第14話「理想と現実」
六月。
雨がキャンパスを薄く濡らしていた。
紫陽花が色を変える頃、噂もまた色を変える。
「自治会、怪しくない?」
三浦がスマートフォンを見せてくる。
学内掲示板に匿名投稿。
《自治会幹部、大学側と裏取引か》
具体的な証拠はない。
だが、学費値上げ問題での“妥協”が蒸し返されている。
徳川は静かに読む。
(疑念は、火種よりも広がりやすい)
その日の午後。
椎名から呼び出しが来た。
古いカフェテリアの隅。
「これ、見た?」
「見た」
椎名は苛立っている。
「もし本当なら、許せない」
「証はあるのか」
「ない。でも、あり得る」
感情が先走る。
徳川は冷静に問う。
「もし虚偽なら」
椎名は黙る。
正義の剣は、振り下ろす前に重さを測らねばならない。
夜。
三浦から連絡。
「自治会代表が、話したいって」
自治会室。
代表は疲れた顔をしていた。
「噂、見ただろう」
「うむ」
「裏取引なんてない。ただ、学費問題で非公式な意見交換はあった」
「公開せずにか」
代表は頷く。
「公開すれば、対立が深まると思った」
その選択が、今疑念を呼んでいる。
「善意でも、隠せば不信を生む」
徳川は静かに言う。
代表は苦笑する。
「理想論だな」
「理想を掲げぬ現実は、ただの利だ」
沈黙。
数日後。
学生有志の会は緊急集会を開く。
椎名が壇上で声を張る。
「自治会は説明責任を果たすべきです!」
拍手。
怒号。
熱が膨らむ。
徳川は後方で見ている。
(火が、強すぎる)
集会後、椎名が詰め寄る。
「あなたも声を上げて」
「証なき断罪は、危うい」
「でも、疑うことは必要でしょ」
「疑うことと、断じることは違う」
椎名の目が揺れる。
彼女は正義を信じている。
だが正義は、時に刃先が鋭すぎる。
その夜。
徳川は、匿名投稿の出所を調べ始める。
掲示板の履歴。
時間帯。
投稿文体。
三浦が協力する。
「探偵みたいだな」
「戦の前は、地形を知る」
数時間後。
一つの事実に辿り着く。
投稿は、自治会に落選した元役員のアカウントからだった。
証拠は完全ではない。
だが可能性は高い。
翌日。
徳川は、代表と椎名を同席させる。
場所は、人気のない講義室。
空気は張り詰めている。
「噂の出所は、内部の可能性が高い」
二人が驚く。
「内部?」
代表が呟く。
徳川は続ける。
「不満は、外より内に溜まる」
椎名が言う。
「じゃあ、裏取引は?」
代表はまっすぐ答える。
「ない。ただし、説明が不足していた」
沈黙。
椎名は視線を落とす。
「私は、怒りに任せすぎたかもしれない」
徳川は言う。
「怒りは悪ではない。だが、向け先を誤ると信を失う」
代表が深く息を吐く。
「公開説明会を開こう」
その言葉に、椎名が顔を上げる。
「本当に?」
「疑念を放置する方が、組織を壊す」
数日後。
自治会は公開説明会を開催。
会場は満員。
代表が一つ一つ説明する。
非公式会合の経緯。
議事録の未公開理由。
判断の背景。
厳しい質問も飛ぶ。
だが、逃げない。
椎名も壇上に立つ。
「私たちも感情的になりました」
率直な言葉。
空気が、少しずつ柔らぐ。
説明会の終盤。
徳川が一言だけ述べる。
「理想は掲げねばならぬ。しかし現実を隠してはならぬ」
「正義は透明であってこそ、力を持つ」
拍手が起こる。
熱狂ではない。
理解の音。
夜。
下宿の窓を開ける。
雨は止み、空気が澄んでいる。
(理想と現実)
かつての自分は、理想のために現実を踏み越えた。
今は違う。
現実を見つめ、理想へ近づく。
それは遠回りだ。
だが、信は残る。
三浦からメッセージ。
《お前、もう自治会入れば?》
徳川は、画面を見つめる。
頂は、また近づいている。
だが急がない。
理を学び、現実を知り、
その上で立つならば。
窓の外、雲の隙間から月が覗く。
光は強くない。
だが、確かにある。
徳川は静かに呟く。
「……正義とは、孤独なものではない」
理想は、現実の土を踏んでこそ芽吹く。
大学という国家は、まだ揺れている。
そして彼もまた、揺れながら前へ進む。




