ユハの回想(4)
バニトス上空は、常に厚い雨雲で覆われていた。太陽を拝めないというのは精神的にきついものがある。特に嫌だったのが、ほぼ毎日昼から夕方にかけて降りだす、すごく激しい雨だった。雨に濡れると寒い、雨水を避けても湿気でベタベタして気持ち悪い。
それから雷。最低でも一日に一回は、恐ろしい轟音と一緒に、大地を叩くような大きな雷がどこかへ落ちる。雷による死者も出ているらしく、城砦の中はどこでも危険地帯だと言える。
私たちが今いるこの区域では、大量の製鉄炉が使われている。そのせいで特別異様な熱気と湿気が漂っていて、住むには最悪の環境だった。
この一帯に住む人のほぼ全員が鉄を利用している。必要な道具は何もかも初めから揃っていた。
加工された鉄を、そこの人たちはそのまま使うか、食糧と交換する。だからこの地区はまるごと『鉄工所』と呼ばれた。
この地区の人々は全員、ホットペップの管理下にある。
先導者の一人として一番にバニトスに入ったホットペップは、すぐに行動を起こしたという。
負のマナにあてられ猛烈な不快感に耐えながら、誰よりも前へ進んで見つけたのが、この地区と、炉と、その先にある巨大な建物――ホットペップ邸って、彼は自分で呼んでる――と、裏手にある大きな鉄の坑道だ。坑道だよ、壁に囲まれた街の中に鉱山があるわけ。驚きでしょ。
運のいいことに、ホットペップ邸には鉄鉱石から鉄を取り出す方法と、鍛鉄の方法が図で丁寧に記された書類が――元からそこに――あった。
彼は、バニトスに来て二日目でまず逃走日からの同行者を集め、食糧を分配した。それから、その仲間がさらに信頼できる人物を、三日かけて集めてきた。
「ギャングの連中は腕っぷしは強いが、反面ここでの生活に適応できない軟弱者だ。だから街の入口付近の居住区を拠点にしている。より奥地にあるこの鉄工所までは、恐れから手を伸ばせずにいたんだ」
だから俺が、ギャングがまとまる前にここ――鉄工所――を支配することができた、とホットペップは語った。
入植者の連中に学ぶのは癪だけど、金属製品を自由に作製する技術は偉大で重要だと、あの夜の襲撃で思い知らされた。
鉄があって、鍛える方法がわかれば強力な武具を作れる。調理道具やギャング対策のバリケードなども作れる。必ず需要があるとホットペップは思った。
私が逃げ込んだ夜は、丁度明日から鉄工所を稼働させると彼が意気込んでいた日だった。
ホットペップの思い通り、鉄製品の需要は高かった。稼働から七日もすると、すでにホットペップ邸の倉庫の一つが食糧で埋まった。特に武器の需要が高い。誰もがギャングを警戒して、自衛を意識している証だった。
ホットペップは鉄製品が上手く行きはじめて上機嫌だったけど、私はなんだか悲しくなった。殺伐としてしまったことに。森や高原で穏やかに暮らしていた生活に、いつか戻りたい。そう思っている人たちはたくさんいるはずなのに。
ギャングも武器と食糧を交換しに来ているようで、それが他者と見分けが付かず、彼らに武器が渡ってしまうことが問題になった。
同時期に、ホットペップはさらに人を集め、信頼のおける四人にそれぞれ五十人ずつの人員を預け、馴染みのある弓以外に鉄槍を支給し、ひたすら訓練を行った。
そのひと月後には、ホットペップは自分と雇用している人員をまとめて『カンパニー』と名乗るようになった。
ホットペップもすでに衛兵五十人を持ち、先に組織された四人とその部下五十人は、『カンパニー兵団』と呼ばれ、衣食住の保障と引き換えに外敵からカンパニーを守る役割を担った。
ホットペップの兵は一番隊として、主に邸内とその付近に配置された。
二番隊の隊長はストライドという長身の男性、三番隊隊長はクラール――高原から逃げるとき、私たちを先導してくれた人だ――、あと、名前は忘れたけど四番隊隊長は怖い感じの女の人、五番隊隊長はマントで全身を覆った人だった。それぞれ、鉄工所周辺の警備に当たっていた。
