足踏み
木洩れ陽が地面で揺らめき、葉や小枝は風で乾いたような音を響かせる。
ティアナとラルフはアーヴェントを出発し、元帝国領の森に足を踏み入れていた。
「空気が澄んでいるな。もっと帝国領内は亡魔の死臭で穢れていると思っていた。これは嬉しい誤算だ」
ラルフは鼻を鳴らし、涼しげに言う。オスヴィンも横に並びながら、同調するように吠えた。
「うっ……はぁ……はぁ……」
一方、ティアナは顔に苦悶を滲ませている。理由は、その背後にあった。ティアナは前へ引っ張るように縄を握り、その縄は小さい絨毯ほどの木板に繋がれている。木板には、小麦袋と見紛うほどの鞄が乗せられていた。
アーヴェントとクリーゼルは、距離が三百キロほど離れている。到着には約十日かかる想定だった。よって、食料、水、衣服、寝袋、地図、コンパスなど、物資を大量に持っていく必要があったのだ。
巣が途中にあれば、補給も視野に入れられただろう。だが、それは期待すべきではない。生き残った元帝国民はみな領外に逃げ去ったはずだからだ。
だから物資を不足なく運ぶ必要があり、そんな物資はすべてティアナが運ばされていた。
確かに、自分が運ぶべきかとは思う。
旧世界では、護衛が要人の荷物を持つことが常識だった。
ティアナが物資を運ぶことが合理的でもある。ティアナはラルフより体力が勝っていた。旅のペースを落としたくなければ、ティアナが物資を運ぶべきなのだ。
だが、いまは量が量である。これだけの重量を数日間にわたって運ぶのは、さすがに堪えるものがあった。すこしは手伝ってくれてもよくないか。
またティアナは戦士でありながら、女でもあるのだ。露骨なレディーファーストなど期待しないし、そもそも不要だが、何かしら配慮はあってもいい気がする。
ティアナは、不服を孕ませた視線を送った。
だが、その視線に込めた思いは届かない。
「遅れるな、ファーレンハイト。今日の目的地は都市リゴーだ。このままでは到着するまでに日が暮れてしまう」
ラルフは慮る姿勢など見せず、逆に急かしてきた。
煮え立つような怒りが湧く。ティアナは衝動的に口を開いた。
「あのねぇ、私はっ──」
胸に押し留めていた思いの丈を、すべて言葉に変えた。だが、それでもラルフの態度は変わらない。
「なぜ、俺が荷物を持たなければならない。雇われている自覚をしっかり持て」
地面で這う虫を見るような目で見られる。ティアナは唖然とした。
「逐一、休憩は取っているだろう。そこでしっかり体力は回復させろ。これでもペースは落としているほうなんだ。そして──」
ラルフは言って、顔を覗き込んでくる。
「お前、女扱いされたいのか?」
「へ?」
思わず、変な声が洩れてしまった。
「いや、別に、そういうつもりで言ったわけじゃ……」
ティアナは動揺から口ごもる。ラルフはすぐ続けた。
「だとしたら、百年早い。女扱いをされたいなら品を身に着けろ」
瞬間、カチーン、という音が聞こえた。怒りは蛇のようにうねり始める。
女として認められたかったわけではない。品が欠けている自覚もある。ただ、単純に態度がひどく気に入らなかった。
ティアナは声を張る。
「あんた、何様のつもり? 確かに、私は戦場を走り回って、亡魔を殺して、女らしさからは程遠い女かもしれないけど、それでも私を下品だなんて言う資格はっ──」
「違う、そうじゃない」
ラルフは首を左右に振る。
「戦う姿を見て、品がないと評していたわけじゃない。売り言葉に買い言葉。常に咬みつく気満々の姿勢でいることが、ひどく品がないと言っているんだ」
またもや、カチーン、という音が聞こえた。ティアナは拳を震わせる。
