07.ケ
朝食を済ませ三人で楓の家へ向かう。
階段を下りると、ゴミ袋を持った欄子と出くわす。鉄平の後ろを歩く京平と楓は、二人の触発に身構える。ところが、二人は穏やかに挨拶を交わすのだった。
「鉄平、早いじゃない」
「欄子さんもね。はよっす」
京平の思ったことが口から出る。
「嘘だろ……」
蘭子が後ろの京平と楓に笑顔を向ける。
「三ヶ月分の家賃、前払いしたからね」
京平は吹き出した。それから前を歩く鉄平の肩に勢いよく腕を回す。
「俺、三ヶ月間ご飯食べに行くから」
取り残された楓に向かって、蘭子が営業トークをふっかける。
「可愛い子くんも、部屋借りる? 三人仲いいみたいだし。手数料安くしてあげるよ?」
いろんな意味で返事に詰まっていると、鉄平が戻ってきた。
「蘭子さん、駄目だよ。こいつは住むとこあるから」
鉄平は楓の手を引っ張る。
鉄平に引き寄せられた楓は、慌てて蘭子に会釈する。
「朝から目の保養になったわ」
三人の後姿を見送り、蘭子はケラケラと笑って戻っていった。
それから当たり前のように恋人繋ぎで隣を歩く鉄平に、驚きと恥ずかしさで楓は心が落ち着かなかった。楓の中で喜びのネオンサインが点滅しているが、見て見ぬふりを決めこむ。
そわそわしている楓に鉄平は愛情をぶつける。
「楓は、ほんとは俺と居たいよな?」
「え!? ……っと」
直球すぎる愛情に、楓は口ごもる。秒で全身が熱くなる。
反対側を歩く京平が即座に反応して、鉄平にチョップする。
「逃げ道のない聞き方をするな」
楓は自分の熱で手汗をかいたことに気づき、絡まる指を浮かせようとした。すると、すっと鉄平が手を放す。ほっとしたのも束の間、手首を掴まれて鉄平の服で手の平を拭かれる。唖然としていると、また恋人繋ぎをしてくる。
楓は強引な鉄平を振り払えない。それは強引だからではない。ぐいぐい入り込んでくる鉄平のそれが、楓の心の奥深くで何重にも塗り固められた強固な塊に衝撃を与えるからだ。その塊が何なのか楓は全く気が付いていない。でも、その衝撃からくる小さな振動が楓には心地良いのである。
楓の家の前に着くと、玄関に昨日と同じ格好のままの兄、颯が出迎えた。出迎えたというより、あのまま帰りを待っていた、が正しい。
京平が楓に直球で確認する。
「にーちゃんシスコン?」
「……かなりの」
楓が繋いだ手を離そうとするが鉄平は一切力を緩めなかった。それを瞬きもせず直視した颯は、わなわなと震える声で楓に問う。
「楓、か……彼氏ができたのか? それとも弱みを握られてるのか?」
「れっきとした彼氏です」
楓では無く鉄平が力強く答える。
聞こえないはずのない鉄平の返事をスルーする。
「すぐ帰ってくる約束だっただろう」
楓が気まずそうに言い訳をする。
「にーちゃんが無事だったから安心して寝っちゃった……らしくって」
はぁ、と重いため息をついた颯は、楓に家に入るよう促す。
京平に肘でつっつかれた鉄平が、やっと楓を解放すると楓は兄を見ずに玄関に直行した。
「わざわざ送っていただいて、ご迷惑をおかけしました。もう大丈夫ですから」
妹との関係を断ち切ろうとする兄に、負けじと鉄平が喰らいつく。
「助けたお礼の件ですけど、毎週、楓が週七日うちで家事をやる、で手を打ちますよ」
「鉄平、お前バカなの?」
京平がツッコむ。
颯は涼しい顔をしているが、こめかみに血管を浮かせている。静かにキレるところは兄妹である。
「楓はバイトもありますし、家のこともあります。お宅のお邪魔になってしまうでしょうから、お礼の件は別のことにしましょう」
(あ、この感じ……)
