第37話
――その日は結局、どこからか事件を知ったらしい怒り心頭の母がカガリを迎えに来た。「やっぱり外になんて出すんじゃなかった! どうしてカガリがこんな目に!?」と激しく取り乱した様子だったけれど、意外なことにすっかり冷静になったカガリが上手く宥めていた。
応接室ではあれだけ泣いていたのに、笑みさえ浮かべて「も~大袈裟よ、ママ。それに、ママが迎えに来てくれたからもう何も怖くないもん!」なんてゴマを擦る余裕まで見せた。きっと、どうにか母を丸め込み、軟禁だけは避けたいと思ってのことだろう。
最終的には笑顔で母と手を繋ぎ、「お姉ちゃん、職員さん、お邪魔しました~! また明日、今度はお友達と遊びに来ます~!」なんて愛想を振りまいて帰って行った。
――正直、延々と「ずるい」「いいなあ」なんて言われたことについては複雑な思いだ。だって、本当に狡いのは誰なのか。私が過去、何度カガリを見て「この子は両親からまともに愛されて、いいなあ」と羨んだことか。
確かに唯一無二の存在であるゴードンは自慢だ。ありとあらゆる面から見て、本当に自慢の男だ。彼さえ居れば何も怖くないのだから。
ただ……なんと言うべきか。世の中は確かに損得勘定で成り立っているし、心に天秤を抱えているし、人間は誰しもが商人なのだというのも、分かる。
分かるけれど、決してこの世の何もかもがキッチリ勘定できる訳ではないのだ。人によっては幸せか不幸せか、そのバランスがおかしいと思う時がある。
私などは――自業自得な面も多分にあるけれど――幼少期より何かと苦労しているのだから、人生の伴侶くらい最高であっても良いではないか。そのくらいでようやく人生の採算、バランスが取れるのではないか? と思う。
カガリは生まれてからずっと苦労知らずで、このまま才色兼備の美女に育つのは間違いなさそうだ。両親からも、誰からも「可愛い」と愛されて、いつも人に囲まれて――それは多少怖い目に遭って初めて、幸と不幸のバランスがとんとんなのでは? なんて冷たいことを考えてしまう。
もちろん、羨ましいと嫉妬したとしても可愛い妹だ。冷たいことを考えながらも切り捨てられないし、今日も男に攫われかけたという話を聞いただけで、頭から氷水をかけられたような酷い気持ちにさせられた。
だから――別に、「酷い目に遭え」とは思っていないのだ。家族だし、幸せになって欲しいとは思うけれど……私を羨むのはお門違いだ。
果たして、自分がどれだけ恵まれているのか。何もかもが物心つく前から与えられたものばかりだから、きっとあの子は理解していないのだ。
ゴードンと話すようになってから随分まともになったとは言え、やはり母から受けた英才教育が抜けないのか――どうも、歪みが目立つ。
もしかすると、カガリはいまだにひび割れた花瓶なのだろうか。際限なく欲しがって、なんにでも手を出して。いくら上から愛情を注がれても、注いだそばから漏れだしてしまう。
「――はあ、嫌な事ばかり考えているせいか気持ち悪くなってきたわ……」
私の独り言は、広い第二倉庫の壁に吸収されてしまった。私を信頼して仕事を任せてくれた商会長夫妻に悪いと思いつつ、つい他に誰も居ないからと物陰にしゃがみ込んだ。
どうも私はストレスに弱いらしい。嫌なことや不測の事態が続くとすぐさま頭痛に襲われる。胃も昔からそんなに強くないし、今は月経前で余計に気分が悪い。
――通常業務を終えた私は、当初の予定通り残業に勤しんだ。一時は「まずは病院で検査をしてから残業すれば良い」と思ったけれど、やはり商会長夫妻から大きな信頼を得ていると確信してしまったからには、どうしても期待に応えたかった。
ゴードンの「倉庫整理が済まなければ、結婚式の予定に狂いが生じる」という言葉も大きいだろう。絶対に式は遅れさせたくない。
「カガリは……もしかして、ゴードンが好きになったのかしら。それとも使えると判断した?」
両膝を抱えたまま、ぽつりと呟いた。そんなはずがないと思いつつも、なぜだか胸の奥がモヤついた。ずっと言い知れぬ不安感を抱いている。
あの子はまだ8歳の少女だけれど、阿呆に見えて聡明な「やれば出来る子」だ。演技派の女優でもある。
普段は憎まれ口の応酬をする犬猿の仲とは言え、カガリがゴードンの前でだけ羊の皮を脱ぎ捨てているのは間違いない。何も、彼の前で人が変わるのは私だけではないのだ。
あんなに活き活きと口汚い言葉を吐くカガリは他で見たことがない。ただゴードンのことが気に入らないから二面性があるだけかと思っていたけれど、裏を返せば唯一素を見せられる相手ということでもある。
私の関知しないところで彼から色んな話を聞いて勉強しているようだし、きっと2人にしか分からないような話もあるだろう。
あまりにも「ずるい」「いいなあ」という呪文を聞き過ぎて、怖くなってしまった。はっきりと言葉にされた訳ではないけれど、なんだか暗に「お姉ちゃんは私と違って不美人だから、なんの危険もないじゃない。私は8歳で命の危機を感じているんだから、強いゴードンに守られるべきは私でしょう?」と問いかけられたような気がしたのだ。
それは「好き」という感情とは違うのかも知れない。今のカガリにとって、自分の身を守るための最善策が「ゴードンを傍に置くこと」というだけなのかも知れない。
そんな打算的な思惑がチラついているにも関わらず、彼の愛が妹に奪われてしまうような心地になった。――まるで、両親の愛をさも当然のように独占した時と同じように。
だって、ゴードンが私の何を「良い」と思っているのか分からないのだ。そんな浮ついた状態で安心できるはずもなかった。
誰よりも信頼している相手なのに。彼が私を裏切るはずがないと、あれだけ胸を張って言えていたのに……。今は子供だから良いけれど、カガリが美しい女性に成長した時、どうなるだろうか。
「最悪、後になって離婚を突き付けられるとか……? それとも堂々と浮気? 実の姉妹で1人の男を共有するなんて、笑えないわね――」
自嘲するように鼻を鳴らして、「共有なら、まだ良心的かも」なんて呟いた。
私の唯一の安らぎが、立場が消えてしまうかも知れない。そうならないようには、どうすべきか――やはり仕事に精を出して、彼の両親を味方に付けるのが一番なのではないだろうか。
他人の心を思い通りに捻じ曲げることはできない。もしもゴードンとカガリが想い合うような未来が訪れた時、結局私には何もできないのだろう。
ただ義理でも親身になってくれる両親が居れば、まだ耐えられるかも知れない。
「ううん、そんなの無理でしょうね……というか私って、本当に仕事するしか取り柄がないんだわ……」
ふと、家出した時に母から侮辱されたことを思い出して凹んだ。それは自信喪失して当然だ、私は妹と違いすぎた――。




