第52話 二人きりの夜
「ねえ、先輩、お酒飲もうよ」
大志が風呂から上がってくるのを待っていたように、晴香はそう言った。
「え? 何言ってんだ、駄目に決まってるだろ」
「もう、硬いんだから。いいじゃない、誰も怒る人いないよ」
「そういう問題じゃなくって常識的な問題なの。俺はお前が羽目をはずし過ぎないように見張っているからな」
「つまんないの」
晴香は口を尖らせて大志を軽く睨む。
浴衣姿で見せるそんな姿に大志の頬が少し紅くなった。
晴香はつまらなさそうに急須のお茶を二つの湯呑に注ぐ。
湯気の立つ湯呑を大志の前に置いて、自分の湯呑を手に取った。
一口飲んでから晴香はふーと一息つく。
「明日か……」
ぽつりと口にした晴香の表情に、普段は見せる事の無い不安や躊躇いが浮かんでいるのが伺えた。
平気そうな顔をして軽口をたたいている目の前の少女の見せた一瞬の表情に、何と声を掛けてやればいいのか分からなかった。
他人の踏み込んでいい問題ではない。見てしまったとしても目をそらして気付かないふりをして通り過ぎる事もできた。
しかしどうしても立ち止まって何かしてやりたかった。
「なあ、戸成、ビールって飲んだことあるか?」
「え? そうね、ずっと昔に一口ぐらいは」
「俺も一緒。昔、父さんが旨そうに飲んでたやつをもらって飲んでみた」
「で、どうだった?」
「ゲーって感じだったよ。戸成は?」
「私も一緒。とにかく苦くって、頼まれてもヤダって思った」
「あれって今でも不味いのかな。味覚って変わるんだよな」
「え? 飲んでみたいって事?」
「まあ、そうかな。物は試しっていうし、こうゆう機会もなかなか無いしな」
「うん。じゃあ試しに飲んでみようよ。雰囲気出して乾杯してからさ」
晴香は大志の気が変わらないうちにと、冷蔵庫から缶ビールを二本出してきた。
よくテレビドラマなどで悩み事を相談するのとかは酒の席が多い。
恐らくアルコールが、溜まったうっ憤を、外に出すのに一役買っているのだろう。
未成年の自分達にも、人に簡単に言えない様な悩みぐらいある。
この目の前の少女の胸にあるモヤモヤが少しでも晴れるなら、湯呑のお茶でなくこちらを選ぶのが正しいのだ。
多分適切なアドバイスや心に響く様な気の利いた言葉は言えないだろう。ならばせめてたくさん話しを聞いてやり、寂しくない様に寄り添っていてやろう。
それならば今の自分にもできる筈だった。
プシュッと缶ビールの栓を開けてシューという音を楽しむ。
「あ、何に乾杯しようかな?」
「何でもいいよ。そこ、こだわるの?」
「記念すべき初ビールだし、なんかいいの無いかしら、初オープンキャンパスに。なんか違うわね」
「じゃあ俺が音頭を取るよ」
大志は缶ビールを掲げる。
「良き相棒に」
晴香はその一言に嬉しそうに目を細めた。
「うん。良き相棒に」
「乾杯」
「かんぱーい」
そして缶に口を付けグッといった。
二人同時に顔をしかめる。
「何だこれ……」
「マズッ。やっぱり無理かも」
渋い顔をしながら二人は笑い合う。
もう一口飲んでみたが、やはり美味しいとは思えなかった。
晴香は冷蔵庫の下側にあった甘くておいしい桃のラベルやつを出してきて、それを飲み始めた。ビールと同程度のアルコールは入っているものの、ジュースみたいだと喜んでいる。
「そりゃ、おまえはいいよ」
大志の前には晴香がちょっとだけ口を付けた缶ビールが置かれている。
勿体ないし先輩にあげると押し付けられた。まあこうなるだろうとは思っていたが。
いちいち苦い顔をしながら、大志はちびちびビールを仕方なく飲むのだった。
そのうちに、ほんの少し晴香の頬が紅くなってきたのに大志は気が付いた。
「ひょっとして少し酔ってる?」
「私が? いえ特には。ちょっと暑いかなってそれぐらいだよ」
多分その状態を酔い始めているというのだろう。大志も苦いのを我慢して飲み切った缶ビールのせいか、なんだか少し暑くなってきだしていた。
しかし、まだ大志の前には晴香の飲みさしが残っている。
本当言うと晴香の飲んでる甘いやつを自分も飲みたかった。
「フー」
火照ったような肌を冷ましたいのか、晴香の浴衣が少し緩んでいる。さっきから大志は、差し向いに座っている晴香の胸元が視界に入るので、目のやり場に困っていた。
「そう言う先輩が酔ってない? ちょっと赤くなってるよ」
「え? そうか? まあそうかも」
「無理しないでいいよ。私の分飲んじゃったら辛いんじゃない?」
「ああ、まあ大丈夫だよ。勿体ないしな」
「へへへ、ごめんね。私だけ美味しいの頂いちゃって」
晴香は陽気にまた一口喉を鳴らして飲む。
ほんの少し開いた胸元が何だか艶めかしい。変に意識し始めた自分を苦いビールの力を借りて紛らわせる。
