第26話
互いの体温で、すっかりぬるくなった布。それを取り払うと、カガリの瞳は乾くどころか分厚い涙の膜を張っていた。私に「恥ずかしい」と言われた怒りなのか、それとも悲しみなのかは分からない。少なくとも目の周りの赤味は落ち着いたので、それで良しとしよう。
「カガリに対する嫉妬――ヤキモチでも嫌がらせでもなく、正直に話すわ。母さんや父さんに守られたまま大人になっても、それはあなたにとって得にはならないの」
相手は子供なのに得を語るなんて、やっぱり商人の近くに居すぎたのかしら。発した言葉に自分で笑いそうになりながら続けた。
「あの2人が生きている間はカガリも楽しいし、安全だと思うわ。でも……あと何年一緒に居られる? 病気や怪我をせずに健康だったとしても、きっと30年もすれば死んでしまう」
「し、死ぬ? なんで? パパとママも、私を置いて行くってこと……?」
「生き物は寿命を迎えたら死ぬのよ、例外はない。カガリを置いて行きたくて死ぬ訳じゃなくて、こればかりはワガママを言っても仕方がないわ。母さんや父さんだって、可愛いあなたを1人残して死にたくないに決まっている――でも、どちらのワガママも受け入れられないの」
甘やかされて育ったカガリに死生観を説いたって、無駄かも――。やや不安に思ったけれど、ショックを受けた表情でようよう頷く彼女を見る限り、意外なことに理解しているのではないだろうか。
道徳の話は学校の授業でもやるはずだ。この子は宿題はからきしだけれど、もしかすると学校では真面目に授業を受けているのかも知れない。
「今のカガリは、両親に守られているから楽しいの。危ないことをする前に止められて、嫌な人が近付こうとしたら遠ざけてくれる。……まあ、手や目の届かない学校とか、通学路では守りきれないみたいだけど――つまり、そういうことよ」
「そういうこと?」
カガリは今、両親を喜ばせるためだけに生きていると言っても過言ではない。
本人が心のどこかで恥ずかしいと思っていても、自立しようものなら母が怒り狂うから立ち上がれない。父はいつだって母を宥めるのに必死で、彼の心の安寧を願うならば母を大人しくさせておくに限る。
つまり、母の望む「弱々しくて保護者が居なければ何もできない、甘えん坊の子供」で居るしかないのだ。期限は母が満足して子離れできるまで――と言ったって、あの調子では死ぬまで満足しないだろう。
ただ、そこまでして両親を喜ばせても、まだ足りない。カガリの安全がいついかなる時も100%守られているのかと言えば、決してそうではないのだ。
学校で勉強しているとなれば、参観日でもない限り両親は顔を出せない。学校から家までの通学路に四六時中張り付いていれば、それはもう過保護の領域だし……そもそも不審者だ。
いくら我が子のことが心配でも、他にそんな真似をしている親は居ない。学校としても他の保護者としても、許せるはずがないではないか。
そうして目を離した隙にカガリが悪意に晒されても、彼らは手も足も出せないのだ。
だからこそ気の強い同級生に「ワガママ」「可愛いだけのくせに」と口うるさく責められて、近所の人から「姉と大違い」「依存症の母親も含めて恥ずかしい」なんて揶揄される。
結局のところ、両親に固執していても無駄なのだ。彼らには年齢や立場上、どうしたって入れない領域がある。ただそれも、もしも学校の中に――通学路の途中に、ありとあらゆる場所に。両親と同じくらいカガリを守って助けて、問答無用で味方になってくれる者が居れば、話は変わってくる。
カガリが今すべきなのは、変わること。両親の前で無理に自立する必要はない。ただ家族以外のコミュニティでは、真面目にしていた方が人から好かれるだろう。
いくら見た目が良くたって、将来ソレだけに釣られて彼女に群がるような男はクズだ。きっとそんな男に愛されても、彼女は心の底から幸せにはなれないはず。
「つまり――なんて言えば良いのかしら。八方美人……だと意味合いが悪いから、要領よく生きなさい……? うん、そうね、要領よく生きなさい。両親の前では、これからも甘えん坊のまま生きれば良いわ。その方が2人は喜ぶし、家も平和でしょうから」
カガリはどこか不服そうに唇を尖らせているけれど、私の言葉に真剣に耳を傾けている。いつもならすぐ癇癪を起すのに、今は文句を言ってくることもない。
「でも、外では――学校では「何もできない可愛いだけのカガリ」より、「なんでもできて可愛いカガリ」の方が愛されるわ。性別問わず味方になってくれるお友達も増えるでしょうし、そうなれば口うるさく意地悪な注意をする同級生も黙るんじゃない? 人気者のカガリに嫌味を言ったなんてことがバレたら、いじめられちゃいそうだもの」
「……うん」
「それにご近所の人と話すときも、しっかりしているところを見せつけてあげなさい。顔を合わせたらきちんと挨拶をして――あなたさっき、商会の職員さんから声を掛けられても全部無視したわよね? いくら泣いていたからって、アレは褒められたことではないわ。人として最低ね」
キッパリと断言すれば、カガリの喉が「ヒッ」と鳴った。顔を歪めてしゃくり上げるのを耐えている。でもプルプルと震えて、今にも泣き出してしまいそうだ。
「……だけど、まだ8歳だからやり直せるわ。これから変われば良いのよ、まだ間に合う」
「うん……でもお姉ちゃん、ママと近所のおばさんが一緒に居る時はどっちの顔をすれば良いの? 外でしっかりしたら、ママやパパにもバレちゃうんじゃあ……」
「その時は、思う存分バカになれば良いじゃない」
「バ、バカ?」
「思いっきり母さんに甘えるバカになりなさい。近所の人はきっと「あらあら、カガリちゃんってば外ではしっかり者なのに、お家では甘えん坊さんなのね~。そんなにママが好きなの~?」とかなんとか、言ってくれるわよ」
アドバイスが少々投げやりになったのは、私にそんな経験がないのだから仕方がない。
――でも、あの母のことだ。「外ではしっかり者なのに」なんて前半の言葉よりも、「お家では甘えん坊」「そんなにママが好き」という後半の言葉に釘付けになるに違いない。
仮にカガリが外で自立していたとしても、大した問題にはならないのだ。ただ母の前では何もできない子供ならば――誰よりも母を頼れば、それで良い。むしろ内と外で態度が違うことに、特別感を見出すかも知れない。
……きっと私も、そうするのが正解だったのだろう。内も外も関係なしに肩肘を張って生きたばっかりに、自分と母の首を絞めた。