これで、カンパニーはその武力と統制された人員によって、ギャングに対抗する準備が整っていた。
カンパニーとギャングの抗争でもはじまるのかとヒヤヒヤしたけど、どうやらホットペップはそのつもりはないらしかった。武装を固めて睨みを効かせるだけで、とりあえずギャングは派手な動きはできないと予想したんだろう。実際、その通りになった。
この頃になるとホットペップ邸とその付近に全ての炉が移設されて、この一帯は製鉄と加工にだけ注力するようになっていた。ギャングが炉の占領を狙う危険を潰したんだ。どうせ使い方もわからんだろうが、とホットペップは一言付け足してはいたけど。
ホットペップ邸付近に常駐しているのは兵団と、鉱夫、工場労働者のみで、そこから少し離れた地域は、労働者の住宅。もしくは建物を店舗として利用し、ホットペップが許可を与えた店員が鉄製品の提供を行っていた。
この体制に移行する直前、兵団の人物が一般人に成り済まして居住区をうろついて回った。そして、明らかにギャングでないと確信した住民に対して、鉄器店の利用許可証を発行した。
許可証の形式も、それを持たない者にそれがどういうものかわからないよう、ツブのような鉄の耳飾りにして、店舗の人物はその耳飾りがある人物には鉄器を提供する、ない者には売らないという方針を絶対に貫いた。
すると、ギャングはどうしようもできなくって、店舗に強盗に入るようになった。
もちろん、鉄工所の区域内を兵団が巡回するけど、僅かな穴が出来る。連中はそこを狙ってきた。
さて、いよいよ私の話に移る。私はホットペップに拾われて数日は、ひたすら勉強だった。バニトスは私たちにとって未知のテクノロジーだらけで、とにかく全てのものが新しかったので、それらの形と用途を知る必要がある。
これも運のいいことに、ホットペップ邸に絵や図が描かれたすーっごく分厚い本があって、ホットペップの同郷の人たちと一緒に学ぶことができた。
ただ残念ながら、当時文字というものを持っていなかった私たちは、その全てを解読するには至らなかったけど。実物と絵を見比べながらどうにかこうにかした。
文字については、何度かその形や法則性から判読できないかを試したけど、時間も知識も足りなかった。
その後私には個室が与えられて、そこでひたすらこの透明になる異変の研究をすることになった。監督者はホットペップのみ。他の人はこの時私の異変について知らなかったはずだ。
何日も何日も実験だった。
「お前のそれは、練習で身に着けられるものじゃない。正直羨ましいよ。だから、どうにかして異変ではなく、自分の能力にするんだ」
と、ホットペップは言った。私からしたら、身を守ってくれるのは嬉しいけど、心拍数が上がるといちいち体が透けるというのにはどうにも困っていた。体は見えなくなるけど、興奮してるとか、動揺してるとか、そういう内側の部分、心をさらけ出してしまっているみたいで嫌だった。
でも、ホットペップ邸の一室に住めて、服も洗えるし、食べるものもある。実験は辛かったけど、安いものだと思えた。
結論から言うと、心拍数を上げる以外にこの異変を発現させる方法はわからなかった。けど、わかったこともいくつかあった。この異変はどうやら、私の心情にかなり呼応してくれるらしい。
以前、自分の衣服や装飾品も一緒に透明になってくれることを疑問に思ったけど、ホットペップも同じようにそれを疑問視した。ある時、全く誰のかわからない服に着替えさせられて実験をしたところ、その服は透明にならなかった。
この後、その服を私にくれる――ちなみに新品だった。よかった――という旨の言葉をホットペップに聞かされると、段々とその服が透明になっていった。
