男装という究極の選択
冷静になれ、と自分に言い聞かせながら、私は部屋を見回した。
天蓋付きのベッド。
重厚な木製家具。
机の上に置かれた教科書と、制服らしき服一式。
──全部、見覚えがある。
祖母のネームで何度も見た、寄宿学校の寮の一室。そのままだった。
机に近づき、積み重ねられた書類を手に取る。
入学案内。校則。時間割。
そして、生徒名簿。
指先が、止まった。
「……いた。オーソン」
弟の名前。
綴りも、配置も、原作どおり。
嫌な汗が背中を伝う。
この世界は、私の記憶どおりに動いている。
少なくとも、今のところは。
名簿をめくり、さらに視線を走らせる。
──私の名前は、なかった。
胸が、少しだけ軽くなる。
同時に、違和感が生まれる。
原作で、私に該当するキャラクターはいなかった。
姉は、物語の外の存在だったはずだ。
つまり私は、本来この世界に存在しない異物。
「……都合がいい、とは言えないわね」
そう呟いた瞬間、扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、年配の女性だった。
使用人だろうか。柔らかい笑みを浮かべている。
「本日、編入の手続きについてご説明がございます」
「……編入?」
聞き返すと、女性は当然のように頷いた。
「はい。あなた様は、本日よりこの寄宿学校に在籍されます」
頭が、追いつかない。
「えっと……その、私は」
「男性寮のお部屋をご用意いたしました。こちらの部屋で間違えないはずですが……」
──男性寮。
その言葉で、すべてが繋がった。
原作に、女の生徒はいない。
ここは、男子校。
そして私は、この世界に入り込むために“男”として設定されている。
喉が、ひくりと鳴る。
「……性別は?」
恐る恐る聞くと、女性は不思議そうに首を傾げた。
「もちろん、あなた様は男性ですよね?」
否定の余地は、なかった。
女性が去ったあと、私はベッドに腰を下ろした。
男として、編入。
男子校。
弟と、同じ場所で。
祖母の描いた物語が、容赦なく私を巻き込んでくる。
──けれど。
これは、好都合でもあった。
男であれば、弟のそばにいられる。
常に、見張れる。
原作イベントに、直接介入できる。
私は、立ち上がった。
クローゼットを開ける。
中に並んでいたのは、男子生徒用の制服。
迷いは、なかった。
シャツを手に取り、鏡の前で着替える。
胸を潰し、髪を整え、姿勢を正す。
鏡に映ったのは、見慣れた私ではない。
少し線の細い、無表情な少年。
「……これでいい」
自分に言い聞かせる。
私は姉だ。
守る側だ。
感傷に浸っている暇はない。
荷物をまとめ、廊下に出る。
石造りの床に、足音が響く。
そのとき──
「……あ」
角を曲がった先で、誰かとぶつかりそうになった。
反射的に顔を上げる。
そこにいたのは、
制服姿の少年だった。
柔らかい髪。
少し困ったように笑う目元。
──弟。
息が、止まる。
「ごめん、前見てなくて」
弟が言う。
その声は、記憶の中と同じだった。
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
私は、必死で平静を装った。
「……気にするな」
低めの声を作る。
視線を逸らす。
弟は一瞬、私を見つめ──そして微笑んだ。
「編入生? 今日からだよね」
「……ああ」
会話は、それだけだった。
弟は手を振り、廊下の向こうへ去っていく。
私は、その背中を見送りながら、強く拳を握りしめた。
(近い……)
原作では、入学初日。
弟は、ここで“運命の相手”と出会う。
そして、物語が動き出す。
──その役は、私じゃない。
絶対に、させない。
私は、歩き出す。
男子校という名の、BL世界の中心へ。
弟を守るための戦いは、
もう始まっている。