冷たく無くなったら余計飲めたもんじゃないな。
それから何度も渋い顔をしながら、上機嫌になってきた晴香の話を聞いてやったのだった。
「先輩、私ちょっと横になりたい」
「馬鹿。飲み過ぎるからだろ。最初から飛ばし過ぎなんだよ」
「だってジュースみたいで美味しかったんだもん」
晴香は先に敷いてあった布団に倒れ込んでいった。
出来るだけ布団は離しておいたが、同じ部屋に寝ている事は変わらないので相当な緊張感があった。
それでもお酒のせいか眠気がかなりあったので、大志も電気を消して布団に入る事にした。
「ねえ先輩」
「え?」
「こっちに来ないでね」
「分かってるって、行かないよ」
消灯したので晴香の様子はまるで分らなかったが、何となくこちらを向いている様な気がした。
「じゃあお休み」
「おやすみなさい」
仰向けになって大志は目を閉じる。
しばらくそうしていると頭の中に色々浮かんできて、やはりすんなりとは眠れそうにない事を悟った。
けっこう疲れてる筈なのにな。
大志は静かになった晴香の方に首を回す。
かなり暗かったが、晴香もこちらを向いて目を開けているのが見えた。
「眠れないのか?」
「うん」
「明日の事、気になるんだろうな」
「うん」
きっと複雑な気持ちを抱えているに違いない。すべてを理解出来る筈もないが、察するぐらいはできた。ずっと会っていなかった父と再会する。それがどれだけの重みをもつのか、はかりようも無かった。
「大丈夫。俺がついてる」
「うん。そうだね」
「役に立たないかもだけど」
「うん。でもありがと」
一度静かになり、眠ったのかと思った時にまた声が聴こえた。
「ねえ先輩」
「ん?」
「何も聞かなかったね。私とパパの事」
「え? ああ、無理に言わなくっていいよ」
「聞いてくれる?」
「ああ。話せるんなら聞くよ」
晴香は布団の中で大志に顔を向けたまま話し始めた。
「まだ私が小さかった頃、パパとママはお互いに仕事をしていていつも忙しそうにしてた。パパは今の会社の前はアパレル関係の仕事をしていて、あまり帰ってこないパパと、育児しながら働き続けたママとの間は上手くいってなかったらしいの。そのうちにね、ママはうつ病を発症したの」
「……」
「それでも忙しかったパパは病気のママの事を放って、なかなか家に帰ってこなかった。私は病状が悪化したママが入院してからおばあちゃんの家にしばらく預けられたわ。ママが良くなって退院した後、パパは仕事がうまくいきだして家庭を修復しようと頑張ったみたいだけどママはパパを許さなかった」
淡々と話す晴香の声に、その感情を抑えているのを大志は感じ取っていた。
「それから再び三人で生活し始めたけれども、二人の関係は冷めきっていたわ。そして私が小学校2年の時、パパは帰って来なくなった」
そこからの話は晴香の母からあらましを聞かせれていた。
大志は話を続けようとする晴香の気持ちを思うと胸が痛んだ。
「パパが出て行った後、ママはパパの話をしなくなった。ずっと後になって知らない女の人と子供を作って出て行ったと聞かされた。パパとはそれから一度も会っていないの。でも毎年私の誕生日にはパパから必ず手紙とプレゼントが届いた。中学三年の時の誕生日にパパは私にいつものようにプレゼントと手紙をくれた」
「……」
「手紙には入学祝に欲しいものはないかと書かれていた。私はパパに返事を書いたわ。そして高校生になってすぐ、パパからプレゼントと手紙が送られてきた。高校に入ったら写真部に入ろうかなって送った手紙を読んであのカメラを送って来てくれたの。そして手紙には謝罪がしたためられていた」
少し晴香の声が震えはじめた。
「今の家庭の事情でこれまでのようにいかなくなったと。これを最後にもうプレゼントを贈れないし手紙も送らないと書かれてた。パパはその年の誕生日には手紙もくれなかった。そして今年の誕生日も」
そして晴香は痛みを吐き出すように、胸の中にあったものを口にした。
「酷い父親だって私も思ってる。でも……それでも……パパを失いたくない……」
鼻をすする音が聞こえてくる。
大志は声を掛けてやる事が出来ずに天井を向いて目を閉じる。
押し殺してはいるが、小さく嗚咽している様な声が聞こえてくる。
その痛みの全てを分かるわけではない。苦しみから救い出せる訳でもない。
それでも涙を流して苦しんでいる晴香を放っておける事など出来なかった。
大志は身を起こすと晴香の傍に行って頭に手をやった。
「そうか。分かった」
「……」
「おまえが眠るまでこうしてるよ」
「うん……」
そして髪を撫でてやっているうちに嗚咽は収まり、小さな寝息が聞こえてきた。
大志は晴香がいい夢を見られるようにと、心から願ったのだった。