「誰のせいで……私がこんなイライラしてんのは、あんたが腹立つ態度を取ってくるからでしょ⁉ 私だって、普段からこんなんじゃない! 相手が穏やかで常識的な人なら、もっとマトモに会話できるわよっ!」
顔を真っ赤に染めながら叫ぶと、ラルフはひらりと躱すように返してきた。
「ほら、見たことか。言ってるそばから咬みついてくる。そういうところが、俺は品に欠けると言っているんだ」
「あんたはぁ~~~~~~⁉」
ティアナは歯を軋らせる。
憤懣やるかたないとはこのことか。憎たらしくて仕方がない。ラルフと過ごした期間は一週間にも満たなかったが、ここで結論が出てしまった。
この男、嫌いだ。
今後も印象が大きく変わることはないだろう。ならば、やることは一つ。首都クリーゼルに一刻も早く辿り着き、護衛の任務を終わらせる。そして報酬を受け取り、傲岸不遜の権化から離れるのだ。
ティアナは決意するように唇を結んだ。
そのとき、すねに違和感を覚える。
「ん……?」
ティアナが視線を落とすと、オスヴィンが慰めるように舐めてくれていた。
今度は物資が詰められた鞄に顔を突っ込んでから、何かを咥えた状態で顔を出す。
それは、地図やコンパスが収めれれた布袋だった。オスヴィンはその布袋を咥えたまま、ラルフを追いかける。
「あんた……」
じーんと胸が痺れた。荷物運びを手伝ってくれるのか。どうやら飼い主には似ず、オスヴィンは優しい心を持っているようだ。
前言撤回である。報酬を受け取るなり、ラルフからは離れる。だが、それはオスヴィンを目一杯撫でてからにしよう──そんなことを考えながら、ティアナはふたたび森を進んでいった。
しばらくして、幹の隙間に光を捉える。出口が近いらしい。
森を抜けた直後、ティアナの視界に飛び込んできたのは、広幅の川だった。その川は、堆積岩が敷き詰められた川原に挟まれながら流れている。
これは、ビアホフ川。ハインツェ帝国の山岳地帯に端を発し、南西方向に流れながら、エルスター公国が接する海に注がれる国際河川だった。
その存在は事前に把握していた。地図にも目立つように描かれていたため、この川に行き当たることも想定していた。だから、渡る手段も考えてある。近くには石造りのアーチ橋が架けられているはずなのだ。
ティアナはその橋を探して──ふいに弱々しい声を洩らしてしまった。
「え……」
確かに、橋はあった。だが、頭に思い描いていた姿ではない。橋は中央で叩き割るようにして、無惨に崩落していたのだ。
「困ったな……」
ラルフは眉を寄せる。ティアナは同意するように頷いた。
ビアホフ川を渡らなければ、首都には辿り着けない。他に手段を探すしかなかった。
脚力頼りで渡るのは現実的ではないだろう。流れもそこそこに急で、深さもありそうだったからだ。
ならば、他に渡れる橋を探すか。いや、ここから最も近い位置にある橋はだいぶ距離が離れていた憶えがある。そもそも、同じように倒壊していたら無駄骨だ。だとしたら手間は要するが、即席で筏を作るのが最善か。
ティアナが手を顎に添え、考えていたときだった。
とある感覚が身を襲う。
「っ⁉」
「どうした? ファーレンハイト」
ラルフは訝しげに尋ねてきた。
ティアナは顔を強張らせる。襲ってきたのは、唾液をまとわせた舌で執拗に舐められているような不快感だった。
この不快感は覚えがあるどころか、食傷気味なほどに味わっている。そして、この不快感に襲われたということは──ティアナが連中の標的になっていることを示していた。
ティアナは背後を振り返る。
森を埋め尽くす闇が、不気味に蠢いた。次の瞬間、掠れたような呻き声が耳を撫で、胸焼けするような異臭が鼻を刺す。
「こいつらっ……」
ラルフが瞳を開く。森の木陰から、多数の亡魔が現れた。