第54話 晴香の思い
私立体育館では、あの副店長が言ったように、小学生のバレーボールの試合が行われていた。
観戦に訪れた父兄が賑やかな応援をしている中を、晴香は記憶を頼りに父親の姿を探した。
「写真も何も無いんだな」
「うん。ママが全部捨てちゃった。こんな感じだったって覚えてるから見れば分かるとは思うんだけど」
観客席はそこそこの人で埋まっており、あやふやな記憶で大勢の中から見つけ出すのはかなりの手間だった。
「先輩」
晴香は立ち止まって、繋いでいた大志の手を強く握った。
「あの人。きっとパパだ」
晴香の視線の先にある観客席には、少し白髪頭の男性が座って、試合を見守っていた。
若々しい感じの母親を知っていたので、視線の先の男の人は大志が思っていた感じとはだいぶ違っていた。
「間違いないのか?」
「うん。少し白髪が多いけど、パパに間違いないわ」
「戸成、お父さんの苗字って何て言うんだ?」
「八代って言うの。それがどうしたの」
「ちょっとここで待ってろ」
大志は一応確認のため白髪頭の男の苗字を確認しておこうと思った。
後ろの方の席まで移動し、大勢人が集まっているところで大志は息を吸い込んだ。
「やしろさーん!」
すると、先程晴香があの人だと言った白髪頭が振り向いた。
そしてその隣に座る中年の女性と、もう一人小学生らしき女の子も。
大志はそ知らぬふりをして人ごみに紛れた。
今ので晴香の父親が、娘の試合を妻ともう一人の娘を連れて観戦しに来ていることを確認できた。
あとはどうやって家族から父親を引き離すかだった。
「お待たせ」
「先輩、大胆過ぎ。びっくりしたじゃない」
「お前もいっつもあんな感じだよ。人のこと言えないだろ」
皮肉ってみたが、余裕のない晴香の表情は相変わらず硬い。
父親をどうやって引き離し、晴香と対面させるかを大志は考える。本来ならば晴香の行動力に頼りたいところだが、とてもじゃないがそんな感じではなかった。
なかなかいい案が浮かばない。
「ちょっと電話かけてくる」
「え? どこに?」
「すぐ戻る。ちょっと待っててくれ」
大志は館内の通路で幸枝に電話をした。
いい考えが浮かばず、じっくり作戦を立てるために加速した状態で落ち着いて考えようと思ったのだ。
「ゆきちゃん」
「あ、大ちゃん? そっちはどう?」
幸枝にはオープンキャンパスに一人で行くと言っていた。
「ああ、順調。悪いんだけど、またあれ頼めるかな」
「また? 何かあったの?」
「そう言う訳じゃないんだけど、考え事したくって時間短縮」
「なんだか最近そっちの使い方多いね。じゃあ行くよ」
「うん頼む」
「加速して」
一瞬で大志は加速世界の中に入った。
この状態ならば丸一日考えたとしても、一瞬で考えたのと同じ事になる。
大志はその場で落ち着いて考えを巡らせ始めた。
「お待たせ」
「あ、もういいの?」
行ったと思ったらすぐに帰って来た大志に、晴香は不思議そうな顔をした。
「ゆきちゃんに電話して加速した状態で計画を練った。今度は大丈夫だ」
「で、どんな計画?」
「まあ、シンプルな計画だよ。そのうちに生理現象でトイレに行くだろ。多分娘の試合が終わったタイミングで席を立つはずだ。あの家族は男はお父さんだけだから連れ立っていくことは無い。そこでトイレから出てきた所を待ち伏せる」
「成る程。それならパパは一人になってる」
「戸成はそこで声を掛けたらいい。俺は万が一、家族がこちらに来ないか見張ってるよ」
「うん、分かった」
大志が計画した通り。娘の試合が終わった時点で晴香の父は席を立った。
どうやら試合は勝ちあがったみたいで、三十分後にまた次の試合が始まりそうだった。
大志と晴香は父親がお手洗いに入って行くのを確認した。
しばらくすれば必ず父親は出てくる。
大志の隣で晴香は見た事も無い硬い表情をしていた。
「大丈夫か?」
「うん。多分……」
「俺は家族を見張りに行って来る。もし何か動きがあったとしても何とかして引き留めておくから心配するな」
