第15話
私が帰宅すると、扉の開閉音を聞きつけたカガリがタターッと駆けてくる。奥からは「転ぶわよ!」と焦ったように注意する母の声が聞こえてきて、すぐさま「好きにさせれば良いじゃないか」と父の穏やかな声が続く。
カガリは私の姿を見るなり蕾が開くように笑って、勢いよく飛びついてきた。
「おねーちゃん、おかえりなさい! 今日帰ってくるの遅ーい!」
「ただいまカガリ、遅くなってごめんなさいね」
遅いと言ったって、商会でゴードンと話していたからいつもより30分ほど長居しただけだ。しかしたった30分遅れただけで、カガリはギュウときつくしがみついて離れない。
今のところ母の願い通り、甘えん坊のワガママ姫で1人では何もしたがらない、子供らしい子供に育った。
5歳になってもいまだに自分の手でスプーンを使わないし、コップだって持たずに人の手ずから飲む。1人で着替えなんてできるはずもなく、お手洗いも介助が必要だ。
父母が構いたがるというか――過度に世話をしたがるから仕方がないだろう。手伝いを求めれば求めるほど、これでもかと褒められるのだから……カガリも、これが悪いことだとは思っていないはずだ。
家の外では必ず誰かの腕に抱かれていて、自分の足で歩くことも少ない。そのせいか、少しだけ周りの子より体の発育が遅れているような気がする。近所の同年代の子たちは、外を駆け回って遊ぶのだ。時に転ぶとケガをすることもあるけれど、やはり体を鍛えるには適度な運動が必要不可欠だと思う。
カガリの手足はほっそりと柔らかくて、筋肉なんてひとつも育っていない感じだ。小さい頃から鍛えすぎるのもよくないだろうが、動かなすぎるのも体が大きくならないのではないかと心配になる。
――まあ心配したところで、父母が好きにさせろと言うのだからどうしようもないけれど。あまり厳しくして私が父母から責められるのも面倒だし、カガリがしっかりすると途端に父母から見放されてしまうのではないかと思うと、下手なことはできなかった。
とは言え、今は良くても父母が他界した時どうなるのだろうか。1人きりでは生きられないなんてことになったら、この子をどうすれば良いのか――。
「……ああ、でも、平気よね。これだけ可愛ければ周りが放っておかないでしょうし」
思わず漏らせば、カガリが不思議そうに首を傾げて笑った。「カガリ可愛い?」と訊ねられて、私は「ええ、可愛い!」と答えて小さなお腹をくすぐった。
例え両親が居なくなったとしても、これだけの美少女だ――次から次へと縁談が舞い込むだろうし、「カガリは何もしなくて良いから嫁に来てくれ」という男は腐るほど居るだろう。
キャハハハと高い笑い声が廊下に響くと、母が優しく微笑みながらカガリを迎えにくる。
「セラスお姉ちゃんはお着替えがあるのよ~」
「あー! ママやだー! おねーちゃんがいーのー!! 今からおねーちゃんがカガリのママよ!」
母に抱き上げられると、カガリはそんなことを言いながら暴れるから内心ヒヤヒヤしてしまう。
きっと母は誰よりもこの子から求められたいのに、肝心のカガリは四六時中共に居ると母に飽きてしまうらしい。父のことは家庭内で唯一の異性として別枠と捉えているし、朝から夕方まで家に居ない姉のことをどこか特別視しているのだ。
日中はこれでもかと母に甘えて愛を確かめて、夕方以降は姉に可愛がられたい欲があるのだろう。この子はたぶん、全員から平等に愛されたいのだ。物心つく前から皆に構われ続けているせいで、少々度を越えた承認欲求を抱えてしまったのかも知れない。
この子が愛に飢えないようにと言われたから構い倒しているのに、これではまるで、ひび割れた花瓶のようだ。どれだけ水を注いだって、器に穴が開いていたら全て漏れ出してしまうのだから意味がない。飾られた切り花は、満足に水を吸えずにすぐ萎れてしまう。
母は暴れるカガリを強く抱きしめて、「お着替えの間だけ、ママと一緒に待ちましょうね~」と優しく囁いた。着替えの間だけと言いながら、どうせこの後も食事だから、入浴だからと何かと理由をつけて、絶対に手放さないことを知っている。
こういう時だけ、父母の口から「カガリの好きにさせなさい」という言葉が一切出なくなるのが少し笑える。私にカガリを愛せと言いながら、『母親の役割』を奪われて堪るかとでも思っているのではないだろうか。
「セラス、早く着替えてきなさい。ご飯の準備できてるから」
「……ええ」
腕の中でモゾモゾと動くカガリの背を叩きながら、母は私を一瞥した。
――こんなことで嫉妬して冷たい目をするくらいなら、いっそ「カガリを愛せ」ではなく「カガリに嫌われてくれ」と言えば良いのに。そうすれば、家庭内で母が唯一カガリに求められる女性になるだろうに。
ゴードンには「まだ早い」と言ったものの、早く結婚して実家を出たいと思い始めてしまった。カガリが間に立ってくれたとしても結局、母は次から次へと私に対する不平不満を募らせるのだから。