兄によって幾重もの自分の未来の扉が閉ざされてきたことを身をもって体験している楓は、咄嗟に鉄平に加勢する。
「わ、私が鉄平さんの家事がしたいってお願いしたの! 鉄平さんじゃなかったらにーちゃん助からなかったし! 新しいバイト先!」
どれが理由だか分かりづらい説明である。
楓に向けられた兄の表情は鉄平と京平からは見えないが、楓は角の生えた鬼に睨まれている。
一番冷静な京平が終止符を打つ。
「楓ちゃんはもう成人してるんだし、ちゃんとこの家に帰るってことで、楓ちゃんの気持ちを尊重してはどうですか……ね? 週七日はおかしいと思いますけど」
鉄平と颯の睨み合いが数秒続いたが、命の恩人を前にしては颯が折れるしかなかった。
ほっとした表情をする楓を鉄平は見逃さなかった。ちょいちょいと手招きして楓を呼ぶ。いつもの可愛い顔で鉄平の前まで来る。
恥ずかしげもなく、躊躇うこともなく、楓の口に愛情たっぷりのキスをした。五秒間しっかりと。
颯は理解不能な声で発狂した。
京平は颯のシスコンに宣戦布告する鉄平に呆れる。
頰を赤らめて堕ちかける楓に満足する鉄平。
鉄平から引き剥がし、抱きかかえるように楓を玄関まで連れ戻した颯は、鼻息荒くまくし立てた。
「いろいろとお世話になりました。家族水入らずで過ごしたいので、また……ヤニくっさ! さ、さようなら!」
「じゃーな、楓。迎えに来るから」
今まで見せたことのない笑顔で手を振る。
これ以上火に油を注ぐな、と京平に叱られる。
玄関の戸が閉まり、家の中で兄妹喧嘩が勃発しているようだったが、二人は帰路につくことにした。
「そういや京平、お前、楓が女だって言った時驚かなかったよな?」
「あー……」
京平は言おうか言うまいか、数秒考えて面白くなりそうな方を選んだ。
「豪雨に遭ってビショ濡れで戻った時、先に楓ちゃんがシャワー浴びたでしょ。ドライヤー使い出したから、俺、バスルーム入ったじゃん。あん時、髪じゃなくてブラジャー乾かしてたんだよね」
京平は、鉄平が鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして固まったので、これは面白い、と興味深く観察した。
自我を取り戻した鉄平が青ざめて確認する。
「……見たのか?」
鉄平の独占欲が顔をのぞかせる。
「ねーよ。ちゃんとバスタオル巻いてたっての。んで、お前にバレないように急いで楓ちゃんの髪をタオルで拭いてあげた」
「バラせよ。何ですぐ言わねーんだよ」
もっと早く女だと分かっていれば、とアレコレ想像して悔しがる鉄平をよそに、京平は嬉しそうに口笛を吹いた。
「楓ちゃんと秘密協定結んだからね〜」
「はぁ!? 何約束したんだよ! コラ、吐け!」
走って逃げる京平を鉄平が鬼の形相で追いかける。
――その頃。
兄から開放された楓は、自分の部屋で使い込まれた料理ノートにレシピを書き写していた。スマホ画面には、ウェブ検索した料理が映し出されている。
『エビチリ ~日本生まれの中華料理~』エビに絡まる紅緋色の餡が美味しそうである。
「エビチリか〜ふむふむ。京ちゃんは中華が好きなんだなー。鉄平さんは辛いの食べられるのかな?」
「……あ」
楓は材料を眺めながら、大事な自分の足のことを思い出す。
(キックボード置いてったままだ)
一方、兄の颯は、荒れた部屋を片付けもせず、溺愛する妹の唇を奪った男の情報を洗い出そうと血眼になってハッキングを試みるも、どうにもアクセスできない。鉄平という名前以外、何一つ情報が得られず、最強のハッカーを前に悶絶するのだった。
END
――To Be Continued.