雲が垂れ込み、僕を陰鬱な世界へと誘ってきているかのようだった。僕は一人、地面よりも高い位置から暗闇に覆い隠されている世界を見上げていた。
本当に寒いと素直に思えるほど風は冷たく、僕の身体を撫でていった。全身が熱を求めて震えていようとも、効果は薄く身体が冷たくなってきていたが、気にする事も無く、吹かれるまま、凍えるまま、震えるまま、僕は世界の中を歩いた。
白い塗料で染められた金網の柵は芯まで冷え切っていて、氷のようだった。僕は握りこぶしが入るほど大きい網目に指先を掛けて、身体を揺らしながらもしっかりとした足取りで、その金網を乗り越えた。
僕は、せり上がったコンクリートの上に両足を乗せた。指先の感覚が消えていたので、少しばかりもたついてしまったが無事に降り立つ事はできた。
吹き荒れる風は、怒りに打ち震えているようにビルの隙間を通っては何処かへ消えて行った。耳障りな音をかき鳴らしながら、その風は何処を目指していったのだろうと思いを馳せながら、僕は目に見えない風を、適当に追いかけ、隔たりの無い高所から視線を這わせるように、立っているコンクリートの端から見える世界の果てを眺めた。
薄暗い世界が広がっていた。無機質で無個性で、でも落ち着いていながらも気だるそうな世界だった。
目の前には何の変哲も無いビルが伸びていて、窓から非常階段を示す緑色の薄気味悪い光が見えるくらいで、人が居るようには見えなかった。
そんな世界を眺めながら、僕はどんな気分だったのだろうか、と考えていた。何度もしたけれど、未だに答えが出てきたためしも無く、彷徨い続けている自問自答だった。
僕は笑った。少なくとも、今の僕と同じような迷子みたいな気持ちではなかったことだけは確かだ。
何せ、僕はどうしてビルの屋上から眼下を悠々と移動する自動車を眺めつつも、つま先を宙に投げ出しているのか、あまり理解していなかったからだ。
ただ、こうすれば少しは気持ちを判ってやれる、そんな独りよがりのためにやっているのだから、やっぱり僕は気持ちを判ってやれる事は、なかったのかもしれないと、自嘲めいた笑みを浮かべてしまった。
腰が引けているけれど、僕のつま先は世界の果てから顔を覗かせている。怖いのだろうと思えるくらいに、僕はまだ理性を保てている事を心のどこかで安心していた。
それでも、僕の思いは変わっていなかった。
「そんなところで何をやっているのかね」
好きだったんだろうと、この世界の果てで佇みながらも僕は思った。
「飛び降りるならさっさと飛び降りれば良かったな」と小父さんが言った。
「かれこれ、二十分か?」
背中ごしに聞こえてくる声は聞き覚えがあった。
きっと想像よりも軽い錆びた扉に、体重を掛けるように腕で抑えながら、斜めに立っている小父さんが呆れた顔をしながら僕の、背中を見つめているのが想像出来て、頭の中に光景が浮かんできた。
「勇気が無いんですよ。背中、押してくれます?」
僕は振り返る事もせずに、後ろへ声を掛けた。
「私に、自殺幇助の罪でも着せたいのかね」
「犯罪になりますよね」
そう言って、僕は笑った。
「下手をすれば、殺人罪だな」
「僕に完全犯罪は無理ですよ」
本当に、僕は笑い顔を作れているかはわからないけど、とにかく笑った、声を出して笑ったけれど、予想よりもずっと乾いた笑い声が出て、僕は気まずくなった。
その気持ちを察したのかは判らないけど、小父さんの声は明るかった。
「立て続けに死なれても困るからな」
嫌味には聞こえなかった。それでも、本音なのだろうとも思えた。誰だって、同じ場所から同じように死なれては色々と困るはずだ。自殺の名所になったり、悪い噂が立つには持って来いの事実が出来上がっても、おかしくはなかった。
「ご迷惑をお掛けしています」
「まったくだ」と伯父さんは言った。
「それでも、些細ながらも良かったと思える事もある。怒るかも知れないがね」
「怒りませんよ。別に」
どうでも良い話だった。
僕にとって、伯父さんは他人で伯父さんの事なんてどうでも良かった。たとえ、今ここから伯父さんが飛び降りたとしても、僕は何も思わないという妙な自信すらあった。
「悪い虫が消えた。それだけだ」
そんな僕の考えなど知りもせずに伯父さんはそう言った。粘つくような声だった。