そこで、おそらくこの異変は、私自身と、私が『自分のもの』と信じたものを透明化させる力があるのだろうと仮定した。この理屈でいけば、例えば透明状態の私が泥をかけられても、泥を自分の一部だと信じればそれすら透明にできることになる。だけど、そういうのは現在まで上手く行っていない。まあ当然か。
それから血液について。これ、実験がもう最悪だった。私の血を付けるっていうのだけでも辛いのに、他人の血、あと動物の血なんかも付けられた……。
とにかく、血液とこの異変は相性が悪い。私の血はもちろん、他人の血だって、動物の血だって、一滴でも体の表面に付着したら異変は解除されてしまう。そして、付着した血液が綺麗に拭き取られるか、固まるかしてからおよそ半日は異変は起きない。
「ごめ……じゃない、すみませんホットペップ……さん。結局、自分の思い通りにすることはできなかった……です」
与えられた実験期間を終えて、私はホットペップに謝りに行った。余談だけど、この頃は丁寧な言葉使いで彼に接するように注意されていた。
「まあ、仕方ないな。なに、仕事中は否が応でも心拍数があがるさ」
この時、丁度さっき言ったカンパニー兵団が組織されてから少し経って、ギャングによる強盗問題が大きくなってきた頃だった。
ホットペップがニヤついているのを見て、私はなんだか、嫌な予感がしたというか、不安になった。
初めて見た頃とは随分と違って、どこで見つけてきたのか、布でできた変な黒い服を着て、髪をオールバックでカチカチに固めた彼は、面と向かっただけでひどく私を威圧した。
「指先が見えなくなってるぞ、ユハ。怖がりめ」
ホットペップが笑いながら言う。ほっといてほしかった。この異変の本当に嫌なところがこれだ。私の動揺が見透かされてしまう。
「いいから、私の仕事ってなんですか」
ちょっとむすっとして言ったら、ホットペップは急に真面目な顔になった。
「奪還だ。盗まれた鉄製品のな」
一瞬何を言っているのかわからなかったけど、身体は先に反応を示して、みるみるうちに透けていった。
「はっ……!?だっ……!?わ、私が?」
「お前なら、というか、お前にしかできない。武力でやり合うのは俺の本意じゃないんでな。奴らのねぐらに侵入して、盗られたものを盗り返して来い。定期的にやってくれれば別に毎日じゃなくてもいい。それだけだ」
「そ、それだけって……帰りに色々持ってたらバレるじゃん!……じゃ、ないですか」
「ポケットの付いた服とカバンをやる。小さいものはポケットに、その他はカバンに入れろ。ただし入れる時は音がしないよう一個ずつ布に包めよ。あと入れすぎにも注意しろ。……擬態している『お前のもの』の内側に『お前のでないもの』を入れたら見えなくなる。これも実験でやったろ」
言い忘れていた。確かにそうだった。実験中、擬態した私の服の内側にスプーンを入れたら、スプーンが見えなくなったんだ。
じゃあ超ロングな、テントみたいなのを着たら、もっと多くのものを内側に隠せるじゃん!って思うでしょ。でも、そんなの見えなくなってても引きずる音が聞こえるし、誰かに踏まれでもしたら危ないし、この仕事には向かない。
「それから、奴らと戦うような事態には……」
「い、言われなくても戦いません!」
「……お前の負傷も憂慮してはいるが、お前は奴らに母親を殺されている。
いざ現場に行ってみて、怒りに任せて奴らを殺したりしないかと心配でな」
「そ、それは……」
ない、とは言い切れないかもしれないと思った。
「血だ。心配なのは。血が付いたら擬態が解けるどころか、半日擬態できなくなるんだろ。
逆に言えば、血を付けない自信があるなら殺しでもなんでもすればいい。ただし個人的にやれ。カンパニーの者だってバレるなよ」
「や、やらないってば!」
ホットペップ、思えばたったひと月で随分むかつく奴になったもんだ……。




