わたし
「話しあるからうちに来て」
美音ちゃんが私の襟を捩じり上げたあとの放課後にそう言った。私は美音ちゃんの後ろをてくてく歩いて学校から細い道を十五分くらい行ったあとに車通りの多い大通りを挟んだマンションの中に入る。控えめに言えば私は有頂天だった。美音ちゃんのおうちにいけるなんて。美音ちゃんが私を誘ってくれるなんて! ふつうに遊びに誘ったわけじゃないことなんて重々承知してたけどわくわくとどっきどきが抑えきれなくて頬が熱かった。
狭いエレベーターの一室に美音ちゃんといると首筋あたりからほのかに汗の甘い香りが漂ってきてうっひょーって気持ちになった。私は美音ちゃんを部屋で押し倒す自分を想像したけどだいぶ畏れ多かったので途中でやめた。
マンションの十三階の廊下を景色を見下ろしながら歩いてたら、人間が蟻みたいに見えたし遠くに見える大きいはずの建物でもてのひらに収まりそうだった。美音ちゃんみたいな人間はマンションの高い空に育てられるのかもしれないと私はなんだか素敵な発見をしたみたいで嬉しくなる。美音ちゃんが1313号室の扉にカギを突っ込んで回した。首でふいと私を促して自分は先に入る。美音ちゃんの自宅。玄関から入ってすぐの細い廊下、左手の扉二つのうち奥側が三分の一くらい開いていて洗濯機がある、おそらく洗面所とか風呂。もう片方のはたぶんトイレ。廊下の奥側のやつは扉に張られたガラス越しに広いスペースが見えてリビングとキッチンっぽい。美音ちゃんは右側の扉を開けて入った。私もそれに続く。美音ちゃんがベッドに腰かけた。私は美音ちゃんを見た後にそれとなく部屋を見渡す。シングルのベッド、枕元に置いてあるピンクのくまのぬいぐるみ、爪が長い。壁紙は白い。小さな机には参考書とノートが開きっぱなしになっている。小さな本棚、漫画が入ってる。姿見の中で私が私を見つめ返していた。
「おまえなんなわけ」
美音ちゃんが顔を歪めて言った。
「はて。なにとは」
もっと具体的に言語化して欲しい。
抽象的な言い方を拾えるほど私は頭がよろしくないのだ。
「見たんだろ」
「うん」
それはそう。
「あんなの欲しかったの?」
試しに訊いてみる。
「べつに」
「じゃあなんで盗ったの」
「なんとなく」
ふうんと思った。私はなんかの本に書いてあったことを思い出す。盗癖のある子どもは「欲しいからではなく盗みたいから盗む」、「盗む行為自体にスリルがあり、満足感がある」、「動機は見栄だったり、寂しくて親や誰かに注意されたい。注目されたい。関心を惹きたがっている」。ふむふむ。
あ、合点がいった。美音ちゃんは「せっかく盗んでいるところを見つかった」のに「私があんまり関心を示してくれない」ように見えて、拗ねてるのだ。わお、かわいい! 「笑うな」美音ちゃんが鋭い口調で言った。目元もこわい。「これは失礼」私はわきあがってくる口元の笑みをどうにか押し殺した。
「なんで黙ってるの」
「えと?」
「教師とか、周りのやつに言うもんじゃねえの」
「そうなのかな」
美音ちゃんは私を睨む。そんな顔しててもやっぱり美音ちゃんはかわいくてハナとかみずみずしいフルーツみたいで食べちゃいたくなる。じゃなくて。美音ちゃんは私が美音ちゃんに関心を示してないように見えて不満なわけだから、関心を示してあげればいい。でも「美音ちゃんかわいいすてきなりたいやばい」という内心をそのままぶちまけたらそれはそれでやばい。
折衷案。
「じゃあ黙ってるから代わりにお化粧教えてよ」
「はぁ?」
美音ちゃんは嫌そうに片眉を吊り上げたけれど私の顔をまじまじと見てその化粧っ気のなさを認めてなにか考え始める。「……座りな」ちょいちょいと手招きして私をテーブルに導く。自分は化粧ポーチを漁る。色のついてない口紅みたいなものを取り出して私の唇に塗りつける。スポンジで顔をとんとんと叩いていく。刷毛みたいなやつで粉を塗っていく。眉毛を書く。目の下に線を引いて綿棒でラメみたいなものを少しだけいれる。ちょっとだけ考えて頬になんか塗り付ける。その他いろいろなんかしたんだけど途中からなにやってるのかわかんなかった。
「こんなもんじゃない?」
と、言って手鏡を取り出して見せてくる。
「わお」
そこには顔の色が変わって目がぱっちりした私が映っている。素材があれだからかわいいとは言い難かったがましになったのは確かだった。が、自分が多少きれいになったことより嬉しかったのは鏡の中の私がちょっとだけ美音ちゃんに似ていたことだ。同じ人間が化粧を施したのだから傾向が似るのは当たり前かもしれないがそんなことは頭の中から吹き飛んでいた。
「背中」
「はい?」
「背筋伸ばしな。猫背でうつむいてるから舐められるんだよ」
美音ちゃんの左のてのひらが背中に触れて右の指先が首筋に触れる。私の顎をそっと持ち上げる。「それから服。皺だらけじゃん。アイロンかけてるの」、「あんまり」お母さんはもう中学生なんだから自分でやりなと自立を促して怠け者の私はやりたくなーいとその手のことをあとまわしにしてた。
中学生はとくに「攻撃していいやつ」への気配に敏感なんだ、と美音ちゃんは付け足す。
ばっちり化粧の整った自信満々な顔してる人間を攻撃できるやつは少ない。美音ちゃんにとって化粧や身だしなみは武器であり鎧だった。
「脱げ」
美音ちゃんが私の上着を剥ぎ取った。
部屋の片隅からアイロン台を引っ張ってきて、充電してたアイロンを引っ掴んで、特におもしろくもなさそうな顔をしながら私の上着に蒸気をあてて皺を伸ばす。ポケットの中から鍵とか小銭とかを引っ張り出してすっと私の方へ退ける仕草がなんかきれいで私はどきっとする。
「それも」
私のスクールシャツを指さす。え? ええ? 「脱げ、スカートも」ちょっとの間きょどってたけど私は結局言われるがままにシャツとスカートを脱いで下着姿になる。「すぐ終わるけど」とTシャツとよれよれのズボンを貸してくれる。アイロンと美音ちゃんの指が私のシャツとスカートの皺を丁寧に伸ばしていく。
なんかいけないことされてる気分になってきて私は鼻血をぶちまけそうだった。
アイロンをかけおわった美音ちゃんが私に服を返す。私は美音ちゃんによって整えられた服を着直す。姿見を見る。なるほど。服から皺が取れて背筋が伸びただけで元々の私とはかなり印象が変わって見えた。元々は「生まれてきてすみません」って感じだったけどいまは「はじのおおい生涯を送ってきました」って感じになった。はたしてこの差は伝わるんだろうか。