第47話
再びチューブを外すために自力で飲食して、今まで看護師さんに任せきりだった体を拭き清めることも自分でやった。まだ腹は痛むけれど、調子がいい時はベッドから起き上がって歩いた。自由に動けるようになると、やがて尿道に入れられていたチューブも外れた。
腹の傷はヘソから下に向かって縦5、6センチほどの長さに縫われている。今は皮膚が引きつれているし痛々しい赤味と腫れがあるけれど、長い年月をかければ薄くなるらしい。乾燥させないようにワセリン軟膏を塗ることが大事で、根気強く継続するようにと説明を受けた。
医者の先生も看護師さんも、ようやく私が前向きになったと思ったのか喜んだ。まあ、ある意味生きる気力を取り戻したと言っても過言ではない。魔女に会って秘薬を購入するための体力づくりをしているのだから。
そうして10月の半ばに入った頃、ようやく家族が面会にやって来た。母はいつも通り憮然とした不満げな表情。父は表面上私の心配をしているように見える。2人の間に挟まるカガリは――カガリは、どうだろう。
まるで何も分かっていない幼子のように不思議そうな顔で、親指をくわえてじっとこちらを見ている。
「――いい年した大人が、体調管理すらまともにできないなんて」
開口一番母から浴びせられた言葉は、娘に対する同情でも心配でもなく単なる嫌味だった。あらかじめ予想していたこととは言え、本当に気力が削がれる思いだ。
共に家で暮らしていた時は多少庇う素振りを見せていた父も、家出同然で飛び出した私のことはもう庇えないのか、気まずげに目を逸らすだけで母を止めようともしない。
「もう子供のできない体になったんですって? ゴードンとの結婚だけれど、諦めた方が賢明なんじゃないかしら。かつての商会長夫人のように、子ができないからと蔑ろにされても耐えられると言うなら止めないけれど」
「ええ、分かっているわ」
「まあ、意外と元気そうだし……そろそろ退院も近いんでしょう? 先に言っておくけど、あの時散々カガリを傷付けておいて今更ウチに帰ってこようなんて、そんな虫のいい話はないわよ。ご自慢の体で死ぬほど稼いでいるんでしょうし、どこか他所で1人暮らししなさいね」
「……ご自慢の体って何?」
「そんな汚らわしいこと、カガリの前で言える訳ないでしょ? そんなことをしているから、子宮が無くなったのよ」
思わずフッと鼻を鳴らした。こんなもの、自嘲するしかないではないか。
病気して、手術までした娘に向かって言うのがこんな言葉だけとは……本当に、これほどアクの強い人間を「守ろう」なんて思い上がりにも程があったのだ。
この人は弱く見えても我が強い。ただ精神的に病んでいるというだけかも知れないけれど、商会の部長が「元々陰険でアレだった」と評するくらいだから、きっと本当は打たれ強かったのだろう。
弱々しく言われっ放しだったのは、単なる計算なのかも知れない。外見的に釣り合わない父を手に入れてやっかまれて、調子に乗ったところや鼻持ちならないところを見せれば、更に大きな反感を買うだろう。あえて弱く見せることで周囲のガス抜きをして、上手く立ち回っていたとしたら――?
その周到な計算を無邪気な正義感で台無しにしてしまったと言うなら、確かに私の行動は罪深い。
きっと母は、元々プライドが高いのだ。それを「子に守られていて、どちらが母親なんだか」「子に甘えられている姿を見たことがない、情けない」なんて揶揄されれば、矜持を傷付けられて我慢ならないだろう。
守って欲しいなんて言われてもいないのに、余計な世話を焼いた私が悪かったのだ。たった一度無視されたからと気に病んで極端に怯えて、心が弱いのは私の方だったのに。
母とその怒りをやっと正しく理解できたような気がして、改めて自分の過ちと愚かさを噛み締める。
そうして反論もできずに黙り込んでいると、重い雰囲気の病室には場違いなほど明るい声が響いた。
「お姉ちゃん、結婚できないの? 病気、治らない? もしかして死んじゃう……?」
ようやく口から親指を離したカガリがベッドに両手をつき、上目遣いで問いかけてくる。
「……死なないわ。死なないけど、もう赤ちゃんができない体になっちゃったの」
「赤ちゃんができないと、どうして結婚できないの?」
「ゴードンは商会の跡取りでしょう? あそこの商会には長い歴史があってね、ずっと家族経営で……それで、跡取りの子供ができないと絶対にダメなの。子供は他所の子じゃなくて、ゴードンと血の繋がった子じゃないといけないから――」
「そうなの? じゃあ、お義兄ちゃんには赤ちゃんだけ別の人と作ってもらえば?」
子供だからこその無邪気さか、無知で純粋なのか。事もなげに言うカガリに、私は眉尻を下げた。まだ子供を作る方法すら分かっていないのだろう、キャベツ畑に生えるかコウノトリが運んで来ると信じているタチかも知れない。
「それは無理だわ、耐えられない……好きだから――本当に好きだから、私は絶対に耐えられないの。それなら最初から結婚を諦めた方が、まだマシよ」
「……じゃあ、ゴードンとはバイバイ?」
人の口からハッキリ言われると、余計に胸が抉られる思いだった。鼻の奥がツンと痛んで、声を震わせながらようよう「そうかも知れないわね」と答える。父母の前で泣いて堪るかなんて、私はこんな時でも可愛げがなかった。
するとカガリは、口の端を上げて愛らしく笑う。
「――要らないなら、私にちょうだい?」
「は……?」
カガリは、えへへと子供らしく笑い、くるりと踵を返して母の腹に顔を埋めた。母は意外そうに目を丸めて、「カガリ、ゴードンのことが好きだったの? どうしてもっと早く言わないの」と彼女の頭を撫でている。
その言い草はまるで、もっと早くその事実を知っていれば、どんな手を使ってでも私からゴードンを取り上げてカガリに宛がったのに――と言っているようなものだった。
物理的な強さによる安心感から、カガリがゴードンに価値を見出していることは知っていた。しかし、だからと言って私から奪おうとまでするとは思いもしなかった。
――いや、もう私のモノでもないのだから、こんなことを思うのがそもそもお門違いなのか。いくら必死になったところで、周囲が認めなければ――私の味方がゴードン1人だけだったら、どうにもできない。
だって、商会長夫妻は子供をつくれないお飾りの妻となる私の存在を疎ましく思うだろう。ゴードンは私が傍に居る限り、頑なに愛人づくりを拒むと分かり切っているのだから。
この父母とて、カガリがゴードンを欲しがっていると分かれば、結婚の同意書にサインするはずがなかった。
「だってぇ~、人を好きになるの初めてだから恥ずかしかったんだもん~。本当はずっとゴードンと結婚したかったけど、お姉ちゃんが許してくれそうになかったから」
どこまでも場違いな、キャーという子供らしい高い声が響く。目元を緩めて「あらあら」なんて言っている母に、何も言わない父。
――ああ、場違いなのは、私の存在か。
私は「やめて」も「ダメ」も、何も言えずにただ家族団らんを見ているしかなかった。カガリの言う「好き」の、なんと軽い響きだろうか。じくじくと痛む腹の傷跡をそっと手で押さえて、急ぎ魔女の森へ向かわねばならないと決意する。
せめて子宮を取り戻して、また子を産める体になれば。そうすれば、商会長夫妻だけは私の味方になってくれるかも知れない。
この人たちが結婚の同意書にサインしてくれなくたって、最悪既成事実を作ってしまえば良いのだ。ゴードンを妹に奪われないようにするためには、世間体がどうのこうのと言っている場合ではない。