「そうですか」
素っ気無い態度を、訝しがったのかもしれないけれど、伯父さんは口を開いた。
「爺が、人生相談でも乗ってやろうか」
「それほどお歳を召しているようには見えませんけど」と僕は言った。
小父さんはどう見ても、爺さんと呼べる姿ではなかった。少しお腹が出ているだけで、五十台前後に見えた。
「褒めても背中は押さんからな」
小父さんは呆れながらそう言った。
今のはお世辞でもなく、本当に見たままを言っただけだったけど、小父さんに出会ったのは、三週間ほど前のことだったので、三週間分、僕が顔を拝見した時よりふけてしまっているのかもしれなかった。
それでも、今の言葉に深い意味はないけれど、小父さんは何処か嬉しそうだったかもしれないと思い込む事にした。
「辞めておきますよ。貴方に罪を着せるつもりはありませんから」
軽口のつもりじゃなかったけど、小父さんは僕の言葉を聞いて困ったようにため息を吐き出したような気がした。
「なら、別の場所で死んでくれ。変な噂が立つのは困る」
面倒くさそうな声だった。僕も凄く迷惑な行動をしていると自覚はしていた。けれど、止めようとは思わなかった。
「善処しますよ」
三週間ほど前の出来事だった。新聞に小さく記載された記憶も残っていたし、その出来事から僕の人生は加速して、今に至ったという事も自覚していた。
「取り合えず人生相談は辞めて、説教でもしてやるか?」
一人の女がこのビルから飛び降りた。
今日みたいにどんよりと雲が垂れ下がっていた。違うところと言えば、雪がちらちらと舞っていた事だろうか、などと考えてみた。
「ほどほどにお願いします」
あの日、雪が舞う中で女は笑って飛び降りた。あの笑顔は涙で濡れていたはずなのに、どうしたって綺麗だった。
僕にとって最後に見た姿が笑顔だったのは幸運なのか、それとも不幸だったのか、と何度と無く考えては、答えが出ずにここまで来ていた。
とにかく、僕はその笑顔に憑かれてしまった事だけは確かだった。こうして、足繁く自殺現場に通ってビルの管理人と思わしき小父さんとも顔見知りになってしまったのだから、憑かれているという言葉はしっくりきていた。
「僕はどうしたら良かったんですかね」
何気なしに呟いた僕の言葉に続いて、タバコの臭いが漂ってきた。
「どうしたいんだ?」
小父さんはタバコに火を点けて、そう答えたようだった。
その言葉に、僕は押し黙った。勇気も無いのに、僕は死のうとしていたのは事実だったし、実際どうしようか本当に迷っていた。人間として間違った行いをしたという自覚もあるけれど、だからといって大人しくするべきなのかも、判らなかった。
「どうしたいんでしょうかね」と僕は言った。
「どうしたいんだろうな」
小父さんもそう呟いた。
奇妙な掛け合いをしながら、僕は世界の境界に立っていた。
一歩も踏み出す必要は無く、半歩も足をすり出せば、僕は十階のビルの屋上から落ちて行き、アスファルトの黒い大地か、点字ブロックが伸びる歩道の上に醜い死体を晒すだろうけど、下を通った人に当たらなければいいな、と他人の心配をしているのだから、死ぬ気はないのかもしれないと言えた。
「何があったんだ」と小父さんの声が背中ごしに聞こえた。
その言葉の軽さに、口が滑った。
「色々と」
僕は小さく呟いた。
初めて小父さんはそう投げ掛けてきた。今まで、何度か同じ場面を経験していたけれど、今日だけは何処か違っていた。
一体、どういう風の吹き回しだろうかと、訝しがってみたが、判らないものはどう考えたって判らなかった。
「逃げ道だけは上手く残すもんだな」
小父さんは笑った。
「そうかもしれませんね」と僕はため息を吐いた。
逃げ道だとは考えた事はなかったし、きっと伯父さんは挑発したつもりだったのかもしれなかった。だけど、僕には何の意味も無かったはずだった。
「死にたい理由は色々とありますよ」
きっと小父さんは、今度こそ僕が飛び降りると、思ったのかもしれないし、いい加減、死ぬなら死に、死なないなら死なないで決めて欲しかったのかもしれなかった。
「そうか」
風がより一層、強く吹き荒れた。煩い音に、顔を顰めつつ僕は身体は体温が失われていくのを感じていた。このままいけば、凍死するかもしれないと本気で考えていた。
