第1話 春、新しい季節
風に吹かれて、少し早く咲いてしまった気の早い桜の花びらが陽光の下で揺れていた。
もう後一週間もすれば薄い桜色に染まるこの樹々の下を駆けて行く一人の少女がいる。
少女は制服のスカートをひらりと舞わせて先を急ぐ。
その首には小柄な少女に不釣り合いに見える無骨な一眼レフのカメラが提げられていた。
踏みだす度に揺れるカメラの重さを片手で押さえながら、少女は校門をくぐった。
そして中庭を抜け、白い校舎の隣にある建屋に向かって息を切らして駆けてゆく。
すぐ傍まで来ると開放した扉の向こうから生徒達の大きな声援が聴こえてきた。
中では相当な盛り上がりを見せている様だった。
スニーカーをもどかしそうに脱いで、開け放った扉から入ってきた少女は、独特の臭いのする武道場で一人の少年の姿を探した。
そして少女は首から提げた一眼レフのレンズカバーを外すと、脇を締めてカメラを構えファインダーを覗き込んだ。
そしてシャッターを切った。
機械式フォーカルプレーンシャッターの小気味良いシャッター幕が下りる音が少女の耳に爽快な音を届ける。
「いけー! やっちゃえ!」
少女の口から檄が飛んだ。
少女の覗き込むファインダーの先には柔道着に身を包んだ二人の高校生が畳の上で揉み合い、今まさに試合を決するために抑え込みに入っていた。
「抑え込み一本!」
審判の良く通る声が響いた。
そして少女はファインダーから目を離し満面の笑顔を浮かべた。
「やったー!」
思わず飛び上がった少女のよくとおる声は、試合を終えた少年の耳にも届いた。
そして抑え込みを解いた少年は、応援してくれた少女と目を合わせて白い歯を見せたのだった。
「やったね。先輩」
頭一つ分背の高い少年と並んで歩く戸成晴香はいつになく上機嫌だった。
「まぐれだよ、まぐれ」
謙遜しているのか少し頬を染めて、丸井大志はそんな晴香の誉め言葉をはぐらかそうとした。
「このこのー」
晴香は肘で大志の脇腹をぐりぐりと押してくる。
「やめろよ。そこちょっと弱いんだ」
大志はくすぐったかったみたいで、ヒヒヒと笑いながら手で脇腹を守った。
春休み中に行われた交流試合。
弱小柔道部と名高いY高校柔道部は団体戦では初戦で敗れはしたものの、一回戦で大志は他校との試合で始めて勝利を収めたのだった。
「今日のはホントまぐれ。相手が足を出してきた時に空ぶってくれたんだ。バランスを勝手に崩してくれた相手を抑え込んでそのまま勝っちゃった」
「それでもいいの。勝ちは勝ちよ。ねえ先輩、今日は特別になんか奢ってあげる」
いつも奢らされてばっかりの大志はすぐに反応した。
「ホントか。信じていいのか?」
「なによ。私ってそんなに疑わしいわけ?」
上機嫌から不満顔になった晴香に大志は大きく首を横に振った。
「いやいや、そんな事無い無い。お前をいっつも信頼してるよ。相棒だもんな」
「そうよ。私みたいな優秀な相棒はどこを探してもいないんだから。大事にした方がいいですよ」
「自分で言うなよ……」
晴香に聞こえない様にそう呟いた大志だったが、生意気な相棒の事を本当に信頼しているのは間違いなかった。
まだポツポツとしか咲いていない桜の木の下を歩きながら、二人は何を食べようかと相談をする。
そして結局晴香の食べたかったクレープに落ち着いた。
「まあいいや。奢ってもらえるなんて珍しいし」
「へへへ。ちょっと甘いもの食べたくなっちゃったんだ」
二人の頭上に広がるまだ花開いていない桜のつぼみの先には、花びらになろうとしている兆しが見える。
それは肩を並べて歩く二人にそっくりで、もうそこまで来ている春の訪れを伝えていた。




