愛花
土曜の昼に本屋さんから家に帰る途中で女の人から声を掛けられる。
なんだ? と思ったら愛花さんだった。言いづらそうに「あの、ちょっとお話したいんだけど時間あるかな?」切り出される。「いいですよ」答えたら「じゃあうちまで」愛花さんが歩き出したので、え? 外じゃないの? って思いながらも私は愛花さんの後ろをてくてくついていく。私はあの日以来行ってなかった例のマンションのエレベーターに乗って十三階で降りる。1313号室に入って、リビングに通される。美音ちゃんと遊んでたときに何度か入ったことがあったが、上等そうなきれいなテーブルと椅子が部屋の中心にあって画素数が高そうな薄い大きなテレビがあって部屋の隅には観葉植物がある。カーペットは床暖房が利くタイプのもので、物は少ないけどその少ない物には金がかかってる印象のある部屋だった。のは前にきたときと変わらないんだけど部屋の奥からゴミの匂いがしてちょっと「ん?」と思う。
「お昼ってもう食べた?」
「いえ、まだです」
なんも考えずに返事をしたら、ちょっと話すだけのつもりが愛花さんはキッチンの方でパスタを茹で始めてフライパンでソースを作ろうとしてる。「あ、あれ? どこかしら」不穏そうな声が聞こえてくる。七分ほどでパスタが出てきたんだけどそのカルボナーラは生クリームが固まりかけてて食感が最悪で全然美味しくない。
愛花さんも一緒にパスタをつついてみて自分で「美味しくないわね」ぼやいたかと思えばそのまま机に突っ伏してすすり泣き始めた。
「わたし、あの子に、長いこと、作ってあげてなか、なかったから」
いまさらそんなのずるいよ、愛花さん。
気の利いた愛花さんの友達とかだったら「あなたは悪くない」、「運が悪かったんだよ」、「どんなに注意してても起こり得てしまうことなんだよ」とかって励ましてあげるのかもしれないけれど私はこの人が愛情を注いであげなかったから美音ちゃんが外に愛を求めていって変質者に捕まったことをかなり正確に知っている。
私はこの人にまったく同情できない。
食感の悪いパスタをつつきながら妙に冷めた気分と目で愛花さんを見る。
ああ、この人、たぶん罵ってほしいんだな。
たぶん愛花さんは外面がすっげーよくて友達とか仕事先の人とかからの評価はものすごく高い。パリッとしてスーツ着こなして役職があって収入が高い。職場の人たちは愛花さんを慰めてくれたんだろう。この人からは美音ちゃんと同じにおいがする。みんなの理想。美しくてタフな人間という自己像を他人にも自分にも魅せることに長けている。それで“なんでもできる自分”を仕事場で作り上げることに勝手に疲れちゃうんだ。それがこの人の「疲れてるから明日にして」の正体だ。でもこの人は頭がいいから美音ちゃんが死んだ時点で自分にも過失があることがほんとのところわかってるからそうした他人からの慰めが的外れに感じてしんどいんだ。
じゃあいいよ。
私がおまえを罵ってあげる。
美音ちゃんの代わりに。
「おまえのせいだろうが」
美音ちゃんの声と口調で私は言った。
愛花さんが泣きながら私を見上げた。
「おまえが私のことほったらかしにして金だけ渡して放り出したからこんなことになったんだろうが。だから私は楓に見捨てられて、今度は頌子に見捨てられるのが怖くて男に救い求めたんだろ。いまさら泣くんなら放り出すんじゃねえよ。ちゃんと最初から捕まえてろよ。あいつから親権とったんなら最後まで面倒みてよ。なんだよ疲れてるって。私の方が疲れてたよ。学校行って自分の面倒見て。飯作ってゴミ捨てて。産んだならちゃんと愛してよ」
がたんとテーブルから崩れ落ちた愛花さんが私の足に縋り付いて「ごめんね。ごめんね、美音……」ってずっと謝っていた。
ずっとずっと謝っていた。
私はわかんなくなる。くそみたいな人間はいるにはいるんだけどみんなそれぞれ事情があって、例えばこれまでの私の人生の登場人物の中で最強にくそくそのクソのキングオブクソ野郎は美音ちゃんを殺した杉山健人だ。ネットで情報漁ってると杉山健人の供述とか出てきてあいつが幼少期からいじめられてて勉強頑張っていい大学に入ったのに、染みついた人間恐怖から就職に失敗して閉じこもりがちになって美音ちゃんと出会って傷舐め合ってどうにか前を向こうとしてたこととか書かれてたけど、結局本質的なところあいつはただ性欲を美音ちゃんに向けて拒絶されてカッとなって殺した頭のイカれた異常者だ。愛花さんのことも私は美音ちゃんを脅かしているくそみたいな人間だと思ってたんだけど、旦那さんが美音ちゃんに期待してただけの音楽の才格がなくて荒れがちだったのを離婚って方法で親権とって救いだしたのはこの人なわけで。少なくともいまこうしてぼろ泣きして美音ちゃんを喪ったことを本気で後悔してるように見える。通夜にも出てこなかった旦那よりは千倍くらいこの人のがましなんだろう。
だったら失わないうちに愛してやれよって話なんだけど、いろんな事情ががんじがらめに絡まってそれが難しかったんだろうともなんとなく思う。それでもやっぱりこの人が愛してあげなかったから美音ちゃんはああなったわけで愛してあげれるのはこの人しかいなかった。なにがどれだけ「仕方なかった」のかが私にはわからない。
ねえ、美音ちゃん。
美音ちゃんはこの人をどうしたい? わかってるよ、憎いわけじゃないんだよね。
ただしんどかったんだよね。
あなたのこと愛してるよってこの人の口から聞きたかっただけなんだよね。
抱きしめてほしかったんだよね。
この人に対して美音ちゃんが過度な復讐を望んではいないのがわかるから、私は愛花さんの背中を力なく叩くに留める。