第5話「崩れる前夜」
学園祭、前日。
校舎は異様な熱を帯びていた。
廊下には完成間近の装飾。
体育館からはリハーサルの音。
教師たちもどこか浮き足立っている。
だが、その熱の下で――
静かに、ひび割れが広がっていた。
「聞いた? ステージ企画、使えなくなるかもって」
「え、なんで?」
「音響の申請、通ってなかったらしいよ」
不穏な噂が、風のように広がる。
家康は、その言葉を聞いた瞬間に察した。
(……来たか)
事実確認は早かった。
音響機材の使用申請書類が、未提出。
責任者は――鷹宮。
「そんなはずねえ!」
実行委員室で、鷹宮は机を叩いた。
「俺、確かに出した!」
教師は困った顔で首を振る。
「提出記録がないんだ。今日中に許可が下りなければ、使用は不可だ」
沈黙。
ステージ企画は、学園祭の目玉だった。
失敗すれば、全体の士気が崩れる。
「……誰か、代案を考えろよ」
だが、誰も動かない。
かつて彼に怒鳴られ、否定されてきた者たちだ。
“また責任を押しつけられる”
その恐怖が、足を縛る。
家康は、一歩前に出た。
「私が行こう」
鷹宮が睨む。
「は? お前が?」
「事実確認と再申請。今からでも間に合う可能性はある」
教師は驚いた。
「でも、徳川くんは実行委員じゃ……」
「今は、それが問題ではない」
家康の声は、静かだったが、揺るがなかった。
「学園祭を守る。それだけだ」
教師は少し迷い、頷いた。
「……分かった。職員室に来なさい」
職員室。
書類、印鑑、確認事項。
現代の“役所仕事”は、戦国の交渉とよく似ていた。
頭を下げるべきところ。
譲れぬところ。
家康は一つひとつ、丁寧に言葉を選ぶ。
「不備はこちらの責任です。しかし、生徒全体の行事であることをご考慮いただければ」
誠実さと、覚悟。
それは、相手の心を動かす。
最終的に、条件付きで使用許可が下りた。
帰り道。
夕焼けの中、家康は深く息を吐いた。
(間に合った……)
だが、問題はそれだけではなかった。
夜。
SNSに、一つの投稿が拡散され始めた。
《学園祭の失敗、徳川の裏工作らしい》
根拠のない言葉。
だが、人は“物語”を好む。
「裏で操ってる」
「いい人ぶって怖い」
不信の火種が、再び灯る。
家康は画面を見つめ、しばらく動かなかった。
(……人は、救われるより、疑う方が楽なのだな)
だが、今回は放置できない。
翌朝。
登校すると、視線が違っていた。
囁き声。
距離を取る動き。
昨日まで協力していた者たちでさえ、戸惑いの色を浮かべている。
鷹宮が近づいてきた。
「……お前、やったのか?」
その問いに、家康は首を振った。
「していない」
「じゃあなんで、あんな噂が出る」
「人は、不安なとき、理由を欲しがる」
鷹宮は歯噛みする。
「くそ……全部、俺のせいだ」
その言葉は、初めての弱音だった。
「委員長なんて柄じゃなかったんだよ。みんな期待するし、失敗したら終わりだし……」
拳が震えている。
家康は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「天下とは、一人で背負うものではない」
鷹宮が顔を上げる。
「背負う者が倒れぬよう、支える者が必要なのだ」
「……お前、なんでそこまで」
「かつて、支えを拒み、後悔した」
それ以上は語らなかった。
その重みだけで、十分だった。
昼休み。
家康は、噂の投稿元を突き止めていた。
悪意ではない。
焦りから生まれた、誤解の連鎖。
彼は、個別に話をした。
責めない。
怒らない。
「恐れから出た言葉だろう」
その一言で、相手は泣き崩れた。
投稿は削除され、謝罪文が出た。
だが、完全に信頼が戻るわけではない。
信は、築くより、壊れる方が早い。
放課後。
体育館のステージ前。
照明が点き、音が鳴る。
無事に準備が整った。
生徒たちの表情に、少しずつ笑顔が戻る。
鷹宮が、ぽつりと呟いた。
「……なあ徳川」
「なんだ」
「もし、学園祭が終わったら……委員長、降りてもいいかな」
その言葉は、敗北宣言ではなかった。
限界を認める、勇気だった。
「役目は、終わる時を見誤らねば価値がある」
「相変わらず難しいこと言うな」
だが、鷹宮は少し笑った。
夜。
校舎を出る家康の背中を、夕闇が包む。
彼は思う。
力で押さえる天下。
恐れで保つ平和。
それらは確かに、秩序を生む。
だが――長くは続かない。
人は、信じたいのだ。
誰かに従うのではなく、
誰かと並ぶことを。
明日、学園祭本番。
この一日が、彼の在り方を試す。
徳川の名が、導きとなるのか。
それとも、疑念の象徴となるのか。
天下の答えは、まだ遠い。
だが――
彼はもう、逃げなかった。