「うん」
「おまえの気持ちを素直に言ってやれ」
大志は晴香の背中をトンと叩いて体育館に戻って行った。
残された晴香は硬い表情のまま、トイレの近くで父が出てくるのを待っていた。
首から提げた無骨な一眼レフ。
成長した自分の姿に気付いてくれないかも知れないが、このカメラを提げていればひょっとしたら向こうから気付いてくれるかも知れない。
晴香は胸を高鳴らせて待った。
やがてハンカチで手を拭きながら父親は手洗いから出て来た、
ゆっくりした足どりで、通路に佇む晴香の方へとやってくる。
晴香は父の姿に真正面から向かい合う。
白髪がたくさんある父の姿には、小さいころ遊んでもらった面影があった。
しょっちゅう母と喧嘩していた頃の、険しい父の顔は今は穏やかだった。
パパ……。
普通なら他人をそこまでまじまじと見続ける事は無いであろう。
父の顔から目の離せなくなった晴香を、体育館へ戻ろうとしていた父は訝しげな顔で見つめた。
しかし長い年月は父親以上に娘の姿を成長させ変化させていたのだろう。父親はそのまま晴香の横を通り過ぎようとした。
すくんでしまった脚も、思うように発する事ができない声も、通り過ぎようとしている父親に何一つ届けられないまま、今その瞬間は終わろうとしていた。
その時、晴香の掌に大志のあの大きな肉厚の掌の感触が甦った。
俺がついてる。
私の代わりに前を走ってやるとあの人は言った。
私だって。
晴香は振り返り、去り行こうとしていた背中に声を掛けようとした。
「パ……」
やっと出てこようとした一言は見知らぬ少女のひと言にかき消された。
「お父さん」
長い髪を後ろに括った少女が駆けてきて、そう声を掛けた。
少女は父親の手を取り、笑顔を浮かべた。
「二回戦も勝ちあがったよ。次勝ったら、ベストエイトに入るんだ」
「そうか。いい試合だったよ。頑張りなさい」
「うん。頑張る。優勝したら何か買ってね」
「ああ。何がいい?」
「考えとく。じゃあ、ミーティング行ってくるね」
もしかすると自分に向けられていたであろう笑顔は、当たり前のようにあの少女に向けられていた。
やっと口を突いて出てきかけた言葉を晴香は呑み込んだ。
何も気付かず戻って行く背中が遠ざかる。
その背中はぼんやりと滲んで、やがて見えなくなった。
「戸成!」
肩を揺さぶられて、うずくまっていた晴香は顔を上げた。
「どうした? 話は出来たのか?」
晴香はぽろぽろと涙を流しながら首を横に小さく振った。
「声を掛けれなかったのか?」
「声を掛けようとした。でも」
言葉が詰まる。また涙が晴香の目からこぼれだした。
「娘さんが来たの。お父さんに試合の報告をしてた」
「そうか、それで……」
大志は肩を落とす晴香の背中をさすってやった。
「すまない。まさか試合していた娘が現れるとは思ってなかった。また二人になれるよう考える。いざとなったら加速して連れてきてでも……」
「もう、いいや」
「え?」
「先輩、私もういい。分かったの。パパはもう私のパパじゃなくって別の誰かのお父さんなんだって。だからもういいんだ。これではっきりしたし諦められる」
「戸成、ちょっと待て。諦められるって、そんな訳ないだろ」
「いいの。もう決めたの」
「そんな簡単に割り切れないからここに来たんだろ。せめてひと言、話をしてからにしろよ」
「先輩には関係ない!」
晴香は立ちあがって大志に背を向けて歩き出した。
すぐにその後を追う大志を振り切るように、晴香は早足で廊下を歩いて行く。そして晴香は走り出した。
「戸成!」
体育館を飛び出した晴香は、大志の制止を耳に留めずそのまま歩道を走って行った。
大志は晴香の足の速さに着いて行けず、引き離される。
やがて立ち止まった晴香に追いついた大志は、その肩に手をかけた。
振り返った晴香は、荒い息をつく大志の胸に黙って顔をうずめた。
一瞬戸惑った大志だったが、嗚咽するその肩をそっと抱いてやった。
しばらくそうして晴香は涙を流し続けた。