「私も随分、死のうと思ったが、未だ死ねていない」
そんな僕の考えを他所に、昔を思い出しているような口ぶりで小父さんは言った。
誰しも一度は死にたいと思い描くものなのだろうかと質問したかった。それこそ、夢を見るように思い描くもので、もしそうだとしたら、今の僕が飛び降り自殺をしようとしてビルの屋上に昇り、つま先を虚空に行動する事自体、何も問題は無いはずじゃないかな、と思ったからだけれど、僕の口から零れたのは別の言葉だった。
「小父さんは、人を殺そうと思った事がありますか」
どうして、こんな話をしようと思ったのか、判らないけれど、とにかく口はそう呟いていたし、出てしまった言葉を訂正するつもりも何故だかなかった。
小父さんは僕の言葉を聞いてから、少しだけ間を開けていた。ゴミ屑を踏んづけて歩いたのかもしれないけど、小さな雑音が後ろから聞こえた。
「幾らでもあるさ」
きっと、振り返ればおじさんのふて腐れたような顔を拝めたかもしれないと思った。それほど、ため息に近い声に聞こえた。
「僕もありました」と僕は答えた。
「沢山かどうかは判りませんけど、覚えている限りに両手に収まる人数で」
思い出せるものもあれば、思い出せないものあった。どうしてか、しこりのようなものが残ってしまった。自分で言った言葉なのに、僕は何か忘れ物をしているような違和感に苛まれてしまった。
「そうかい」
小父さんの声が近寄ってきていた。
近づいてくるのが判るのは、じゃりじゃりと、わざとらしく音を立ててくるからだった。
「これ、羽織ると良いさ」
金網の上から雑音を響かせて、渡されたのは一着のコートだった。
「いいんですか?」と僕は言った。
高そうな黒いコートだと思った。
「気にするな。だが、死ぬときはきちんと脱ぐように」
戸惑いはしたけれど、受け取らなければ悪い気がしてしまった。
「判りました」と僕は手を伸ばしてコートを受け取った。
羽織ると暖かくは無かった。もしかすると小父さんが僕のためにわざわざ持参してくれたものなのかもしれなかった。
サイズは大きめだったけれど、寒さを凌ぐには丁度良かった。
「それで、小父さんは、殺そうとした人をどうしました?」
僕は、コートを羽織って襟を立ててからそう聞いた。
「大人には我慢が必要なんだよ。目先の衝動に駆られても我慢する必要がね」
その言葉には、はっきりと諦めが込められていたように僕は感じた。
「ただ、覚悟を決める必要もあったんだ」
辛い事があった。だけど、我慢しなければならなかった。それこそ、大人として守るべき何かを小父さんは守ったのかもしれなかった。
何故だか僕は笑っていた。小父さんの言葉には、それだけの何かが秘められている気がした。
「人を、殺したんですよ」
どうして、僕はこんな話を小父さんにする気になったのか判らないけれど、僕の中では戸惑いこそあれど、違和感は無かった。
「そうか」と小父さんは答えた。
思ったより、小父さんの反応は小さかった。その事が余計に、僕の口を軽くした。
「何故でしょうかね。こんな話をしたい気分になってしまうのは」
吐露、とでも言えば良いのかもしれないけど、僕はそれとは違うような気がしてならなかったし、ましてや感傷なんてものでもなかった。じゃあ、なんだと思ったところで、僕に確実な答えなんてありはしなかったけれど、僕はこれから語る事になる事だけは確かな事だった。
「自慢じゃないが、学生時代は良く後輩の愚痴を聞いてやっていた。その経験が活きたかな」
本当かどうかは判らないけれど、小父さんは少しだけ機嫌が良さそうだった。
思わず、僕は苦笑いを作った。
ビルの屋上で自殺しようか迷っていた殺人犯と、その犯人の供述を聞こうと思った小父さんという、奇妙な光景が広がっていた。
「後輩の愚痴、聞いてくれますか? 人生の先輩として」
「今の流行なんかは、はっきり言うと疎いぞ?」
「他愛も無い話ですよ」
屋上から見る景色は無個性で何の変哲もない世界だった。あの時と変わらない、変わった事と言えば、天候と、僕が今居る場所から女が飛び降りて、僕が小父さんがいる辺りで一部始終を見ていたという違いだった。
「ただ、人を殺しただけの、他愛も無い話です」
地の文の語尾は全て『た』、『だ』になっていると思います。