仔羊ちゃんと呼ばれて
入学式当日の朝は、驚くほど静かだった。
石造りの回廊に、私の足音だけが響く。
男子校というだけで緊張するのに、ここがBL世界の中心だと思うと、背中が落ち着かない。
(今日から、原作が本格的に動き出す)
そう思った瞬間、胸の奥がひりついた。
原作では、この日。
オーソンは“運命の出会い”を果たす。
私は一歩でも早く、弟のそばに行きたかった。
中庭に出ると、生徒たちが既に集まり始めていた。
談笑する声。制服の擦れる音。
その中に──
「……オーソン」
いた。
柔らかな雰囲気はそのままに、少し緊張した顔で立っている。
周囲と自然に溶け込んでいるのが、逆に怖い。
私は無意識に歩み寄っていた。
そのときだった。
「おや」
低く、余裕のある声。
視界の端に影が差し込み、次の瞬間、私は進路を塞がれていた。
「編入生だよね?」
背が高い。
銀に近い淡色の髪。
涼しげな目元。
──イグナーツ。
原作で、最初にオーソンへ好意を向ける攻略対象。
心臓が、嫌な音を立てる。
「……そうだが」
私は低く答えた。
視線は、あくまで彼の向こう側──オーソンに向ける。
けれど、イグナーツはそれを遮るように一歩近づいた。
「君、面白い髪だね」
何だ、いきなり。
「くるくるしてて……」
指が伸びてきて、反射的に私は一歩引いた。
「触るな」
思ったより強い声が出た。
一瞬の沈黙。
そして、イグナーツは──笑った。
「はは。ごめんごめん」
まるで怒らせた子供をあやすみたいに。
「でもさ、仔羊みたいだと思って」
「……は?」
「迷子になりそうで、でも目が離せない感じ」
腹が立った。
軽い。軽すぎる。
「失礼だな」
吐き捨てると、彼はますます楽しそうに目を細めた。
「気に入ったよ。仔羊ちゃん」
ぞわり、と背筋が粟立つ。
その呼び名が、
この世界で私を縛る“何か”になる気がした。
「……名前で呼べ」
そう言うと、イグナーツは一瞬考え込む素振りを見せた。
「名前?」
「そうだ」
偽名は、まだ決めていなかった。
けれど、ここで曖昧にするわけにはいかない。
この世界に、私は存在する。
そう示すためにも。
「……アリエスだ」
口にした瞬間、空気が変わった気がした。
「アリエス」
イグナーツが、確かめるように繰り返す。
「いい名前だね。仔羊ちゃんにぴったりだ」
「だから、その呼び方はやめろ」
即座に否定した。
頑固だと自覚はある。
でも、譲れないものは譲らない。
──私は、誰かの“可愛い役”になるために来たんじゃない。
そのとき。
「……アリエス?」
聞き慣れた声が、私を呼んだ。
振り向くと、オーソンが立っていた。
少し驚いた顔で、私を見ている。
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「君たち、知り合い?」
イグナーツが、自然な調子で尋ねた。
「いえ、今知り合いました」
答えたのは、オーソンだった。
──原作どおりの台詞。
嫌な予感が、確信に変わる。
この場面。
原作では、ここから二人の関係が始まる。
私は一歩前に出た。
「オーソン」
名前を呼ぶ。
弟が、はっとしたようにこちらを見る。
「入学式、始まる。席、確認したほうがいい」
少し強引だったかもしれない。
でも、間に割り込まなければならなかった。
イグナーツの視線が、私に向く。
「随分、気にかけるんだね」
「同室だ」
嘘ではない。
設定上、そうなっている。
オーソンは少し戸惑いながらも、私の隣に立った。
「じゃあ、また後で」
イグナーツはあっさりと身を引いた。
けれど、去り際に──私だけを見る。
「アリエス」
名前を呼ばれただけで、胸がざわついた。
「逃げる仔羊ほど、追いかけたくなるから」
冗談めかした声。
なのに、背筋が冷えた。
彼は、原作どおりじゃない。
原作では、もっと穏やかで、オーソンに一直線だった。
(……修正力が、ずれてる)
私は、オーソンの隣を歩きながら、拳を握りしめた。
世界は、物語を元に戻そうとしている。
その矛先が、私に向いているとしても。
構わない。
私は、弟を守る。
どんな名前を与えられても。
誰に目をつけられても。
私は、アリエスとして、このBL世界に抗う。




