第8話 晴香の部屋
大志は少し緊張していた。
見晴らしのいい坂の途中にあるマンションの一室。
いつも通っている白い校舎が、掃き出しの窓の向こうに小さく見えていた。
何となく以前口にした些細な一言。約束という程たいそうなものではなく、忘れてしまったとしてもお互い気を遣わない程度のもの。
そのまま気にも留めずに過ぎ去ってしまう筈だった約束未満の口約束は、学校帰りのちょっとした会話から時を戻すかのように再び歯車を回し始めたのだった。
「昨日どうだった?」
放課後の通学路で、大志と並んで帰路を辿っていた晴香が突然訊いた。
「あ、オリエンテーリングの事? 戸成はどこだっけ?」
「私らは水族館。面白かったんだから」
「俺は去年それだった。戸成がそう言うの分かるよ」
「それで先輩は?」
そう聞かれて、大志は昨日の事をありありと思い出す。最後にあの子が言った事、あれってどういう風に受け止めるべきか……。
「それでどこに行ったのよ」
すぐに返事を返さない大志に、晴香が早く言いなさいと急かす。
「ああ、えっと、観光牧場だよ。天気も良くっていい感じだった」
「へえ、なんだか面白そう。動物触れたりするのかな」
晴香は動物好きのようだった。
「そりゃもうベタベタに触ってきた。あいつらも迷惑そうだった」
「いいなー。私もヒトデとナマコに触って来たけど何だか違うのよね。あれを触って喜ぶ人っているのかしら」
「ちょっと気持ち悪いのがいいんだと思うよ。そうゆうスリルを味わいたい人って多いんだよ」
「ふーん」
晴香は首から提げた無骨なカメラを触りながら聞き流した。
「ねえ先輩、私けっこう写真撮ったんだ。見てくれる?」
晴香は背面の小さなスクリーンに昨日の成果を写し出した。
二人は一旦脚を止め画像を覗き込む。
「ちょっと暗くって見辛いな」
大志は素直な感想を述べた。
「ホントね。家のパソコンに入れたやつは綺麗に写ってたんだけど」
「へえ、魚の写真か。俺はモルモットとか……おお、そうだ!」
大志が急に声を上げた。
「なに? どうしたの突然」
「お土産買ってきたんだった」
大志は肩にかけていた鞄を漁って、小さな紙の包みを出した。
「え? 私に?」
「ああ。開けてみろよ」
ちょっと意外そうな顔をした晴香は、大志に手渡された掌に収まる様な紙の包みを開いてみた。
「これなあに?」
「モルモットの毛で作ったキーホルダー。まあまあ可愛いだろ」
「そうかな……ごわごわしててちょっと気味悪いけど……」
晴香は掌に収まる毛むくじゃらの物の感触を確かめて、微妙な顔をした。
「いらないなら返せ」
「いる。もう私のもんだもん」
晴香はお土産の不気味さは置いといて、嬉しそうにはにかんだ。
「名前つけよ。ハムちゃんってどうかな」
「モルモットだって。ハムちゃんはおかしいぞ」
「じゃあモルちゃん? いまいちね。天竺鼠って言うしテンちゃんにしよう」
「まあ何でもいいよ。名前を付けるのも変だと思うけど」
「いいの。先輩にはそうでも私にはこだわりがあるの」
「はいはい」
そしてまた二人は通学路を歩き始める。
晴香が少し見上げてみると、部活の無かった早い時間帯の空はまだまだ明るかった。
「ねえ、先輩……」
晴香は背の高い大志の横顔を見上げる。
「ありがとう……」
「どういたしまして」
晴香は一度唇を結んだあと躊躇いがちに口を開いた。
「去年の秋に家まで送ってくれたよね」
「ああ、自転車で送ってやった時の事?」
「そう。その時さ……」
晴香は次の言葉が出てきにくそうに一度口を閉じた。
「何だよ。言いにくい事か?」
大志はいつも言わなくてもいい事までしゃべり続ける晴香が口ごもるのを見て眉をひそめた。
「あの時……先輩言ったよね、今度私の部屋でミーティングしようって」
大志はそう言えばと頷いた。
「そうそう。滅茶苦茶見晴らしのいい戸成の家でミーティングしようって言ってたな。戸成が誘ってくれないから。やっぱり嫌なのかなって思ってた」
「私は先輩が言い出さなかったから、来たくないのかって思ってた」
言った後二人は顔を見合わせた。
どちらからともなく、へへへと笑いだす。
「今から来てよ」
「じゃあお邪魔しようかな」
そうして二人はいつもじゃあねと手を振る分かれ道に差し掛かる。
しかしその日の二人は同じ道を選び、離れる事は無かった。
エレベーターを降りた後、前を歩く晴香の背に向かって大志は声をかけた。
「やっぱり手土産ぐらい持ってきた方が良くなかったか」
「いいのよ。どうせママは帰ってくるの遅いし」
「初めて行く人の家には何か持ってくのが当たり前だと思うんだけど」
「そんなの気にしなくっていいよ。先輩頭硬すぎ」
晴香は自宅のドアのカギを開けて大志を招き入れた。
「私の部屋はこっち。でもちょっとここで待ってて」
晴香はそのまま大志を玄関で待たせて走って行った、
「部屋の中、滅茶苦茶荒れてるとか……」
大志はすっきりと整頓された玄関を見回しながらそう呟いた。
「さー、いいですよ」
晴香に呼ばれて部屋に入ると、いきなり窓から外の景色が素晴らしかった。
「凄いな。ここからの景色が毎日見れたら爽快だろうな」
「最初はね。毎日だからもう慣れちゃった」
晴香は座卓の脇に二つ座布団を置いて部屋を出て行った。
「飲み物とってくる。あんまし見ないでね」
見るなと言われても見ちゃうよ……。
大志は晴香の言いつけを破って部屋の中をしっかり観察した。
幸枝の部屋以外の女の子の部屋に上がり込むなんて初めてだった。
けっこう片付いてるじゃないか……。
なかなか整理整頓された部屋だった。いくつかある動物のクッションに大志は女の子だなあと、あらためて認識させられる。
そして女の子だなあと感じさせられたのは目に映るものだけではない。
何だかちょっといい匂いがするな……。
大志は部屋の臭いを鼻を動かして嗅いでみた。
男の部屋からは絶対に匂って来ない何かがこの部屋に充満している。これはいったい……。
「お待たせ」
鼻をひくつかせていた大志は飛び上がった。
「何? もしかしてなんか変なことしてた?」
「してない、してない。何もしてない」
何かしていた奴が慌てている様にしか見えなかった。
「怪しいな……」
晴香は少し頬を染めて疑わし気に大志を見た。
「気のせいだって。健全な高校生だから安心しろ」
「さあ、どうだか……」
晴香は疑わし気な視線を崩さず、持ってきたペットボトルのウーロン茶をグラスに注いだ。
「どうぞ」
「いただきます」
大志は一気に半分ほどグラスをあおる。
「いい部屋だな。戸成が前に言ってたみたいに、この部屋からも学校が見えるのかな」
「見えますよ。ほら」
晴香は掃き出しの大きな窓を開けた。
涼しい春の空気が部屋に入ってくる。
大志は腰を上げて晴香と並ぶようにして遠くの景色に目をやった。
「本当だ」
「でしょ」
並んで見下ろす二人の眼下には、普段大志が目にすることのない胸をすく様な景色が広がっていた。そして遠くには傾きかけた日差しを受けて浮き上がった白い校舎が見えた。
「なんだか綺麗だな」
「うん」
二人で一緒に並んで見たその景色は、本当に綺麗だった。




